『零式戦闘機』 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

『零式戦闘機』 吉村昭 新潮文庫 を読んだ。


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ライト兄弟の初飛行が、1903年。

日本国内初飛行は、1910年(明治43年)。その後、昭和5、6年ごろまで、国産の飛行機は無く、全て、外国の飛行機のライセンス生産と、招聘された外国人技師の指導による生産が、日本の航空産業だった。


三菱重工名古屋飛行機製作所が、艦上戦闘機をはじめて製作したのは、大正10年(1921年)。それでもまだ、外国機の模倣設計による生産で、日本人オリジナルのものではなかった。そんな中、昭和7年(1932年)上海事変が勃発。航空機の重要性をかんがみ、海軍では、日本独自の戦闘機を作る七試(昭和7年度の意)海軍機試製計画が、立てられ、三菱にも、純国産の戦闘機を作るように命じられた。

三菱は堀越二郎技師を中心とした設計チームを作り、従来の複葉機(翼が2枚重ね)、有支柱パラソル単葉機(セスナみたいに翼を支える柱のある飛行機)でなく、低翼単葉機(機体の下から翼が広がる形)を採用。しかし、七試での採用は、わずか川西飛行機製作所の1機のみ、三菱のチームは失敗に終わった。

そして、さらに厳しい仕様要求の、九試海軍機試製計画でも、引き続き三菱は、低翼単葉機の開発を続け、海軍の要求する時速350㌔を、100㌔も超える時速450㌔を計測。当時の世界最速の戦闘機を作った。そして、96式艦上戦闘機として正式採用された。

この開発に気をよくした海軍は、12試海軍機試製計画で、時速500キロ以上、20ミリ機銃の装備といった遥かに高い要求を求めてきた。機体を徹底的に軽くすること、小さくて大きな馬力を出す発動機の採用、超々ジェラルミンESDTの採用等あらゆる努力が続けられ、最高時速509㌔を記録する1号機が、昭和14年9月、海軍に納入、さらに、不具合を取り除き、試験を重ね、昭和15年、皇紀2600年の下2桁をとり、00式戦闘機、零式戦闘機の誕生となった。


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昭和12年、盧溝橋事件を皮切りに全面戦争になった日中戦争

ゼロ戦の最初の活躍の場は、中国の漢口、重慶、英米ソの戦闘機を駆逐し、中国の空から一掃、その驚くべき能力の高さを示した。

ゼロ戦は増産され、世界最新鋭の純国産戦闘機は、戦場にどんどん送られる。


昭和14年(1939年)9月1日、欧州で第二次世界大戦勃発。

昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争勃発。


日本軍による真珠湾攻撃とともに、台湾からフィリピンへのゼロ戦の攻撃成功。マレー沖会戦の勝利。グアム、ボルネオ、ミンダナオ、ウェーキ、シンガポール、イギリスの戦闘機も駆逐し、日本軍は連戦連勝。その勝利にゼロ戦はおおいに活躍した。


ゼロ戦も三菱だけでなく、中島飛行機製作所でも生産、生産性を上げるため、紡績工場を戦闘機工場に転用、学生、女学生による早朝から深夜までの生産体制になった。


しかし、本来の工業力が違うアメリカ。その物量の差は歴然としており、開戦後1年、ミッドウェイ海戦で敗戦する。ガダルカナル撤退、ラバウル放棄、アッツ・キスカ島玉砕、ソロモン群島撤退と日本はどんどん後退する。

P-38、F4U等、新鋭戦闘機、サッチ戦法という対ゼロ戦用の戦闘方法、本気を出したアメリカの前で、ゼロ戦による戦果は乏しくなる。いや相変わらず戦果は上げるものの、あとから後からやってくるアメリカ機に日本の航空戦力は消耗する。ミッドウェイ海戦後の海軍保有機は1498機(うちゼロ戦492機)、一方アメリカの17年、18年の増産計画は、6万機と、12万5千機、その60から70%が達成可能と見られており、彼我の物量差は歴然としていた。


マリアナ沖海戦、サイパン、グアム、テニアン陥落、レイテ沖海戦、フィリピン撤退、硫黄島陥落、沖縄戦と続く。レイテ沖海戦では、爆弾を積んで敵に体当たりをするという特攻先方が採用され、ゼロ戦もその能力ではなく、単なる人の命と、爆弾をぶつけるだけの道具になって行った。充分な訓練をつんだ操縦士も不足していった。パイロットが生き残れば、飛行機はいくらでも作れるというアメリカと、全く正反対の考えが、特攻攻撃を生み出したのかもしれない。


硫黄島を手に入れたアメリカは、日本の戦闘機の届かない、高高度からの日本の諸都市への空爆を開始した。三菱重工名古屋飛行機製作所も、18年末で、4万6千人の従業員、徴用工、女子挺身隊、勤労学徒が全国から集まっていた。その工場を昭和19年12月7日地震が襲い、男女中学生を含む57人が死亡。さらに10日後、B29の空爆により、215名の犠牲者を出した。生産体制を維持したい軍の圧力により、空襲があっても作業はやめられず、防空壕も工場敷地内という、悲惨な死であった。生産をストップさせた三菱は、各地方都市へ分散、そこも狙われだした後は、さらに工場を疎開させて全国に散らばっていった。最後は国道のトンネル内で作られた飛行機もあった。


ゼロ戦は、軽量化のため、操縦席、燃料回りは薄い鉄板で、人命は軽視。海軍には伝統的に「攻撃は最大の防御」という観念があったため。しかし、戦闘機を増産しても、パイロットは、短期間では育たない。特攻や、無理な戦法で人がどんどん死んでいく。


この小説、前半は、ゼロ戦という空前の”技術の結晶”を作る男たちの姿を描き、苦難の開発物語として、当時の技術者たちに感銘・感動はするが、後半、パイロット、工場の学生の命を軽視するような、軍首脳。何より、ゼロ戦が華々しく活躍するということは、敵の多くの人命を殺傷してきた事実が連ねられ、単なる「プロジェクトX」的な物語ではないことがわかる。吉村さんが描く、戦記ものは、吉村さんの感情・主観はほとんど入らない。しかし、だからこそ、一掃、いろんなことを考えさせられる。


8月15日、奇跡的に残った鈴鹿工場で、玉音放送を聴いた学徒らは、自分たちの努力が無に終わったことを知った、とある。そう、戦争が、残すものは”無”だけなのかも。