只見線貨物列車の記憶(後半) | スプーンの気まぐれ日記

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海峡は本日も「ねんどろ」でしょう。健康のために多少の鉄分も摂ります。

C11牽引の貨物列車は昭和49年10月末まで走りましたが、旅客列車の一部がまだ蒸機牽引だった昭和46年8月に西若松、会津川口、会津横田、只見以外の各駅は貨物扱い廃止となりました。私の記憶では坂下はもう少し後の廃止ではなかったかなと思うのですが・・・。
末期の蒸機貨物は、交換駅も通過しました。通票の受け器と授け器が用意され、受け器の側では駅員が緑の旗を垂れていたものです。停まるのは列車交換がある場合のみ。夕方の上り貨物は時々C11重連で長い編成を牽いていましたが、当時はカメラもフィルムもお手軽なものではなく、両目に焼き付けただけでした。
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西若松の1番ホームは長い間、貨物専用(上り下り共)でした。
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この頃は、全国的に検査期限に余裕のある蒸気機関車の広域転属が行われ、はるか西日本や九州からやってきたカマも多かった様です(会津高田)。
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C11引退間際には習熟運転のためDE10が入って来ていました。2往復あった貨物の1往復はDE10、といった運用です。
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蒸機の終焉が近づくと、駅の近所のおばさんたちも名残を惜しんで汽車を見に来ていました。
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これはおそらく最終日。昭和49年10月31日です(会津高田)。最終列車は夜になってしまうので、手持ちの機材ではとても撮影出来ませんでした。
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見送りに行きましたけど、ストロボ持っている人はバチバチ撮っていましたね。今考えると乗務員の方々には迷惑な話です。

機関車はディーゼルに変わると、ヨ8000も入ってきてちょっと近代化した様に見えましたが昭和57年8月に貨物列車の運転は終わりました(会津高田)。
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ちょうど夏休みの帰省中に貨物列車を撮影しようと会津宮下駅で尋ねたところ、『終わっちゃったよ。』との答えに残念な思いをしたこともありました。昭和59年2月には荷物扱いも終了、キハユニ26もその役割を終えたのでした。

それからも新潟から磐越西線でやって来る燃料輸送は西若松まで走っていました。只見線の会津若松——西若松は線路の規格が磐越東線と同じなので、いつの頃からか東新潟のDD51がそのまま入ってくる様になっていました。この列車も撮影したかったのですが、チャンスが無くて、手許にあるのは平成11年の廃止直 後の様子です。
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ホントはタンク車の列車が走っているうちに来たかったのですけどね。ネットでも画像で検索すると出て来ますが、DD51745も姿を見せていました。
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話しが前後しますが、只見線の福島側の除雪はラッセルが殆どだったと思います。この影響で私の好みは単線形になりました。
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次回は国鉄時代の会津線、日中線、そして磐越西線についても進めたいと思います。