楽々主義 -22ページ目

楽々主義

徒然なる日々

俺は酷いって分かってるからっていう話。

一般的な感覚やモラル。
道徳的価値、常識。

そういう類いのものから、
どうも遠退いているらしい。
と、あらゆる場面で出くわして。

価値観やら哲学なんて、
そんな重たいものを語るわけじゃなく、
いわば、折り合いをつけるのが、
下手くそなだけなんだけれど、
あらゆる意味で、
まだガキのままなんだろうけれど。

性善説で成り立つ世の中なら、
世界の醜悪さや、
無慈悲で、無意識な悪意に、
晒されないで済むのなら、
それがきっと幸せなんだ。

頭では理解できるし、
間違ったことだとは思わない。
積極的否定はしないし、
そういう一面もあるだろうと、
分かってはいるつもりで。

だけど、
それじゃあ納得しかねる部分も、
確かに存在している。

我慢すれば、
耐え忍べば、
やがて去り行く一時の、
ほんの、僅かな時間だろうとも。

優しさがナイ、って。
一言で切り捨てるかもしれない。
とても残酷で冷たいと、
思われることであることも、
十分に自覚しても尚。

経験値として、
いわゆる『不幸なこと』が、
多いからって、
冷静に、分析的に、
そう括られてしまうのかもしれない。
でも、別に環境や境遇が、
例え一般的な『恵まれてる』状態だとしても、多分にこれは変わらない気持ちだと思う。

満たされているかどうか、
それを他人の杓子定規でもって、
計られて、推し量られて。
『今のあなたはこういう状況だ。』
と、突きつけられたとして、
だからもう、それすらも、
嘘に聞こえてしまうんだ。

根の部分とか、
根幹のところで、
決定的に何かが壊れている。
と、自己評価している。
そんな自分が決して嫌いではない。

不易だとか、流行りだとか、
普遍性云々とか、
さもありなんと語られる、
諸行無常に対して、
あらゆる森羅万象において、
どれとして、
確かなものなど存在してはいないのだと。

それはまるで光の正体のような、
物質をミクロの世界で見るような。
粒であり波である。
と、視認されるまでは、
その両方を持ち得ているかの如く。

常に曖昧模糊として、
つかず離れず、
どっちつかずで。
それがむしろ極々自然なこと。
真っ当で当たり前で、
ありふれた摂理で、真理。
表裏一体で、二面性があるはずなんだと。

だがしかし、
結局、人間は白黒つけて、
白が善し、黒は悪し。
別に色に意味などありはしないのに。
だから、世界から孤立する。
排他され、忌み嫌われる。

分かってるから。
それは。
交われないのも、混じれないのも。
反比例で、相違で。
中身は同じなのだけれど、
しかして、
決して相容れる仲ではなくて。

だから、
ひっそり秘めておくから。














足りないからこそ欲するんだろうっていう話!

河野裕さんの、
『その白さえ嘘だとしても』
を読みましたん。

クリスマスを目前に控えた階段島を、異変が襲った。通販が使えなくなったのだ。外界との唯一の接点を断たれた孤島。
島に紛れ込んだ犯人とされるハッカーを追う真辺由宇。時を同じくして、クリスマスに纏わる七不思議が階段島を駆け巡り、佐々岡は少女のためにヴァイオリンの弦を探し、大地は行方不明になり、クリスマス会の準備に勤しむ水谷。。。
そして、イヴの日。各々の物語が交錯する時、七草は階段島の大きな謎と対峙するのだった。

前回から張られた伏線が徐々に回収されていきます。
とはいえ、この物語は一巻目からフーダニットより、ワイダニットのニュアンスが色濃い。
何故なのか、どうしてそうなったのか、
原因と結果のつながり、そしてこれからの行方について。

人間なんて欠落の塊で。
生きていく上で捨てるものなんて、
腐るほどあって。

それは人によって様々なんだろう。

しかし、
捨てたものが全て、
いらないものとは限らない。

ある側面では、
時には捨てることは無くすことだったり、
何かの誰かの、大切な部分だったりする。

現実で生きていくのは、
果たして幸せなのか。
いっそ、
捨ててしまうくらいなら、
失うくらいなら、
夢の中で生きていたいと、
そう願ってしまうのは、
間違ったことなのだろうか。

かく在らんと、
憧れを抱き続ける。

正しいことを選択し、
自分を曲げていく。

何が正解かなんて、
立場により、
時により、
相対的なものだから。

太陽は眩しいから、
直接なんて見られない。
星は遠く煌めくから美しい。

綺麗なものだけ、
辿って、選んで、
そういう世界で生きること。

様々な人の、
あらゆる個々の物語で、
この世界は紡がれている。

舞台の裏側、汚れた部分、
痛みや哀しみ、
当たり前のことが、
いかに当たり前でないか。

色んな思考実験ができる。
そんな一冊です。


美しさに彩られた物語だっていう話。

辻村深月さんの
『ぼくのメジャースプーン』
を、読み終えた。

ぼくとふみちゃんを襲った事件は、どうしようもなく身勝手で、猥雑で、残酷なものだった。
小学校で起きた凄惨な事件は、彼女から全てを奪っていった。ぼくにできることはただ一つ。
犯人に唯一立ち向かえる力。たった一度、ほんの僅かな望みに賭けた、一人の少年の闘い。儚くも美しい無垢で無知な無謀ともいえる秘策とは。迎える結末の先に待つものは一体。。。

これはまた、傑作の一つ。
辻村深月らしさが詰まった、
人肌で、地に足の着いたファンタジー。

もしも自分なら。。。
そう思わずにはいられない。

正しさとは、
過ちとは、
悪とは、
善とは何か。
問えど答えなどなく。
結果、導き出すのは、
自分の心と向き合って、
自分が信ずるものでしかなく。

悪意とは、
ある日突然降りかかる。
落ち度や非など、お構い無しに。
まるで呼吸をするかの如く、
無意識に浴びせられる、
無情や無慈悲。

現実とは常にそう。

そんな悪意に晒されて尚、
それに立ち向かうのは、
義務感ではなく、
義侠や、偽善でもなく、
ただただ、一つの思い。
繋ぎ止めたいの願うのは、
エゴなのか。
自分のためなのか。
『人は人のために涙を流せない』
そうだとしても、
誰かを愛しいと思う気持ちは、
間違いなのか。
探し続けることしかできない、
解答のない問題に、
抗うことは無意味なのか。

人それぞれに大切なものは違う。
自分にとって、幸せなことが、
結果、誰かの幸せに繋がる。

いやはや、
こんなにも切なくて、苦しくて、
だけど温かい物語は、
そうそうお目にはかかれない。

好み云々、
物語としてどうだこうだ、
設定だ、プロットだと、
細かい理屈はあるのかもしれない。
けれども、
とにかくこの小説は、
紛れもなく、
『いい本だ。』
そう思える一冊だ。

全てが万事ハッピーエンドとは、
ならないエピローグ。
しかしながら、
きっと彼らは幸せになるだろう。
そんな風に、
その後を想像させてくれる、
実に素晴らしい話だった。

メジャースプーンのその後は、
なんと、
『名前探しの放課後』へ、
繋がっていくのです。

読者としては、
こんなプレゼントをもらえる作者に、
出逢えた幸福を噛み締めました。