肝炎訴訟と行列のできない裁判官 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

全国各地方で行われているC型肝炎薬害の裁判。東京、大阪、名古屋、福岡と、国、製剤会社に責任があるとした判決に続いて、昨日の仙台高裁では、初めて、国に責任はないという判断が示された。


判決結果を受けて、原告の、悔しい涙の会見を見ながら、何か釈然としないものがあった。山口県光市で起きた母子連続殺人事件の裁判、被告側の強力な弁護団が、公判を進めるにつれて、被告にしゃべらせているような信じられないような動機に、殺された母子の夫、親である遺族は、2次的に屈辱、怒りを味あわされている。殺したという事実を認めているものの、今は、殺し方とか、殺したときの心情など、聞くに堪えない陳述を延々と繰り返している法廷は遺族に第2の殺人をおかしているようなもの。弁護団の懲戒請求を呼びかけた橋下弁護士、気持ちはわかるけど、本当の問題は裁判制度かもしれない。


裁判制度が、被害者、その遺族をさらに苦しめている凶器になっている。


C型肝炎は、いずれ、肝臓ガンに発展する恐ろしい病気。薬害エイズのときと、同じ構造。人は全知全能ではないが、怠った努力、払われなかった注意義務に対しては、積極的に責任を認めていこうというのが最近の訴訟の判決の流れ。これまでは、公害や、欠陥品の訴訟など、企業や国に遠慮した判決が多かったが、個人が勝つ裁判も多くなった。しかし今回の、肝炎薬害訴訟、仙台地方裁判所の畑中芳子裁判長は、その流れに逆らう判断。明確な過失行為でなければ、責任は問われないとするもので、自分が関係する法廷の場では、絶対会いたくない裁判長だ。


しかし、同じ内容の裁判なのに、なぜ裁判長で、結果が違うのか


以前にも書いたが、裁判の決定を下す裁判官は、自分で調査し、自分で法律に照らし合わせ、自分で判決を下す。所属する裁判所や、国として判決するのではなく、その人個人の名で、個人の責任において判決を下す。今回は、言ってみれば、畑中裁判所の判決ということになる。これは、裁判官の自由な判断が、他の国家権力から影響・圧力を受けないようにということで決められているが、このため裁判官によってバラバラな、場合によっては正反対の判決がでる。もちろん画期的な判決がでることもある。そして、同じケースでも、あらためて裁判を起こさなくてはいけない(今回も肝炎訴訟も全国各地で行わなくてはいけない)という煩雑さを生んでいる。


『行列のできる相談事務所』というTV番組がある、今やお茶の間の人気者となった弁護士。同じ案件でも、弁護士によって、有罪、無罪全く意見が分かれる。しかし担当した弁護士よりもっと厄介なのは、法廷での裁判官。どれだけ有名で、能力のある弁護士でも最終的に判決を下すのは裁判官。行列のできる弁護士なんて実は当てにならないのである。裁判所の世界、なかなかTVカメラの入れない世界で、どういうことが行われているのかわからないけど、最近は結構、裁判官の異常ぶりがもれ聞こえてきだした。


sao


では、弁護士は選べるが、裁判官は選べるのだろうか?


ネットで検索すると、裁判官忌避の申し立てというのが出来る。被告、原告と裁判官が何らかの接点、親兄弟、親戚、友人、知人と接点がある場合は認められるようだが、あまり実例は無いよう。つまり、担当した裁判官で判決が180度ちがっても、仕方が無いのである。残りの人生、病気と屈辱に苛まれても、”仕方が無い”で、終わってしまうのである。


数年後、一般人をランダムに選択し、法廷に連れてきて、法律知識を速習させ、裁判の判決を考えさせる『裁判員制度』が、始まる。今回の畑中裁判長のケースを見ると、この裁判員制度、本当に慎重に運用しなくてはいけない。いや、何となく無理がありそう。今の裁判制度そのものに多くの問題があるのに。


『行列のできる法律相談事務所』を作ったスタッフ。今度は、『行列のできる裁判官』という番組を作って欲しい。もちろん、知りたいのは、行列が出来ない方の裁判官。


今回の原告、その汚された名誉が回復する方法はないものか。