『白い航跡』 吉村昭 講談社文庫を読んだ。
ひざの下を叩くと、下肢がぴょーんと跳ね上がる。子どもの頃、人体の構造の不思議と、子ども同士のあそび事、そして、脚気という病気を知った。
『白い航跡』は、明治日本、特に、陸海軍で猖獗を極めた国民病とも言うべき、脚気を撲滅に導き、後の鈴木梅太郎のオリザニン、ビタミンの発見につながる功績を果たした、海軍軍医、高木兼寛の物語。高木兼寛のサクセスストーリー、明治天皇とのエピソード、脚気と日清・日露戦争、脚気をめぐる陸軍、特に軍医総監、森林太郎(鴎外)との激しい論戦、そして草莽期の日本の医療におけるイギリス派とドイツ派の攻防と、ほんの100年ちょっと前の日本人の姿が生き生きと映し出されている。
高木兼寛は、薩摩の穆佐(むかさ)、今の宮崎出身。大工の子であったが、親の理解の下、村の漢学の塾、地頭の勧めで、薩摩城下の蘭方医、石神良策の塾に入り、19歳のとき、医師として戊辰戦争に従軍する。しかし、戦場では、拙い技術で全く役に立たず、関寛斎、佐藤進といった優れた医師の噂を聞くばかり。
戦後故郷に帰った高木は、中央政局で、日本の医学の根本機関を、イギリス、ドイツどちらかにするかで、負けたイギリスの英国大使館付き医師ウイリアム・ウィリスを薩摩藩が独自に招聘し、恩師石神良策と共に学問所を開いたことを知り再度入塾する。その後、石神が新政府の兵部省に出仕し、後を追うように、東京に出、海軍軍医となる。その後はウィリスの出身、英国のセントトーマス大学に留学し、優れた成績で学位を取得し、海軍の軍医総監まで出世する。
東京慈恵医科大学の起源、成医会講習所を作り、留学時代に知ったナイチンゲールの看護婦制度を日本で始めて導入、日本発の看護学校も作る。資生堂の初代福原社長と共に帝国生命保険(今の朝日生命)設立にも関わる。
その高木のライフワーク的なテーマが脚気。
脚気は、江戸時代の頃より、江戸、京都、大阪に多く発生し、心不全等を引き起こす、致死率の高い、原因不明の難病。結核や、現代のHIVにような病気だった。「江戸わずらい」とも言われ、農業生産性が飛躍的に向上し、雑穀でなく白米を食べれるようになった近世の日本人への強烈なしっぺ返し(第2次世界大戦後の日本の食生活と病気の関係に似ている)。しかし、白米に偏り、副食をあまり取らない食事は、ビタミンB1不足になり、脚気は、一躍国民病になっていく。
明治に入り、陸軍、海軍が創設され、田舎の貧乏人が、腹いっぱい白米が、食べれるとして続々入隊した。1日約6合支給。(3食、毎回どんぶり2杯くらいか)副食は現物支給でなく、金給。貯金や、仕送りに回す彼らは次々に脚気を発症し、死んでいく。海軍の遠洋航海実習で、船が洋上にあるときに発症が多く、停泊や、陸上勤務の時には少ないことに着目し、高木は、白米に偏った食事に原因があると栄養学的見地から、推論する。(ドイツ医学の影響、とりわけ最新の細菌医学の発達より、陸軍と東京帝大医学部は、細菌が原因とした)
幾多の反対を乗り切って麦飯を中心にした食事にしたため、海軍の脚気病者は、
明治15年 発症1928名 死者51名
明治16年 発症1236名 死者51名
明治17年 発症 718名 死者 8名 と激減した。
日清戦争前夜の京城事変の際、出動した戦艦「金剛」「日進」「天城」等は、清国の巨大戦艦「定遠」「鎮遠」とにらみ合いになり、洋上生活に釘付けになった。そのうち船員が次々に脚気を発症し、乗組員の大半が罹病し、戦闘不能状態になるという事件が起こり。海軍は全面的な麦飯支給に変わった。
日清戦争の黄海の海戦、日露戦争の日本海海戦での勝利は、高木の存在なくしては、ありえなかった。
ナポレオンに範を取り、フランス式だった幕府陸軍、新政府陸軍はドイツ式に切り替えた。海軍は世界最強イギリス式を採用した。兵部省は、陸海に別れ、それぞれの医局も、ドイツ式とイギリス式に分かれた。日本医学の総本山東京帝国大学医学部もドイツ派で、日本医学界は圧倒的な勢力を誇るドイツ派に支配される。海軍が、イギリス医学の流れを維持したのは、奇跡的なこと。もちろん高木の努力が大きい。
病気そのものの研究、検証より学究的、学理的に医学を進めるドイツ流にたいして、患者に接し、病状を診断し、経験的に治療法を確立する実際的、実証的なイギリス流。
高木も経験的に白米に偏った食事が原因と推論を立て、麦飯を中心にした食事で遠洋航海実験を行うなど、実証的に病気を解明していく。
それに比べて、陸軍医局と、東大医学部の名だたる教授は、あくまでも、細菌説を取り、高木の成果を知りながらあくまでも反論する。同じく脚気の発症に悩む陸軍は師団、連隊レベルで麦飯を採用し、一応の発症低下を見るも、日露戦争に従軍した兵士は出征地で再び白米漬け、日露戦争、陸軍の従軍110万人、戦死者47,000人に対して、脚気による死亡者27,800名という無駄に人命を失ってしまった。(ちなみに海軍はゼロ)
それでも、森林太郎(鴎外って以外に頑固)らの考えは変わらなかった。後年、来日したドイツ細菌学の父コッホは、「原因の究明は後にして、診断法を確立をするのが先」と無意味な論争をするかつての教え子たちを諭す。細菌説にこだわり、白米食説を排除する陸軍、医学会の態度には、後年の滝川事件や、南北朝正朝論争、統帥権問題と、柔軟さが次々失われ、閉鎖的で狂信的になる日本アカデミズムの姿が、見え隠れしていて、少し暗い気持ちになる。
戊辰戦争時、無報酬で新政府軍に従事し、たくさんの人命を救った医師、ウイリアム・ウィリス。ひょんなことから、極東日本に来て、多くの人命を救うと共に、数々の教え子を育て、そのうちの一人、高木が脚気治療法をの確立、後のビタミン発見の成果へとつながる。アイルランド生まれのウィリスは、幼少期父親から酷い虐待を受ける。その父から離れるため、遠く日本に来て医師となる、イギリスの勢力が弱まると共に不遇の晩年をすごしたが、ウイリスなくしては、高木の物語は語れない。さらに、江戸期の蘭方医、明治初期の留学組と、日本の医学草莽期の多くの医師と、その努力が今の日本の医療水準を作ってきている。
日々進化する医療技術と追いかけっこしながら診療をするドクターの焦り、悩みは、このころから運命付けられていた。その拠り所として、自分の学説にしがみつきたくなる心情もわかる。それを乗り越えて、新しい治療法を確立してきた医師たちに感謝。