神社・神道 豆知識集の第4回。今回は以下の2本立てでお送りする。

 

・黄泉の国から帰ってきたイザナギ

・石神、ミシャグジ、アニミズム

 

■黄泉の国から帰ってきたイザナギ

 

過去記事「神社・神道 豆知識集(2)」で、古事記等の日本神話におけるイザナギ・イザナミの黄泉の国(よみのくに)の話というのは、実際にはイザナミが9次元の世界から10次元の世界に行ってしまったという事実の比喩だということを書いた。

 

それでは、イザナギはどうなってしまったのだろうというのが今回の記事である。

 

まず、日本神話の中での黄泉の国の話をおさらいしておこう。

 

イザナミは火の神様カグツチを生んだ際、そのカグツチの火に焼かれて死んでしまう。そして、黄泉の国へ行ってしまうのだが、イザナギはイザナミのことを忘れることができず、黄泉の国まで追いかける。

 

イザナミは既に黄泉の国での食事をしてしまっており、元に戻ることができない。だが、せっかくイザナギが来たので、「黄泉の国の神様と相談してみる、その間決して自分の姿を見ないように」と言い残して姿を消す。

 

ところが、あまりにも長い時間イザナミが戻らないので、イザナギはついにイザナミの姿を見てしまう。そして、イザナミは手下の魔女たちとともにイザナギを追いかけ、イザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)から命からがら地上に逃げ戻ったというお話である。

 

もちろん、神話というのは比喩である。実際の話そのものではない。当該過去記事に書いたように、これはイザナミが9次元の世界から10次元の世界に行ってしまったということを神話にしたものなのである。

 

では、イザナギはその後どうなったのか。

 

「黄泉の国=10次元の世界」なのだから、10次元の世界という9次元の世界から見た死の淵、我々の世界の喩えで言うならば、三途の川の眼の前まで行ったのだが、そこから生還したということなのだろうか。

 

正解を書こう。

 

実は、イザナギもイザナミを追いかけて10次元の世界に行ってしまった。現在、イザナギの本体はイザナミと同じく10次元の存在である。

 

ところが、イザナミと違う点がある。

 

イザナギは10次元に行ってしまった後、9次元の世界に自分の分身を降ろしたのである。

 

それを神話の中では、黄泉比良坂からなんとか元の世界に戻ってきたと書いているのである。

 

この9次元のイザナギの分身である高次元存在は「アルクトゥルス人より地球人へ」という例の本の中に出てくる。興味のある人は探してみてほしい。

 

ちなみに、この本にはアルクトゥルス人としてのサナト・クマラが出てくる。当然、サナト・クマラの本体は11次元の存在なので、この本に出てくる9次元のアルクトゥルスのサナト・クマラというのは分身ということになるのである。

 

このように、高次元存在の場合には、本体ではなく分身の話であるという可能性についても注意する必要があるのである。

 

■石神、ミシャグジ、アニミズム

 

少し前の記事「神社巡り 武蔵国延喜式内社(3)」において、日本全国の石神の総本社とされる石神社(せきじんじゃ)について書いた。そして、「石神の定義がわからない」と書いた。

 

今回は、その石神について、そして関連するミシャグジ、アニミズムなどについての話である。

 

まずは、当該記事の引用から。

 

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石神というのだから、石の神様である磐長姫(イワナガヒメ)を祀るのかと思いきや、御祭神は高皇産霊尊(タカミムスビ)、神皇産霊尊(カミムスビ)とのこと。

 

しかし、東京都青梅市にはJR青梅線に石神前という駅があり、その駅前にある石神社(いしがみしゃ)の御祭神はやっぱり磐長姫である。どうも、石神の定義がわからない。ともかく、当社の御神体は石棒(せきぼう)なのだそうである。

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ちなみに、前の記事では特に言及しなかったのであるが、この東京都青梅市の石神社はお奨めの神社である。少し寄り道になるが、画像を貼っておきたいと思う。

 

 

 

 

本題に戻ると、その後、石神とは何かということについて、女神様たちに色々と質問した。それをまとめておこうというのが本記事の趣旨である。

 

まず、石神とは、石を御神体とする神様のことである。といっても、まず、「御神体」という言葉がわかったような、わからない言葉だと思うので、御神体を説明しておく。

 

御神体というのは神様の「依り代(よりしろ)」のうち、一時的ではないものを指す。さらに「依り代」という言葉がわからないと思うのだが、依り代というのは、神様が宿る何らかの物体のことである。

 

ここでいう神様とは神道の神様であり、神様の本体はだいたい9次元に存在するものであるが、分身を4次元の地球に派遣している。

 

9次元の高次元存在がつくれる分身の上限は数百程度であるため、全ての神社ごとに分身をつくれない場合も多々あるが、参拝者数の多い神社には常駐の分身を派遣し、参拝者数が少ない神社や境内社などには、たとえばエリアごとに分身を割り当て、その中で瞬間移動するなどして対応している。

 

この4次元の地球にいる神様の分身が一時的または定常的に存在している場所の物体が依り代である。

 

ただし、この依り代と呼ばれる物体は、3次元の世界にも4次元の世界にもまたがって存在しており、実際に神様の分身が存在しているのは4次元の物体の方である。

 

そして、御神体と言った場合には、神様が通常時に定常的に存在している場所の物体ということになる。

 

そういうことで、石神というのは石を御神体とする神様であり、通常その神様は石の4次元部分に存在しているということになるのである。

 

これが石神という言葉の表面的な定義と意味である。

 

ただ、石を御神体とすれば石神ではあるが、人間が特別な石を発見してそこに神を見出したからこそ、その石を祀ったのである。順序としては、人間が石に特別さを見出したことが先にあったと言える。そして、その石を神様として祀ったから、その石に神様が宿るようになったということになる。

 

石神と関連する概念として「ミシャグジ」または「ミシャクジ」などと呼ばれる信仰がある。

 

長野県の諏訪大社の周辺にはミシャグジ信仰というものがあるのである。これは諏訪大社の御祭神であるタケミナカタへの信仰よりも古くから存在しているというものである。

 

国譲り神話において、タケミナカタはタケミカヅチに追い詰められて諏訪に逃げ、そして一生諏訪の地から出ないことを約束する。

 

しかし、諏訪には元々別の神様がいたのである。それが、洩矢神(もりやしん)である。ここでもう一度戦いになり、今度はタケミナカタが勝ったとされる。そして、タケミナカタの子孫である諏訪氏は大祝(おおほうり)と呼ばれる現人神(あらひとがみ)の地位、洩矢神の子孫である守矢氏は神長官という神官筆頭の地位となった。

 

その守矢氏の氏神がミシャグジなのだそうである。

 

守矢氏の祖先が洩矢神なのだから、洩矢神を祀りそうなものなのであるが、実際にはミシャグジを祀っている。これは、洩矢神がミシャグジを祀っていたから、その習慣が子孫に受け継がれたのだと思う。

 

諏訪大社の前宮と本宮の間には神長官守矢史料館などがある守矢氏の敷地があるのだが、そこには神社も存在しており、その名称が「御頭御社宮司総社(おんとうみしゃぐじそうしゃ)」である。ほかにも周囲には南方御社宮司社(みなみかたみしゃぐじしゃ)、北方御社宮司社(きたかたみしゃぐじしゃ)といったミシャグジ信仰の神社が点在している。

 

この辺りの詳しい話は過去記事「神社巡り 諏訪大社 上社(2)」を参照していただきたい。

 

さて、ミシャグジとは何であろうか。

 

さきほどの神社名称のように、現在ではミシャグジに「御社宮司」という漢字などを当てているのだが、実は「御石神」なのである。

 

石神は「いしがみ」のほかに「しゃくじん」「しゃくじ」などとも読み、実際に東京都練馬区には石神井公園(しゃくじいこうえん)という公園・駅名が存在する。

 

だから、諏訪周辺のミシャグジ信仰とは、実態としては石神信仰なのである。

 

これらが同じところから発生している信仰であることを踏まえ、では「石神信仰とは何か」という話になる。

 

石の神様は磐長姫(イワナガヒメ)だから、磐長姫信仰なのだろうか。それは違うのである。さらに、石神の総本社の御祭神であるタカミムスビ、カミムスビへの信仰というのも違うのである。

 

ミシャグジ信仰は精霊信仰のようなものと聞いたことがあったのだが、これが正しい答えである。

 

石神信仰もミシャグジ信仰も、自然信仰、精霊信仰、アニミズムの一種であると言える。

 

「大自然の中に神を見る」ということであるが、これはもっと言えば、「目に見える全てのものの中に神を見る」ということになる。

 

これを神道の世界に置き換えて考えると、「八百万(やおよろず)の神」という概念がまさにこれなのである。

 

神道では大自然の中の要素に神を割り当てている。

 

山は「オオヤマツミ」「ハニヤマヒメ(=磐長姫)」「コノハナサクヤヒメ」など。

 

海は「オオワタツミ」。火は「カグツチ」。風は「シナツヒコ(シナトベ)」。水は「ミズハノメ」「タカオカミノカミ」。石は「イワナガヒメ」。

 

こうやって個別の神様を役割分担することで、大自然への信仰と結びつけているのである。

 

石神は石を御神体とする神様ということだったのだが、この石というのは、大自然の中の身近なシンボル的要素と言うことができるのである。つまり、石で大自然を代表させているのである。

 

だから、石神信仰は大自然への信仰であり、ミシャグジ信仰も同様なのである。

 

そして、石神の総本社とされる石神社の御祭神がタカミムスビ、カミムスビとなっているのは、実は八百万の神をその二柱で代表させているという意味になる。本来、石神信仰は大自然の神である八百万の神への信仰ということなのだが、神道の神は個別の神であるために、形式上、そのような形になっているということなのである。

 

神道の神は個別の神なのだが、八百万の神という概念によって、このブログで言っている「全体意識」「ワンネス」「空」という悟りの世界と結びついているのである・・・と書きたかったのであるが、女神様たちによれば神様たちも「そこまでは考えていなかった(笑)」とのことである。

 

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過去記事はこちらからどうぞ。

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