中山忠光の天誅組 と 十津川郷士 ~ 算命学 と 奈良歴史 (再掲載)
奈良に関する偉人、歴史人物を、算命学の紅星先生 が鑑定し、
その足跡(観光地)を紹介するおなじみのコーナーです。
今回は、幕末の奈良は吉野が舞台になります。
連動企画
【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第15弾は、中山忠光です。幕末、尊王攘夷の風が吹き荒れていたときでした。
公家でありながら、中山忠光は、早くより長州、真木和泉、吉村寅太郎などの尊王攘夷の志士と交流がありました。
徳川幕府を排し、天皇を中心とする新しい統一国家を建設するという目的がありました。
8月17日。
孝明天皇の大和行幸を機に、攘夷派の公家の中山忠光は、土佐藩脱藩浪士の吉村寅太郎と攘夷派一党とともに、奈良で討幕の兵を挙げます。
五条代官所(奈良県五條市)を襲撃し、桜井寺に「御政府」の看板掲げます。
今に伝えられる、「天誅組の変」です。
しかし、翌18日、公武合体派の公家、薩摩、会津によりの八月十八日の政変による孝明天皇の大和行幸は中止となります。
長州藩は京都から追放されます。
後ろ盾であった長州の失脚により、天誅組の立場が一変し朝敵となり、大和で孤立することになります。
天誅組は、吉野郡大塔村の天の辻に本陣を移します。
天誅組本陣遺趾。

当時は交通の要地で、物資の集散地であった天の辻。
土地の有力者であった鶴屋治兵衛の屋敷を徴用し本陣としました。
鶴屋治兵衛をはじめ、大塔村の人々は、維新運動のさきがけとして活躍する天誅組に協力を惜しまなかったとあります。
この天誅組本陣遺趾では、天誅組の志士を偲び、彼らが詠んだ歌を石碑にのこしています。
「かやの実の
嵐におつつ おとづれに
交るもさむし 山雀の声
天誅組記録方 伴 光平」
同じ御国の みたみなりせば
天誅組武器取調方 野崎圭計 」
武士の本分として、民衆に迷惑をかけることがなかったのですね。
天誅組は敗走している時でさえ、民家への略奪を一切働かなかったとあります。
更に食事をめぐんでもらっても、その代価を払い、感謝の礼をつくしたそうです。
しかし、隣の村である十津川村では、こんなことがありました。
それは悲劇のいったんでありました。
十津川村では、神武東征の折に道案内にたったヤタガラスを信仰した独自の文化をもっていました。
古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱、平治の乱に参加しています。戦国時代では大阪夏の陣では徳川方として出兵していました。
そのような経緯からも、幕末に俄かに流行った「尊王攘夷」による勤皇志士たちよりも、生粋の勤皇であったと伝えられています。
このため、徳川幕府を倒すという意思は希薄でした。
吉村寅太郎の説得により、十津川郷士960人が、天誅組に参加します。
しかし、もとより戦意の薄い十津川郷士です。
貧弱な武装に、休息も食事もろくに与えられず、半ば脅迫で酷使されます。
苛立ちを抱いた中山忠光に憎まれ、抗議にきた十津川郷士はこの天辻峠で処刑されてしまいます。
その後、天誅組は、恭順に応じていた高取藩へと向かいます。
しかし、高取藩は、包囲する徳川幕府軍の圧力により、天誅組に敵対します。

(奈良県高市郡高取町高取の南東にある、標高583メートルの高取山の高取城)
天誅組は、高取城を攻撃をしかけます。
情熱だけで強引過ぎる中山忠光と吉村寅太郎の指揮に、付き従わされた志士たちの指揮がおちます。
やがて、天誅組が朝廷の軍ではなく、逆賊であると分かると、十津川郷士は、徳川側へと離反します。
9月19日。
ここに進退窮まり中山忠光は、天誅組の解散を決意します。
各個で戦線の脱出を命じます。
天誅組の一行はつぎつぎと討ち死にしました。
吉村寅太郎は、途中、味方の銃弾で負傷し、幕軍に追い詰められ自決します。同じく土佐脱藩・那須信吾は、鷲尾峠を経た鷲家口(わしがぐち:奈良県東吉野村)で、紀州・彦根藩兵と遭遇。中山忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死します。
そんな激戦をくぐりぬけて、中山忠光は奇跡的に、長州(山口県)へ逃げ延びることができたのでした。
しかし、元治元年(1863)、11月、中山忠光は、保守派の長州藩士によって暗殺されます。
享年20歳でした。
さて・・・
算命学カウンセラー紅星くれないぼしさんの鑑定結果は、こちら。連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第15弾 「中山忠光」
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関連情報:
第十二弾、森鴎外
第十三弾、正岡子規
第十四弾、柳沢吉里
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