昨日・一昨日は、高知県から依頼され、

昨年からFeelWorksが開講している

「人を活かす経営者ゼミ」一期生の

フォロー研修および個別企業での

人材育成コンサルティングでした。

 

人手不足と戦いながら

事業を営む高知県下の優良中小企業の

経営者の皆さんが、僕たちFeelWorksメソッドにより、

着実に「人を活かす経営」に挑み続ける様子に

プロデュース責任者のたおさんとともに

胸を熱くした二日間でした。

 

3時間ほど自由時間が作れたので、

以前から行ってみたかった

高知市立自由民権記念館に足を運びました。

 

自由民権記念館の方からマンツーマンで

じっくり高知から始まった自由民権運動の歴史、

そこで志に向かって人生を賭けた

若者たちの物語を伺いました。

 

もっとも沁みたのは、

自由民権運動の中で、立志社に属しながら

積極的な論壇活動を続けた植木枝盛の言葉。

 未来が

 其の胸中に在る者、

 之を青年と云ふ

 

松下幸之助翁も愛したサミュエル・ウルマン「青春」にも通ずる

メサッセージです。

 

自由民権記念館は、

はりまや橋から路面電車に揺られること10分。

桟橋通四丁目駅下車すぐの立地。

 

表玄関には、これまた植木枝盛の言葉

「自由は土佐の山間より」という至言が刻まれています。

 

館内でレクチャーを受けた

明治維新後の歴史と自由民権運動の物語。

 

もともと自由という言葉は、気ままという意味合いが強く

マイナスのイメージがあったそうです。

 

それを当時の志ある若者たちが

プラスのイメージに変えていった自由民権運動。

 

新政府で大久保利通ら非征韓派が

西郷隆盛や板垣退助ら征韓派を追いやり、

西郷は薩摩に戻り、板垣は土佐に戻ります。

 

西郷は政府以外では最大の

武力を持っていたものの、最後の最後まで

武力によって政府と事を起こすことを我慢します。

が、西郷を担ぐ若者たちの熱気にほだされ、

また政府側の挑発もあって

ついに西南の役を起こすも、わずか半年で非業の死を遂げます。

 

それを土佐から見ていた板垣は、

武力ではどうにもならないと痛感。

言論運動によって、国を変えようと、立志社を1874年

(明治7年)に設立。

 

同時に若者たちを育てる立志学舎まで設立し、

坂本南海男(龍馬のおい)などの論客を育てます。

 

また「海南新誌」などメデイアを発行し、

積極的な自由民権活動に没頭していきます。

 

ここで活躍したのが

植木枝盛。その言葉

「自由は土佐の山間より」は

高知県詞にもなっています。

大衆発のメディアも盛んとなり、

高知だけでも、土陽新聞(1978.1.10~)、

高知新聞(1980.7.5~)

高知雑誌(1977.9.15~)など

様々な思想・発言の場が生まれます。

 

ただ、それらを良しとしない政府は

弾圧を続け、発行禁止命令を繰り返します。

 

あまりもの政府の弾圧に

腹を据えかねた新聞社は、

「新聞の葬式」という

皮肉な一大イベントも開催されるほどだったとか。

 

板垣は、日本初の政治政党である

自由党を1881年(明治14年)に設立。

党首となります。このとき、わずか45歳。

党員も中江兆民(36歳)ら

若者たちの活動でした。

 

このとき、植木枝盛はわずか24歳。

 

 

この翌年、演説で訪れた岐阜県で

板垣は暴徒に襲われ、九死に一生を得ます。

 

真偽に所説あるものの、有名な台詞

「板垣死すとも自由は死せず」

という言葉が生まれた事件。

 

板垣ら

土佐の立志社から始まった自由民権運動は

全国的に広がり、愛国社まで設立されています。

 

この自由民権運動のなかで、

政府が国会を作らないなら、

大衆が作ればよいと、明治13年には

国会期成を実現させ、

第二回大会では、13万余人の署名と

64名の代表者まで選出しています。

 

さらには、植木は、

国会を大衆がつくるなら、憲法が必要だと、

幻の憲法草案ともいえる憲法見込案、さらには

東洋大日本国々憲案を明治14年に書き上げています。

 

明治22年に作られた大日本国憲法が

天皇主体であることに対して、東洋大日本国々憲案は

国民が主体であることが謳われています。

 

戦争に負け、アメリカGHQから求められた

昭和21年制定の日本国憲法も、

実は東洋大日本国々憲案が参考にされたそうです。

 

ちなみに、植木はすでに明治10年代に

男女同権論なども訴えたといいます。

 

その先見の明、柔軟な思想に

脱帽するばかりです。

 

 

ところが、その後政府の巧みな

戦術と誘惑により、板垣は海外視察に発ちます。

 

板垣洋行と呼ばれるこの期間は1年ちょっとに及び、

バリやリヨンをめぐる中、板垣は

ルイ・ヴィトンのカバンを買ったともされます。

 

この党首不在が致命傷になり、

かつこの洋行の費用が

政府、三井から出されたという癒着も嫌疑され、

自由党はわずか3年で解散。

 

その後、自由民権運動は下火になったと思いきや、

1886年(明治19年)に起こったノルマントン号事件が

また国民の憤りを顕在化させます。

 

ノルマントン号事件とは、

難破したイギリス舟で、イギリス人のみが

救命ボートで助かり、日本人や他の国の人々は

ほぼ水死させられたという事件。

 

しかし、不平等条約を結ばされていた

当時の日本はイギリスに抗弁すらできなかった。

 

ここに国民の怒りが噴出。

 

この後、

➀租税軽減、②言論の自由、➂外交失策の挽回

を主張する三大事件建白活動が盛んとなり、

ついに政府も弾圧をあきらめ、

国会運営による国民主権が実現に進むのです。

 

その後、1890年(明治23年)、

日本発、アジアでも初となる

第一回帝国議会(国会)が開催され、

板垣、植木らが願った自由民権活動は

一つの夢を叶えます。

 

ただし、当時の国会は今の国会と異なり、

意見は出せても決定権は

政府にある状態だったといいます。

今は、決定権は国会にありますよね。

 

ここまで進んだ若者たちの自由民権運動でしたが、

その後、時代は日清戦争に突入していき、

帝国主義、軍国主義がはびこり、

日本は暗黒の時代へ戻っていきます。

 

その後、敗戦によって、

現代社会につながる自由民権社会に至ったことは

周知ですね。

 

勉強不足だったため、どうしても龍馬たちが

活躍した明治維新前後の若者たちにばかり

注目していましたが、

維新後も、近代政府はできたものの、

中身はまだ伴っておらず、

真に近代国家として自由民権の魂を宿らせるため、

たくさんの若者たちが奮闘したことを学べたことは

大きな収穫でした。

 

 

現代の僕たちも、

明治の若者たちに負けてはいられません。

 

特に、最近の世情は、

どうやら自由な社会から

またもや閉塞感、さらには自由に

物申しにくい社会に戻りつつありますね。

 

それぞれの立場で、

健全な社会、自由闊達な社会を創りだすために

働かなければなりません。

 

そこには、まず僕たち一人ひとりが

過去への執着や後悔にくよくよするのではなく、

誰かや何かに依存体質になるのもではなく、

胸に未来への夢や志を抱きながら

自律的かつ包摂的な生き方・働き方を

志すことからだと思います。

 

すべては、この国に「人が育つ現場」を取り戻すために。

 

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