以前、どろろはトラウマからの回復の話だと書いたが、少し見方が変わった。
百鬼丸という青年が鬼退治をしていく話。
父親の権力欲のために肉体を12体の鬼神に奪われ、体のあちこちが欠けて生まれた百鬼丸。
医者に義手義足を与えられて体の動かし方を学んでていく。
その義手には鬼を退治する刀が仕込んである。
鬼を倒す度、奪われた身体の一部を取り戻していく。
触覚を取り戻し、痛み感じるようになる。
両目を取り戻して色彩を味わう(これまでは魂の色を見ていた)。
さらに最近、
「統合できていない精神は身体にマッピングしてある」
と感じている。
ゲシュタルトセラピーでも、まだ言葉にならない感覚があれば、それを体のどこで感じるか訊ね、それを身体にマッピングしていく。感覚を外在化して、その部分と対話して、和解・統合する。
これは、感覚から身体へのマッピングだが、身体から感覚へのマッピングも可能だし、身体の状態を改善すれば感覚や精神も回復へ向かうものと思う。
また、コソ泥「どろろ」を伴って旅をするが、共通する目的、異なる目的を持つが、共依存にはない。近すぎない距離感で会話をし、たまに心を触れ合う。親密性を持ち、自他分離的な関係性を保持している。
どろろこそが、自他分離的な孤立性の克服に重要な役割があるように見えてならない。
身体は生きた有機体として自己治癒力を持っている。
その治癒の媒体として、どろろがいるのだとおもう。