知人に久しぶりに会った。
10歳の娘さんが居る。
学校、先生の話になった。いろいろ、びっくりする話が出てきた。
① 給食を残す子
好き嫌いがあって、給食を残す子が居る。昔は、「給食のおばちゃんが一生懸命作ってくれた。栄養があるから」と、残さず食べるように、さんざん言われた。どうしても嫌いなメニューがあるときは、朝から憂鬱だったし、残しちゃう自分に罪悪感を感じていたんだけど。いまは、子どもにそういう思いをさせないように、言わないそうだ。むしろ、少しでも、食べたら、「少しだけど、今日は、そこまで、食べれたの、偉いね!」と、誉めてあげるのだそうだ。残した大部分を攻めるより、食べたちょっとを誉めてやるそうなのだ。叱ったりするんで無く、ポジティブに解釈する。子どもにストレスを与えない。ということらしいんだけど、なぜか違う気がする。
② 遅刻する子
これも、給食を残す子同様、遅れてきたことを責めないそうだ。まず叱るのではなく、休まずに来たことを誉める。誉めるまではしなくても「努力したね」と認めることから始めるそうだ。叱ることで、遅刻より、不登校になることを恐れての対応のようなのだけど、これも違う気がする。
給食を残す子同様、叱ったりして極力ストレスを与えないようにしているかもしれないけど、現実社会ってストレスだらけ。ストレスに耐性のない人間を生んでいるようで、逆にその子のためにならない気がするのだが・・・・。
③ 薄っぺらい教科書
今の教科書は、とにかく、昔と比べると、A3判で大きいけど、薄く、カラーで、画像、図、まんが満載、ほとんど文字がない。これで何が勉強できるのかというくらい。知人が昔、塾で講師をしていたので、そのときの小学生のテキストを、引っ張り出してきてやらせると、出来ないそうだ。教える量は、昔より格段に減っているみたいだ。また、過度な宿題は出さないそうだ。う~ん、これも聞いていて、納得いかない。
最近の教育はどうなってんの!
と、一概に批判しようとは思わない。
以前、エンタウンター心理学について書いたけど、まず相手を認めてあげることからスタートする、という心理学。TV番組「プロフェッショナルの流儀」でもこれを採用し、クラス運営に役立てた先生が紹介されていていた。遅刻する子、給食を残す子に、頭ごなしに叱るのではなく、その努力を認めることは大事なんだろうし、自分たちがされてきたことと違うからといって、批判はできない。
また、「ゆとり教育」を悪玉に仕立て上げる最大の理由、子どもたちの学力低下。薄っぺらい教科書、カリキュラムの削減で失ったものは多いけど。「ゆとり教育」で、得たものもあるはずだ。それを得るために、授業数を減らしたわけだから、マスコミのように、一方的に「ゆとり教育」を批判しようとは思っていないつもりだったんだけど・・・。
今の教育の現場も多分、試行錯誤の連続。私たちのときと手法が違うからといって、非難するのはおかしいのだろう。
TVを騒がす事件事故の当人。政治家や大企業や責任のある仕事をしている人たちの不祥事。こんな大人を生んでいる昔の教育が正しいとは言えないかも。
ゆとり教育や、最近の教育を受けた世代が社会の主役になった頃、安全で、安心して住める社会になっているかも知れないし、少々漢字や分数の計算が出来なくても、今の日本人より幸せに暮らしているなら、「ゆとり教育」は、間違っていないことになる。
知人から、今、現在の教育の現場の話を聞いて、批判めいたことを書こうと思ったけど、決定的なことは何もいえないことに気づいた。と同時に、今まで無責任な批判をしてきた自分にも気がついた。あれこれ言って、ごめんなさい。
現場の先生も苦労しているんだろうなあ。
こんな苦労があっても、先生を志した人。色々言われますが、くじけずに、がんばってください。