生まれて初めて、働いて、お金をもらったのは、ぽん菓子製造のお手伝い。
小学2年生のとき、友達のてっちゃんと、公園に遊びに行くと、なにやらポーンというすごい音と、珍しい機械の前にオジサンが座っている。ハンドルをぐるぐるぐるぐる回し、しばらくすると、暑く熱を帯びた機械の上の部分にハンマーを叩きつけると、ポーンというすごい音と共に、前部に取り付けられたかごの中に、白い粒々が飛び散る。それが、ぽん菓子で、香ばしい香りが辺りに広がる。遠巻きにしていた、近所のおばちゃんが寄ってきて、どんどん買っていく。
それを何度か繰り返すと、おじさんが、「やってみるか?」というので、2人で、ハンドルをぐるぐるまわした。ひたすらぐるぐる回した。ハンマーで叩くのはおじさんの役目。今考えると、ぐるぐる回すのが大変なので、子どもにさせていたのだが、僕とてっチャンは、何度も何度もハンドルを回した。
一通り売れ終わると、おじさんは、僕らに駄賃として、250円くれた。100円以上のお金を持ったことの無い子どもにとって、超大金!ジュースとアイスが同時に買えた!そして、手はくたびれたけど、とても嬉しかったことを覚えている。最近になって思うのは、お金の額の大小ではなく、やはり、働いて、くたびれたことが報われたことが嬉しかったのかもしれない。この出来事を、いまだに憶えているくらいだから。
その、ぽん菓子製造機の由来を、お盆にTVでやっていた。
ぽん菓子製造機を作ったのは、大阪の吉村利子さん、今年82歳。大学で物理学を習い、戦争中、小学校の教師になった。子どもたちに少しでも栄養のあるものを食べさせたくて、当時ベルギーから設計図を取り寄せて、作ろうとしたが、戦争のせいで、鉄が手に入らない。やっとの思いで、北九州の製鉄所で手に入れ作ったという。
戦後は、このぽん菓子機をもって、日本中を旅する業者が増えた。材料の米は、お客さんに自分で持ってこさせ、焼いて、ビニルにつめて返す。そして加工賃をもらう。元手の少なくてすむ露天商。私が小学生のの70年代頃までは、たくさんのそういった業者が居たはずだが、今は、フリーマーケット等の出し物として見かけるくらい。
今、『山本五十六』『米内光政』等の戦時中の海軍ものの小説を読んでいる。軍部、政治の世界で、戦争をどう回避するか、どう終戦に持ち込むか、焼け野原の日本をどうするかといった指導者の歴史。そういった偉い立場の人の苦労も重要だが、吉村利子さんのような、市井の人の努力も忘れてはならない。吉村さんのような日本人がたくさん居たから、今の日本があるのだろう。平和であること、子どもたちに満足な栄養をあたえることと同時に、私には、「働くことの意味」も教えてくれたのだから。