昨夜、久し振りに或る坊さんの話をCDで聴きました。
もう、30年近くも前の話なので、その方がご存命なのかどうかは解りません。
小説家や歌手でも俳優でもそうですが、文字や音や映像で残っていると、〔源氏物語〕が今でも多くの女性に読まれているように、ある意味、永遠に残っていくんですよね。
まぁ、音や映像は近年になってからですが…。
そんな話ではなく、その坊さんの話の中身に共感しているという話です。
彼は問います。
人生に解っていることが二つあり、一つは、いま生きているという事実で、もう一つは、必ず死ぬという事実です。
解っていないのは、その間をどう生きるかという問題です。
言ってみれば、あなたは何の為に生まれてきたのかという根本的な命題を突き付けているんですね。
例えば、朝之喫茶店、スタバのような喫茶店ではなく、街の個人経営の喫茶店に行くと、おじちゃんたちが数人集まって、昨夜のドラゴンズの話をしています。
先発のピッチャーがどうだったとか、あのヒットエンドランの作戦はどうだったとかという話です。
また、別の場所では、おばちゃんたちが集まって、嫁の悪口や近所の人の噂話に花を咲かせています。
彼は問い掛けます。
ドラゴンズの話をする為に生まれてきたんでしょうか、嫁や近所の人の悪口を言う為に生まれてきたんでしょうか…と。
違うと思うんだけどなぁ…と、彼は問い掛けるわけです。
そして、その後、彼は様々な人の例を出して、その生き様を語ります。
有名な人の話だけではなく、一般の普通の人の話もあります。
結論という言い方は出来ませんが、彼の話から浮かび上がってくる結論は、絵を描くことでも文章や詩を書くことでも、走ることでも歌うことでも、〔し続けること〕が大切ではないかと言うんですね。
しかも、それは、彼の言葉には出て来ませんでしたが、自分の利己的な満足の為ではなく、他人様の生き甲斐とか生きる喜びに影響を与えられるような何かを〔し続けること〕ではないかと問い掛けて来ます。
いま生きている事実から必ず死ぬという事実までの間をどう生きるかという問題は、その坊さんの話を聴いた30年も前から、常に僕の前に突き付けられている命題なのです。
それが、気功を師とし友として学び、その気功を仲間立ちに伝えていくという僕の気功人生に繋がっているのだと感じています。
僕が気功の記事を書き、時々は本にし、動画を撮ってもらっているのは、この〔生から死までの人生〕をどう歩いていくかという命題への一つの答えなのかも知れません。