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「好文亭 前編」より続く)

水戸偕楽園の中にある水戸藩主の別邸「好文亭」は、木造三階建ての「好文亭」と、木造平屋の「奥御殿」の二つの建物から成っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


玄関から入り、右側にある「好文亭」の方が手前にあるのですが、見学の順路としては、左側の奥にある「奥御殿」の方を先に見学するようになっています。

主に、水戸藩主の夫人が偕楽園を訪れた時に滞在していたのが「奥御殿」。
各部屋の襖には、四季折々の様々な植物が描かれていて、それぞれの部屋の名前にもなっています。

 

 

 

 

 

 


玄関から廊下を進み、手前の部屋から順番に、

 

 

 


 

 

 

 

 

 


菊の間

 

 

 

 

 

 

 

 



桃の間


板張りの床になっている菊の間、桃の間は食事を準備する場所でした。


そこから先は、藩主夫人や、その侍女達が使用していた部屋になります。

 

 

 

 

 

 


 

 

 


つつじの間

 

 

 


 

 

 

 

 

 


桜の間

 

 

 


 

 

 

 

 

 


萩の間

それぞれ、夏・春・秋に偕楽園でみられる植物が襖絵に使われています。
この三部屋は、水戸藩主夫人の侍女が控室として使っていた部屋でした。
奥に進んでいくのに合わせ、だんだん身分の高い人の使う部屋になっていきます。

時間をかけて観察するだけの価値のある立派な襖絵ですが、狭い廊下で、前も後ろも混雑している状況だったので、部屋の前で立ち止まる事も許されず、ゆっくり見られなかったのが少し残念・・・。


先に進むと、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紅葉の間
室内が暗かったので、ちょっと画像を明るく加工したら、紅葉の色が飛んでしまいました・・・。
本当は、もっと鮮やかな紅葉色です。

 

 

 


 

 

 

 

 


松の間

藩主夫人や身分の高い人が居室として利用して、来客との面会所としても使われたのが松の間で、その前室(次の間)になっていたのが紅葉の間でした。

こういう部屋の順番から、当時の人々の植物に対する価値観が分かりますね。
現代なら華やかな桜を使いそうなところですが、紅葉や松・竹・梅の方が高貴な部屋に使われています。

 

 

 

 

 

 

 


奥御殿で最も奥にある部分は、明治時代になってから、城下町にあった中御殿から移築されてきたものです。
明治維新後、徳川斉昭の未亡人だった貞芳院(江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の母)が移り住み、明治2年から明治6年まで住居にしていました。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

竹の間

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


梅の間
「好文木」こと梅が使われている部屋が、やはり一番高貴な部屋とされています。
明治以降、皇族の方々が訪問した時には、この部屋が寝所として利用されてきたそうです。


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「奥御殿」と「好文亭」とを繋ぐ太鼓橋

 

 

 

 

 


山型に湾曲し、幅も狭く、天井も低いので、図体ばかり大きな私のような人間にとっては軽い難所ですが(笑)、もともと侵入者の動きを制限する目的があったそうなので仕方なし。


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水戸藩主が家臣や文化人、庶民などを招いて、詩歌や花見の会を楽しんだのが「好文亭」

木造三階建になっていますが、二階部分は階段途中に武者控え(護衛の控室)があるだけなので、実際に使われていたのは一階と三階のみでした。

主に詩歌や歌舞音曲の宴が行われていたのが、一階にある「東塗縁」「西塗縁」という東西の広間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東が18畳、西が38畳もの広さの総板張りの大広間になっています。


「西塗縁」の戸に書かれている数多くの漢字。

 

 

 

 

 


漢詩を詠む時に必要になる漢字が8000字も書いてあって、辞書代わりになっています。


また、ここでは、80歳以上の家臣、90歳以上の庶民を招待した「養老の会」も催されていたそうです。
当時の寿命を考えれば、かなりの長老ばかりですから、身分の違いを飛び越えて敬意を表し、色々と学ぶ部分が多いと感じていたのかもしれません。


宴会が行われていた時、藩主が鎮座していたのが、東西広間に挟まれた6畳の小部屋「御座の間」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


普段は政務を行ったり、来客の対応に使われていた部屋ですが、宴会の開催中は仕切りの障子を開けて、招待した人々と会話を交わしていたそうです。


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上の階に上がるための階段。

 

 

 

 

 

 


古い城郭の天守や櫓と同様に、急で狭い階段になっています。

さっきの太鼓橋に続いて、私のような大柄な体格の人間には辛い関門なのですが、これも外敵が襲撃してくる足を止める役割があるのですから、まあ・・・仕方なし(笑)。

上るのも大変ですが、下りる時も、別の意味で大変です。

 

 

 

 

 


足を滑らしたら、たちまち転落です。


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三階には3つの部屋があり、偕楽園を中心とした東・西・南の三方向の景色を眺める事が出来ます。

 

 

 

 

 


 


この日は天気に恵まれていたおかげで、そこそこ遠くまで見渡す事が出来ました。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


南には千波湖。

西には偕楽園の梅林。
桜の時期には、桃色の花で賑わう山も見えるそうです。

高い建物が無かった江戸時代には、筑波山や、遠い大洗の海岸まで見通せたそうです。


そんな景色を眺めていたであろう水戸藩主の使った部屋が、3階南側に面する「楽寿楼」という8畳の部屋。

 

 

 


 

 

 

 

 

 


その北側にある小部屋には、ちょっと変わった仕掛けがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1階の調理室で作られた料理や酒を運搬する、滑車式昇降機。
いわゆる「手動式エレベーター」です。
諸説ありますが、これが「世界初の近代エレベーター」と言われているとか、言われていないとか・・・。

ちなみに、現在の茨城県ひたちなか市には、世界で最も高いエレベーター研究塔があります。
今も昔も、エレベーターには縁の深い土地なんですね~。




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