映画『Into the Wild』を見に行った。
10年ほど前、原作の『荒野へ』を読んだ。
1992年に、アラスカの原野の打ち棄てられたバスの中で、青年が死んでいた。アラスカの大自然の中、軽装で冬を過ごそうとする、自殺行為とも取れる無謀な若者の死、で終わる事件だったが、青年は、裕福な家庭に育ち、2年前、大学を優秀な成績で卒業したのと同時に、車も、奨学金の残りも処分し、身をかき消すように、旅に出たのだった。
何一つ不自由の無いような青年の死、全米の話題になったこの死を、原作者ジョン・クラカワが、彼と旅先でであった様々な人を取材し、彼が、終焉のアラスカの地にたどり着くに至った心の変化を記したのが、映画の原作。彼の旅が死で終わったため、何を思い、何を求め、何のためにアラスカで死を迎えるに至ったかは推論の域を出ない。家族とりわけ、父親との確執、もののあふれた文明社会、いい子で過ごしてきた自身への反発、彼の旅の動機は、断定できない。
原作も、淡々と綴られて、特に彼について断定していたわけではない。映画も、彼が見たであろう、アメリカの様々な場所の大自然、奇観、景観が綺麗な映像が連なり、同じ街の数ブロック違いで、スラム街と、金持ちのたむろするカフェ、TVに流れる湾岸戦争開戦を決意するブッシュ大統領の演説。事実とは違うかもしれないが、アメリカ社会の矛盾を感じさせられる場面も無数に描かれている。
単なる自然回帰でも、旅礼賛でも、若者の現実逃避行でもない、答の無い大きな、宿題を与えられるような映画。見終わった今も、答がでない映画。
映画を見て、しばらく経ち、ふと思いついた。弘法大師、空海も同じだったのでは?と。
空海は、讃岐の国の結構裕福な一族の出身。中央に出て、勉強し、優秀な成績を収める。しかし、官職には付かず、大学を飛び出し、沙門となって、山野に分け入り修行に明け暮れる。わが国最初の小説、『三教指帰』を表したのが24歳のとき、その後、31歳で遣唐使船に乗るまでの7年ほどは、記録が無く足取りがつかめない。
唐に行って後、密教の2つの流れ、金剛、胎蔵両方の正統となり、その後中国では絶えた密教を日本で今の世まで伝える。土木工事で巨大な溜め池や、農業灌漑のしくみを作ったり、書を書かせたり、詩を読ませれば、唐の書家や、詩人をも上回り、まさに超人、スーパースターの空海だが、作家司馬遼太郎さんの小説「空海の風景」では、この天才空海も、若いときはただの悩める青年だった、と言う解釈を元に、20代をほぼ、山野での修行に費やした青年佐伯真魚(空海の本名)として描く。
司馬版空海も事実とは違うかもしれないが、『Into the Wild』の主人公と空海に共通するものを感じる。『Into the Wild』の主人公に限らず、世界中に、この2人に似た人間は沢山居るはず。遥か昔から青年は悩み、大自然の中に分け入って、答を見つけようとする。見つけられた人も、見つからなかった人もやがて帰ってくる。が、『Into the Wild』の主人公は、悲しいことに帰ってこなかった。でも、何か答は見つかったかもしれない。帰ってきた空海は、結局、答は見つからず、死ぬまで悩み続けたのかもしれない。
空海については、以前よりずっと気にかけている私。映画や、本を読んだり、あるいは実生活の中で、これからも違う形で空海を発見するであろう。
「生きていること、すなわち空海」
般若心経風に言うと、生即空海。
では空海様、またね!
