来年、天皇陛下が皇太子殿下に譲位されることとなりました。譲位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりの出来事となります。

 

光格天皇は明和8年(1771年)8月15日閑院宮典仁親王の第6王子として誕生。幼名祐宮。将来は聖護院門跡を継ぐことが予定されていたところ、安永8年(1779年)10月29日後桃園天皇が皇嗣なくして崩御したため、11月8日後桃園の「叡慮」ということでその養子となって儲君に立てられ(この時点で後桃園の死は秘されており、翌9日に公表された)、次いで同月25日に践祚して皇位に就きました(即位礼は翌年12月4日)。諱は初め師仁といい、践祚時に兼仁(ともひと)に改めています(その理由は「師仁」は「しにん(死人)」に音が通じるからということのようだが、実際に師仁と名付けられたのか確証はないとのこと)。

 

後桃園天皇には遺児欣子内親王(当時1歳)がいたことから、皇嗣の選定は将来彼女を娶せること(継体天皇の先例に倣ったものか)を想定して行われ、当時未婚であった祐宮と伏見宮貞敬親王が候補に挙がり、血筋が近い祐宮(後桃園の父桃園天皇の再従弟に当たる)に決まったということです。なお、欣子は寛政6年(1794年)3月に光格天皇に入内して中宮に立てられて2人の皇子を出産したのですがどちらも夭折したため、中御門-桜町-桃園-後桜町-後桃園と続いた皇統は断絶しました。

 

こうして、いわば「入り婿」の形で「分家」から「本家」の当主に迎えられた光格天皇ですが、こうしたケースではありがちなように、公家の間のみならず幕府においても新天皇を軽く見る雰囲気があったようです。これに反発したのか、光格天皇は学問に精進して自らが理想とする天皇像を追い求め、とりわけ、朝廷の様々な神事・朝儀の再興・復古を熱心に行い、天皇と朝廷の権威の回復に努めました。

 

また、天明の飢饉において困窮した庶民が大挙して御所の周囲を廻り天皇に救済を祈願した、いわゆる御所千度参りに際会して幕府に対し窮民救済を申し入れたところ、これは禁中並公家諸法度に違反する虞が大であるにもかかわらず、幕府はさほど問題視することなくこれに応じて救い米を放出しました。これが先例となって朝廷が幕府の政務に関与する途を拓き、延いては幕末の朝幕関係に大きな影響を与えることとなります。

 

他方、いわゆる尊号一件においては幕府への屈服を余儀なくされました。これは、禁中並公家諸法度により御所における親王の席次が摂関・三公(大臣)の下と定められていたため光格天皇の父典仁親王は臣下の下に位置付けられており、これを心苦しく思った光格は典仁親王に太上天皇の尊号を贈って摂関の上に位置付けようとしたのですが、幕府(老中松平定信)の反対により断念したものです。この事件は後の尊王思想の高揚に影響を与えることとなります。

 

文化14年(1817年)3月22日光格天皇は在位37年で仁孝天皇に譲位し、上皇となって院政を行い(最後の院政)、天保11年(1840年)11月18日に崩御しました。その翌年の天保12年(1841年)1月27日に「光格天皇」という諡が選定されたのですが、諡に天皇号を用いることは村上天皇を最後に行われなくなり、次の冷泉天皇からは代わって「〇〇院」という院号が代々用いられてきた(安徳天皇を除く)もので、約900年ぶりに天皇号が復活したことになります(さらに、「光格」という諡号がそれまでの追号に代わって贈られたのは光孝天皇以来。例外として崇徳・安徳・順徳)。これは光格天皇の「叡慮」によるものとされていて、あくまで特例として幕府の承認を得たものなのですが、以後の天皇もこの例に倣い天皇号が贈られるようになって現在に至っています(天皇号復活の背景には、江戸時代になると庶民でも金を出せば院号の入った戒名をつけられるようになり、院号のありがたみがなくなった、というか庶民と同じというのはいくらなんでも・・・という事情もあると見られる)。

 

なお、光格天皇の生母大江磐代は、鳥取藩家老荒尾家家臣から医師(町医者)に転じた岩室宗賢(氏は「大江」を名乗り、後に磐代所生の聖護院門跡を継いだ盈仁法親王(光格の弟)の縁で聖護院に出仕した)の娘で、天皇の生母としては現時点で唯一の「民間」出身者ですが、来年皇太子殿下が即位されると、「民間」出身のご生母を持つ二人目の天皇になられることになります。つまり、来年の代替わりにおいては、光格天皇以来の譲位が行われるのみならず、光格天皇以来の「民間」出身のご生母を持つ天皇が誕生することにもなるわけです。