(一)
YouTubeを観ていて、なるほどなぁと感じた言葉がありました。
宗教は〔信じる〕というところから入っていくし、科学は〔疑う〕というところから入っていくというんです。
〔疑う〕というのは〔信じない〕ということではなく、疑問を持つ、自らに課題を突き付けるというような意味らしいんですね。
〔信じる〕というのはラクだと思います。
自らの工夫も努力も不要であって、目的や結論などを信じる対象に任せておけば良いからです。
しかし〔信じる〕という行為は個人の自由であり権利なんですよね。
UFOを信じようが、お化けや霊魂を信じようが、生まれ変わりや来世を信じようが、神や仏の生まれ変わりだという人を信じようが、それは個人の自由です。
この内心の問題を政治権力を用いて抑圧したり、自分たちの有利になるように誘導してはならないのは言うまでもないことです。
そして、逆に言えば、政治や政党、政治家個人を信仰の対象のようにして、盲目的になってもいけないんですね。
自民党を信じるとか〔れいわ〕や共産党を信じるとか、誰々を信じるなどという発想は、それは個人の権利を放棄しているのと同じことなんですよね。
個人の権利を放棄した社会が民主主義の国でないことは明らかでしょう。
(二)
話を気功の世界に向けてみますね。
例えば〔気のボール〕です。
これは宗教ではなく科学の領域なんですね。
〔気のボール〕の体感のない人が、「ある」と信じ込んでも意味はない訳です。
〔気のボール〕や〔気の感覚〕は、信じる対象ではなく、疑う(疑問に持つ)対象なんですね。
どんな感覚なんだろうか、どうすれば体感できるんだろうかという課題を持つことが重要で、だからこそ、そこに工夫と努力が必要になる訳です。
これは決してラクな道ではありません。
暗中模索、試行錯誤、紆余曲折、七転八倒などといった四字熟語の世界です。
また、(気のボール)を体感できている人も同じことが言えるんですね。
その〔気のボール〕の作り方をどのように伝えていくかが課題になるんです。
「あると思って下さい」、「イメージしましょう」などという宗教的な伝え方をするならば、それは気功を科学から信仰の世界に引きずり下ろすことになる最低の伝え方だと言えるでしょうね。
〔気のボール〕の正体は何なのか、自分は如何なる過程を通して〔気のボール〕が作れるようになったのかを探究し、科学化しなければならないんですね。
それは、体内の気の感覚であれ、気が動く感覚であれ、全ての気功的な取り組みについて言えることです。
気功を身体科学として捉えて探究しなくてはならないんですね。
〔気のボール〕や〔ふぁんそん感覚〕などという目に見えない技を信じる対象にしていくところに、宗教が、というより宗教に名を借りた詐欺集団が入り込んで来る可能性があるんですね。
特に、気功やヨガや坐禅瞑想の分野では、脳波をリラックスのα波からまどろみのθ波にしていきますから、そこにマインドコントロール、洗脳の入り込む可能性があるんです。
だからこそ、私たちは気功を科学として探究する必要があるんですよね。
#気功 #科学 #宗教