『陸奥爆沈』 吉村昭 新潮文庫 を読んだ。

旧海軍の最強の戦艦といえば、大和、同型艦の武蔵、長門、同型艦の陸奥と続く。大和と武蔵は、太平洋戦争中でも、最高機密で、一般の人に存在が知られるようになったのは、戦争末期。そのため当時の日本人にとっては、長門型戦艦の2番艦である陸奥が、海軍の、ひいては日本軍の強さの象徴であった。
その、戦艦陸奥は、昭和18年6月8日に謎の爆発を起こし、山口県岩国市沖にある海軍の停泊地、柱島付近の海底に沈んだ。
『陸奥爆沈』は、昨年亡くなった吉村昭さんが、昭和45年に出した本。戦闘で沈没したのではなく、停泊中の謎の爆発によって沈没したため、また敗戦で、旧海軍が大量の機密資料を廃棄したために、事件の真相を語る資料が少ない。吉村さんは終戦24年目に、当時の事件を知る生存者や、奇跡的に残った文書を探し当て、その真相にせまる。電話帳や苗字だけの情報、高齢の証人の曖昧な記憶から真相を手繰り寄せる様は、事件を追う老練な刑事のようで、戦争文学と言うジャンルで、戦争の狂気、その中の組織の論理や、理不尽な人の行いを描いてきた吉村さんの執念を感じる1冊。
陸奥が爆沈したのが6月8日。連戦連勝だった日本軍もミッドウェイ海戦以降守勢に入る。ガダルカナル島撤退。5月29日、北太平洋、アッツ島守備隊玉砕。6月5日には山本五十六元帥の国葬。厳しい戦局になる中、日本海軍のシンボルである陸奥の爆沈は、物理的に、精神的に大打撃であった。
事故直後、呉鎮守府(柱島と広島の呉は、間に江田島等の島を挟んで近距離)を経由し、海軍省に連絡。その後、様々な部署の人間が、一気に事後処理のために動く。
①敵潜水艦、戦闘機の攻撃とみて、僚艦は戦闘体制になる。(直ぐに敵の攻撃でなかった)
②水雷艇等により生存者の救助。
③呉より警備隊を廻航させ、漂流物の回収と、周辺漁民、村民への情報統制。遺体の焼却。
④原因と見られる3式弾を持つ海軍の全ての艦船から、砲弾の撤去、揚陸。
⑤海軍省で、査問委員会(現代の事故調査委員会)の編成、10日には、全員いちはやく呉鎮守府に現地入り。
⑥呉の救難隊(海保の海猿のような部隊)による潜水調査。
⑦呉鎮守府、海軍工廠の情報の統制、手紙郵便物の検閲、人の出入りの管理。
査問委員会は、①3式弾、②装薬、いずれが、原因かを突き止めるため、救難隊が引き揚げる遺物や、沈んだ艦の状況、生存者の証言、実験を繰り返し、装薬の爆発という原因にあっという間に行き着く。(JR福知山脱線事故の最終報告が2年以上かかるのに比べてなんと迅速なことか。)
しかし、ここで、査問委員会は、装薬爆発には、自然発火でなく人為的な力で無ければ起こらないと言う事実に突き当たる。内部犯行説、スパイ工作員説に絞られる。
吉村氏は、ここで、過去の軍艦爆沈事件を調べる。
明治38年 戦艦三笠・・・バルチック艦隊を破り、佐世保に帰港したまさにその夜。
明治41年 戦艦松島
大正元年 戦艦三笠
大正元年 巡洋艦日進
大正6年 巡洋艦筑波
大正7年 戦艦河内
6件のうち、乗組員の行為によるもの3件。同じく人為的と確実視されるもの2件。原因不明2件。日進の場合は、乗組員、古田三吉が、学歴が低いため、昇進の道が絶たれ、自分を評価しない上官を逆恨みし、火をつけたもの。いずれの事件も、人為的であったことは、ほとんど公表されていない。都合の悪いことは公表しない。組織防衛の原則が、ここでも発揮されている。
陸奥の場合も、早くから、一人の2等兵曹が、疑惑に上っていた。以前より窃盗癖のある2等兵曹は、陸奥艦内でも、同僚の金品を度々盗んだ。疑惑の目を向けられ、上官が、呉の法務部に相談しに行った6月8日に爆沈は起こった。上官が、不審な行動をとらない様に見張りをつけていたが、爆発時には見失っていた。爆発箇所砲塔に詳しい2等兵曹が、自らの身の破滅を予感し、将来を絶望し、火をつけたのではないかという話は、生存者の間ではずっと話されていたことらしい。もちろん公式の記録にはない。
この2等兵曹も貧しい農村の出身。関東軍の暴走や、統制派、皇軍派の争いといった悪いイメージのある陸軍に比べると、開明的で、颯爽としたイメージのある海軍。しかし、海軍の中でも、厳然と貧富の差があり、使い切れないほど給料をもらう士官が居る反面、ぎりぎりの給付で勤務する下級乗組員もいた。今で言う格差がここにもあった。下級乗組員の中には、前科者も居たようだ。そういった、虐げられたものが、恨みや、自暴自棄で爆沈事件を引き起こしたのでは、と。戦争そのものでなく、社会にある矛盾が、様々な悲劇を生んでいった。
『陸奥爆沈』の話は、まだ終わらない。
乗組み員、1474名中、死者行方不明者1121名。陸奥爆沈後、この事実は、当分の間発表しないこととした。突然手紙のやり取りが途絶えた、乗り組員の家族には、情報統制がされ、353人の生存者のうち重軽傷者39人を除く314名は、情報隠匿のため、前線に送られることになった。サイパン、タラワ、ギルバート、陸奥生存者は次々と絶望的な戦地を転戦し、死んでいく。陸奥というシンボル的な戦艦が不名誉な爆沈をしたばかりに、新しい悲劇を生んでいく。終戦時に生き残ったのは60人ほど。重軽傷者とあわせて100人ほどが、陸奥の生き残り。
戦争の愚かさ、軍人の愚かさと言って終わるような話ではない。社会のひずみ、矛盾は、吉村さんが書いた昭和40年代半ば、田中角栄が日本中にブルドーザーを走らせていたなかでも、37年たった2007年でもある。社会の中でつまはじきになった者が、悲劇を起こし、さらに悲劇を重ねていく人間が出てくる。
7月31日は、吉村昭さんの一周忌。吉村さんの戦争文学は、昔を描きながらも、いつも、今の日本人に問題を突きつけてくる。