寛保3年(1743年)5月13日内大臣鷹司基輝が17歳で早逝しました。彼には跡継ぎたるべき男子がいなかったため、基輝の父で鷹司家の出身でもある関白一条兼香は、生家が断絶することを憂慮して氏神の春日大社に後継につき神託を求めます。その結果選ばれたのが閑院宮直仁親王の第4王子淳宮で、彼はまず兼香の養子となったうえで改めて鷹司家を相続し(近衛家、一条家に続き、俗にいう「皇別摂家」としては3例目)、延享2年(1745年)に元服して輔平と名乗ります。その後、安永7年(1778年)左大臣に昇り、次いで天明7年(1787年)には甥の光格天皇のもとで関白に就任して寛政3年(1791年)までその職を務め、御所千度参り等に対応しました。

 

輔平の後を継いだのはその子政熙で、寛政3年(1791年)左大臣を経て同7年(1795年)には関白となって文化11年(1814年)まで19年間従弟の光格天皇を補佐しました。関白在任19年というのは後述する政通(政熙の子)の33年には及ばないものの異例の長さであり、その分わりを食う形となったのが政熙の後を襲って左大臣に就任した二条治孝で、彼は18年その職に据え置かれたままついに関白になることはありませんでした(政熙は、関白の在任期間が10年に達したころから人事の停滞を憂いてしばしば辞意を漏らすようになり、時の後桜町上皇は自身の縁戚である治孝(彼は後桜町の生母舎子の異母妹喜子の夫宗基が側室との間に儲けた子)をその後任に推したのであるが、光格天皇は政熙の能力を高く評価する一方で治孝は関白の器でないと判断し、幕府もこれを支持したため、政熙の辞任は認められず、治孝の関白就任は叶わなかったとのこと)。政熙には多くの女子があり、仁孝天皇の女御となった繫子と祺子、徳川家定の御台所任子を始めとして、2名が宮家、2名が清華家、5名が大名家、2名が東西本願寺門主、1名が興正寺門主、1名が津守神社宮司にそれぞれ嫁しています。

 

政熙の子政通は文政6年(1823年)から安政3年(1856年)まで33年もの長きに渡り関白に在職し(これは摂政・関白を通算50年務めた藤原頼通、37年務めた藤原忠通に次ぐ記録)、この間天保13年(1842年)には九条尚実以来61年ぶりとなる太政大臣に任ぜられています(これは江戸時代最後であり、彼の後に太政大臣となった三条実美は明治になってから定められた新たな太政官制のもとでの就任なので、律令制のもとでの最後の太政大臣ということになる)。政通の関白在任期間がかくも長きに及んだ理由はよくわかりません。彼と同世代の近衛・九条・一条の3摂家の当主が10代~30代でいずれも早逝したということもあるのかもしれませんが、残る二条家の当主斉信は、政通より1年年長で、しかも60歳まで生きて23年間左大臣(政通の後任)を務めている(左大臣在任中に死去)ので、他に代わり得る人材がいなかったというわけではなさそうです。また、政通の夫人清子は水戸家出身(徳川斉昭の姉)ということで幕府の信任が厚かったのかもしれませんが、斉信の夫人従子も水戸家出身(清子の姉)なので、いずれにしても不明というほかありません(逆に、ほとんど条件は同じであったにもかかわらず斉信はなぜ関白になれなかったのは興味深い)。それにしても、鷹司家の厚遇と二条家の冷遇は対照的です。上述のとおり、斉信の父治孝も政通の父政熙のために関白就任を逃していて、二条家は二代続けて鷹司家に煮え湯を飲まされたことになるからです。江戸時代の関白は天皇の掣肘役たることを幕府から期待されていたのであり、二条家は康道以降の当主が江戸時代を通じて代々徳川将軍から偏諱を受けていた唯一の摂家であって五摂家の中では最も幕府寄りと目されていたことに鑑みると、この処遇は不審とすら言えるでしょう(ただ、輔平は徳川家治の御台所倫子女王の異母弟なので、鷹司家は将軍家と「縁戚関係」にあったともいえるのではあるが)。

 

政通は仁孝・孝明両天皇のもとで関白を務めたのですが、仁孝天皇とは再従兄弟同士という血縁関係の近さに加えて、義弟の徳川斉昭を通じて様々な情報を入手できたこと、さらには押しが強い性格で弁舌も巧みであったことから、孝明天皇などは自分より40歳以上も年長のこの関白に対しては思うことの万分の一も言えないと嘆いています。それでも孝明天皇は政通には一目も二目も置いて重用し、彼が関白を退任した後も引き続き内覧として朝議に与らせるとともに太閤の称号を与えています。しかし、安政6年(1859年)、安政の大獄の渦中で隠居・謹慎処分を受けて出家に追い込まれました。

 

政通の子輔熙は安政4年(1857年)に右大臣に昇ったものの、同6年(1859年)には安政の大獄の一環として父とともに謹慎処分を受けて右大臣を辞職します。文久2年(1862年)に謹慎を解かれると国事御用掛に任ぜられて朝政に復帰し、同3年(1863年)には関白に就任したのですが、八月十八日の政変後に三条実美の帰京運動に関与したことを咎められて在任11カ月で関白を罷免され、さらに翌年の禁門の変の際に久坂玄瑞ら長州藩兵が鷹司邸に立て籠ったことを問題視されて再び謹慎処分を受けています(彼の後任の関白に任ぜられたのが前出の二条斉信の子斉敬というのはなにやら因縁話めいている)。明治天皇の即位に伴う大赦により赦免された後は明治政府の議定等を務め、明治5年(1872年)に隠居しました。嫡子輔政は輔熙に先立って早逝したため、九条家から養子に迎えた熙通が跡を継ぎ、閑院宮家の血筋は絶えることとなりました(これにより「皇別摂家」ではなくなった)。なお、輔熙の弟で徳大寺家を継いだ公純は西園寺公望の父です。

 

輔平の関白就任から王政復古による摂関廃止に至るまでの80年間に摂政・関白を務めた9人のうち、鷹司家出身者が4人を占め(これに対し、一条家は2人、九条・近衛・二条家はそれぞれ1人にとどまる)、その在任期間の合計は57年と、完全に他を圧倒しています。これは光格天皇以降の皇統と最も近い「皇別摂家」であったことによるのか否かは不明ですが(ただし、輔平の関白在任が4年にすぎないのに、その子政熙、そして孫の政通と、世代が下り皇統からの血縁関係が薄れるに連れて逆に在任期間が長くなっていることに鑑みると「皇別摂家」であったことをもってその理由と断ずることには躊躇を覚える)、江戸時代後期の朝廷において鷹司家が大きな存在であったことは確かなことです。