雲のじゅうたん ~ 大正・昭和の空を駆け抜けた女流飛行士「前田あさの」
婦人飛行士の草分け的な存在、前田あさのという人がいます。
今回は、その人のお話をしようと思います。
明治39年(1906)に天理市福住町に生まれます。
幼いころから女だてら乗り物が好きで、飛行機の写真を見てから、飛行機乗りになる夢をいだくようになりました。
大正12年(1923)、あさのが17歳になったときです。
雑誌で日本自動車学校航空科(東京立川市・立川陸軍飛行場)の生徒募集記事が掲載されたら、いてもたってもいられません。
「お父さん!
あたし東京に出て飛行士になりたい!」
突然の申し出に父は目を白黒します。
当然、猛反対にあいますが、なんとあさのは、
「絶対ッ!!!飛行士になってやるんだぁ!」
父の反対をおしきって単身上京し、入学してしまいます。
入学者20人のうち女性は二人だけでした。
航空科の授業には、数学、航空力学、気象学、設計から機械のことと学ぶことは沢山あります。
また当時の飛行機は海外のものが主流でした。
手引書などは殆ど外国語です。
それでもあさのは飛行士になることを夢見て、深夜まで辞書とにらめっこして勉強しました。
その甲斐あって、見事半年で学科訓練をクリア。
航空局のテストに合格しました。
さて次はいよいよ、待ちにまった飛行機に搭乗しての実技教育になります。
しかし、実技教育のためには飛行機代が1時間に110円必要です。
当時では非常に高額な金額で、500円で家が一軒建つといわれていました。
単身上京したあさのは、窮地に立たされます。
そこへ助け舟を出したのが、なんと猛反対をしていた父でした。
いつしか父は、一転して娘を応援しする立場に。
下宿代・授業料などを含めて総額二万円ものの仕送りました。
父の強い後押しがあって、みごと1年後、日本で4番目の女性三等飛行士となったのでした。
あさのは奈良に帰ると、民間の飛行機会社に就職。
遊覧飛行や、宣伝ビラまきなどの仕事をして関西の空を飛びまわりました。
昭和3年(1928)。当時の女性飛行士としては最高の二等飛行士の免許を取得。
24歳で結婚したときにパイロットをやめ農婦となり、6人の子供を育てました。
昭和51年(1976)。
70を越したとき、空をみあげながら、ふと
「死ぬ前にもういちど立川の空をみたいね・・・」
と若かりし頃を偲びます。
その後、立川飛行場からの招きもあり、希望通り、あさのは再び空を飛ぶのでした。
前田あさのは日本の女流飛行士の草分け的な存在でした。
彼女をモデルにNHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん」が放映されました。
今回は、その人のお話をしようと思います。
明治39年(1906)に天理市福住町に生まれます。
幼いころから女だてら乗り物が好きで、飛行機の写真を見てから、飛行機乗りになる夢をいだくようになりました。
大正12年(1923)、あさのが17歳になったときです。
雑誌で日本自動車学校航空科(東京立川市・立川陸軍飛行場)の生徒募集記事が掲載されたら、いてもたってもいられません。
「お父さん!
あたし東京に出て飛行士になりたい!」
突然の申し出に父は目を白黒します。
当然、猛反対にあいますが、なんとあさのは、
「絶対ッ!!!飛行士になってやるんだぁ!」
父の反対をおしきって単身上京し、入学してしまいます。
入学者20人のうち女性は二人だけでした。
航空科の授業には、数学、航空力学、気象学、設計から機械のことと学ぶことは沢山あります。
また当時の飛行機は海外のものが主流でした。
手引書などは殆ど外国語です。
それでもあさのは飛行士になることを夢見て、深夜まで辞書とにらめっこして勉強しました。
その甲斐あって、見事半年で学科訓練をクリア。
航空局のテストに合格しました。
さて次はいよいよ、待ちにまった飛行機に搭乗しての実技教育になります。
しかし、実技教育のためには飛行機代が1時間に110円必要です。
当時では非常に高額な金額で、500円で家が一軒建つといわれていました。
単身上京したあさのは、窮地に立たされます。
そこへ助け舟を出したのが、なんと猛反対をしていた父でした。
いつしか父は、一転して娘を応援しする立場に。
下宿代・授業料などを含めて総額二万円ものの仕送りました。
父の強い後押しがあって、みごと1年後、日本で4番目の女性三等飛行士となったのでした。
あさのは奈良に帰ると、民間の飛行機会社に就職。
遊覧飛行や、宣伝ビラまきなどの仕事をして関西の空を飛びまわりました。
昭和3年(1928)。当時の女性飛行士としては最高の二等飛行士の免許を取得。
24歳で結婚したときにパイロットをやめ農婦となり、6人の子供を育てました。
昭和51年(1976)。
70を越したとき、空をみあげながら、ふと
「死ぬ前にもういちど立川の空をみたいね・・・」
と若かりし頃を偲びます。
その後、立川飛行場からの招きもあり、希望通り、あさのは再び空を飛ぶのでした。
前田あさのは日本の女流飛行士の草分け的な存在でした。
彼女をモデルにNHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん」が放映されました。
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【障害復旧報告】源九郎稲荷神社ホームページが表示されない問題
こんにちは。奈良歴史ミステリーハンター☆鈴木です。
8月15日~16日頃より、「源九郎稲荷神社」のホームページが、表示されない、表示されたりされなかったりという現象がおこっていました。
(源九郎稲荷神社のホームページにアクセスしようとして、変なページが表示されたなど。)
「源九郎稲荷神社 」
http://www.genkurou-inari.com/
現在は復旧しております。
沢山の方にご迷惑をおかけしたことを、おわびもうしあげます。
8月15日~16日頃より、「源九郎稲荷神社」のホームページが、表示されない、表示されたりされなかったりという現象がおこっていました。
(源九郎稲荷神社のホームページにアクセスしようとして、変なページが表示されたなど。)
「源九郎稲荷神社 」
http://www.genkurou-inari.com/
現在は復旧しております。
沢山の方にご迷惑をおかけしたことを、おわびもうしあげます。
鬼がまもった聖地 ― 飛火野 の 「野守」 ~ 春日野 ・ 奈良公園
春日大社参道と、東大寺・大仏殿への道路が交差する所に、ずどーんと広がる緑の野原があります。

陽光あふれ、鹿達がのんびりと草をはむ飛火野。
木々のあいだから若草山がのぞきます。
しかし何故、火をイメージさせるものはない、この場所を飛火野と呼ぶのでしょうか。
少し不思議に思い調べてみました。
・・・
春日山の西麓の飛火野、浅茅ヶ原、梅林いったいを春日野といいます。
春日野は奈良時代、神様を祀った聖地でした。
また大宮人の野遊びをする場所であり、天皇が鷹狩をされました。
飛火野からは、奈良時代の頃の祭礼用の土器の破片などが出土しました。
飛火野には、円錐に土がもりあがっているところがあります。
そこは祭礼用具を埋めて盛土したところと伝えられています。
また起伏が多く、その昔、野守が狼煙をあげた場所でした。
そこから飛火野という名がつけられたと伝えられています。
当時飛火野は、現在のようなのどかな緑の広場ではなかったそうです。
木々がうっそうと茂った森でした。
そこに住まい一帯の番人である「野守」がいました。
伝説では、野守は昼間は人の姿をしており、夜は鬼神になり野を守っていたとあります。
・・・
飛火野、現在は、奈良市民や観光客の憩いの場所となっています。

陽光あふれ、鹿達がのんびりと草をはむ飛火野。
木々のあいだから若草山がのぞきます。
しかし何故、火をイメージさせるものはない、この場所を飛火野と呼ぶのでしょうか。
少し不思議に思い調べてみました。
・・・
春日山の西麓の飛火野、浅茅ヶ原、梅林いったいを春日野といいます。
春日野は奈良時代、神様を祀った聖地でした。
また大宮人の野遊びをする場所であり、天皇が鷹狩をされました。
飛火野からは、奈良時代の頃の祭礼用の土器の破片などが出土しました。
飛火野には、円錐に土がもりあがっているところがあります。
そこは祭礼用具を埋めて盛土したところと伝えられています。
また起伏が多く、その昔、野守が狼煙をあげた場所でした。
そこから飛火野という名がつけられたと伝えられています。
当時飛火野は、現在のようなのどかな緑の広場ではなかったそうです。
木々がうっそうと茂った森でした。
そこに住まい一帯の番人である「野守」がいました。
伝説では、野守は昼間は人の姿をしており、夜は鬼神になり野を守っていたとあります。
・・・
飛火野、現在は、奈良市民や観光客の憩いの場所となっています。
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