坂東の炎 平将門の乱・・・平将門を訪ねて(3) ~ 神田明神 【東京・横浜探訪】
2.「チョー巨大な大黒様
」のつづきです。
さて、わたしは関東で非常に興味をいだいた人物がいます。
崇徳上皇、菅原道真 とならび、日本の三大怨霊に名を連ねた平将門です。
ここ神田明神に、大国主命と少彦名命とともに祀られている平将門について話しましょう。
承平5年(935)から天慶3年(940)。
坂東(関東)一円を戦火にまきこむ乱がおこりました。
平将門(たいらのまさかど)の乱です。
将門は、下総の猿島、豊田の二郡(茨城県西部)に勢力をもつ平良持(たいらのよしもち)の子として生まれました。
父の死後、上洛し左大臣藤原忠平に仕えます。
しかし、まともな役職につけることなく帰郷することになります。
すると、なんということでしょうか。
平国香(たいらのくにか)伯父とその一党が、将門の領地を掠め取っているではありませんか。
将門が返還をもとめるが、国香一党は、逆に将門を亡きものと攻撃をしかけました。
承平5年(935)。
激しい戦いの末、国香一党は将門の前に討ち死にします。
承平7年(937)。
今度は平良兼伯父が将門の不意をつき襲いかかりました
これに将門は敗北し、妻子は殺害されました。
将門は軍勢をたてなおし、良兼と再び相まみえるのでした。
こうした一族の私闘から将門は、付近の領地を併呑していきました。
天慶元年(938)。
朝廷より国司として興世王(おきよおう)と源経基(つねもと)が赴任してきました。
郡司の武蔵武芝(むさしたけしば)と国務をめぐって紛争となります。
将門が調停にはいると、彼の勇名を前に、興世王は恭順をしめします。
いっぽう、源経基は京へ逃げ帰ったのでした。
するとこともあろうに「将門が謀反を企てている」と朝廷に訴えたのでした。
その後、将門は常陸国府を攻撃。
名実ともに朝廷に弓引く謀反人となったのでした。
勢いにのって将門は各地の国府を襲撃し、坂東八カ国を制圧しました。
飛ぶ鳥を落とす勢いの将門は、京の天皇に対し、自らを「新皇」と称したのでした。
朝廷の圧政と国司の搾取に苦しんでいた坂東の人びとは、あたらしい政権の誕生に歓喜したのでした。
遠く京では、将門の勢いに恐れ、将門討伐の軍勢を派遣します。
天慶3年(940)。
討伐軍を迎え撃つ将門の前に、近郷の豪族、かつて敵対した伯父国香の子・貞盛、下野押領の藤原秀郷(ひでさと)が立ちふさがった。
その数は三千。
対する将門の軍勢はわずか四百。
激しい攻防戦の末、将門は矢に射ぬかれ、その命運に幕をおろしたのでした。
新皇を名乗ったわずか2か月後のことでした。
その後、死しても将門は怨霊となり、都をおびやかす存在となるのです。
平将門のお話、「大怨霊 平将門 東国で崇敬される 」へ、つづきます。
平将門は、貴族の時代から、
武士へと移るキッカケの一つとなりました。
( ̄Д ̄;;
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ここ神田明神に、大国主命と少彦名命とともに祀られている平将門について話しましょう。
承平5年(935)から天慶3年(940)。
坂東(関東)一円を戦火にまきこむ乱がおこりました。

将門は、下総の猿島、豊田の二郡(茨城県西部)に勢力をもつ平良持(たいらのよしもち)の子として生まれました。
父の死後、上洛し左大臣藤原忠平に仕えます。
しかし、まともな役職につけることなく帰郷することになります。
すると、なんということでしょうか。
平国香(たいらのくにか)伯父とその一党が、将門の領地を掠め取っているではありませんか。
将門が返還をもとめるが、国香一党は、逆に将門を亡きものと攻撃をしかけました。
承平5年(935)。
激しい戦いの末、国香一党は将門の前に討ち死にします。
承平7年(937)。
今度は平良兼伯父が将門の不意をつき襲いかかりました
これに将門は敗北し、妻子は殺害されました。
将門は軍勢をたてなおし、良兼と再び相まみえるのでした。
こうした一族の私闘から将門は、付近の領地を併呑していきました。

天慶元年(938)。
朝廷より国司として興世王(おきよおう)と源経基(つねもと)が赴任してきました。
郡司の武蔵武芝(むさしたけしば)と国務をめぐって紛争となります。
将門が調停にはいると、彼の勇名を前に、興世王は恭順をしめします。
いっぽう、源経基は京へ逃げ帰ったのでした。
するとこともあろうに「将門が謀反を企てている」と朝廷に訴えたのでした。
その後、将門は常陸国府を攻撃。
名実ともに朝廷に弓引く謀反人となったのでした。
勢いにのって将門は各地の国府を襲撃し、坂東八カ国を制圧しました。
飛ぶ鳥を落とす勢いの将門は、京の天皇に対し、自らを「新皇」と称したのでした。
朝廷の圧政と国司の搾取に苦しんでいた坂東の人びとは、あたらしい政権の誕生に歓喜したのでした。
遠く京では、将門の勢いに恐れ、将門討伐の軍勢を派遣します。
天慶3年(940)。
討伐軍を迎え撃つ将門の前に、近郷の豪族、かつて敵対した伯父国香の子・貞盛、下野押領の藤原秀郷(ひでさと)が立ちふさがった。
その数は三千。
対する将門の軍勢はわずか四百。
激しい攻防戦の末、将門は矢に射ぬかれ、その命運に幕をおろしたのでした。
新皇を名乗ったわずか2か月後のことでした。
その後、死しても将門は怨霊となり、都をおびやかす存在となるのです。
平将門のお話、「大怨霊 平将門 東国で崇敬される 」へ、つづきます。
武士へと移るキッカケの一つとなりました。
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