(前回の続き)
前宮と本宮のちょうど中間地点くらいに神長官守矢史料館というのがある。ここには初めて行く。神長官(じんちょうかん)は神官の筆頭の地位。そして、それを代々務めてきたのが守矢氏である。
ただ、もう一つ、 大祝(おおほうり)と呼ばれるタケミナカタの子孫とされる諏訪氏一族が務める現人神としての地位があり、確執があったとされる。
展示スペースは「これだけ?」と思うほどの狭さだが、興味深い展示である。
上社には御頭祭(おんとうさい)という神事があり、江戸時代の御頭祭の状況を復元したのがこの展示である。当時は前宮の十間廊(じっけんろう)で神事が行われ、鹿の首75頭を備えるなどした。その75頭の中には必ず耳の割れた鹿が(偶然)含まれるのが不思議とされた(下から2番目の画像)。
この奥には古文書の展示があったが、その空間は撮影禁止となっていた。
大祝(おおほうり)の諏訪氏は武田信玄の侵攻により宗家は滅亡するが、従兄弟にあたる諏訪頼忠が神官として生き延びたとのこと。この諏訪頼忠はその後諏訪を離れざるを得なくなり、上社の神長官だった守矢氏に上社の再建を託す手紙を出す。その手紙が、守矢史料館の今回の企画展において展示されていた。
この神長官守矢史料館は守矢氏の敷地内にあるのだが、さらに奥に進んでいくと御頭御社宮司総社(おんとうみしゃぐじそうしゃ)という神社がある。この神社だけは前回参拝に来ている。ここも守矢氏の敷地内のようだが、一応通れるようにはなっている。
前回の記事で説明したミシャグジ信仰の神社である。資料館の人の説明では、守矢氏の氏神と言っていた。
ところが、ややこしいのだが、守矢氏には洩矢神(もりやしん)という神様がいる。タケミナカタが諏訪に追われる前に元々いた諏訪の神様である。
国譲り神話において、タケミカヅチが大国主に国譲りを迫り、大国主が息子の了解を得て欲しいと言った息子の一人がタケミナカタであり、タケミナカタはタケミカヅチに力比べで敗れて諏訪に追われたということである。
そして、その諏訪に元々いた洩矢神とタケミナカタの間で戦いになったのである。
これは洩矢神が敗れたということになっており、それゆえに諏訪大社の御祭神はタケミナカタとなり、タケミナカタの子孫が大祝(おおほうり)と呼ばれる現人神の地位、洩矢神の子孫である守矢氏は神長官という神官筆頭の地位となった。その後も両者間の確執はあったのだが、表面的には共存していたということらしい。
そして、ここでの私の疑問は守矢氏の氏神は洩矢神ではなくミシャグジなのか、ということである。この件は諸説あって、はっきりとは判っていないようであるが、守矢氏の祖先である洩矢神自身が祀っていた対象がミシャグジなのではないだろうか。それほどミシャグジ信仰というのは古い時代からあるのである。
なお、岡谷の南に洩矢神を祀る洩矢神社が現存する。また、本宮から洩矢神社へと向かう途中には上社と関連の深い神社やミシャグジ信仰の神社が点在する。
守矢史料館を後にして本宮に向かう。途中でもの凄い見た目の神社が目に入ってくる。それが北斗神社である。
ほとんどの人が立ち止まって、下から見上げてしまう。山に向かって急角度の石段が延々と続くのだが、それを登り始めた人は見たことがない。私も当社を最初に見つけた時はやめておいたのだが、2回目に意を決して石段を登って参拝した。だが、当然ながら初雪が降った状況では危ないから、やめておいた方が良い。
4年前に参拝した時の画像。
さらにその先、いよいよ本宮の大鳥居をくぐった左手に若宮八幡社。ここには今回も参拝。
ここにも御柱が見られる。
さて、やっと本宮に到着なのだが、1つ問題がある。前宮からの道の突き当りにも入口鳥居があるのだが、これは正面鳥居ではない。いつもは、前宮からの順路のまま近い鳥居から入っていたのだが、今回は事前に女神様たちに正面鳥居から入るように言われていたので、その通りにした。
ところが、参拝の後、近くのカフェで時間調整をしていたところ、別の客がお店の人に対して「どちらの鳥居から入るのが正式なのか」を質問していた。お店の人の答えは、「前宮から近い鳥居から入るのが正式」とのこと。
これを書きながら再度女神様たちに質問すると、「歴史的にはそういうことになっているが、神様からすると、やはり正面から入りなさい」という答え。
「正式」とは何かということになるが、大祝や神長官は前宮側の鳥居から入っていたのではないだろうか。
これが正面鳥居。
社殿を取り囲む瑞垣があるのだが、その手前の石段下に一之御柱。
どうも4本の御柱を建てる位置がよく分からない。社殿を囲むように4本の御柱を建てるのは間違いないだろうが、瑞垣の右手前角というわけでもない。周辺の小さな神社なら境内の四隅に結界をつくるように建っている感もあるのだが。ここは正面鳥居を入ってすぐのところ。ここに一之御柱は何か中途半端な位置に感じてしまう。
瑞垣内の拝所。
「拝殿」ではなく「拝所」と書いたのには理由がある。拝殿は別の社殿としてその奥にあるのだ。だが、そこは一般人は立ち入り禁止。そこで手前に参拝をする場所ということで拝所がある。
ネットで「拝所」で検索して調べてみると「うがんじゅ」という読みが出てきてしまう。沖縄で神を拝む場所をそう呼ぶのだと言う。しかし、いくらなんでも、沖縄以外では「はいしょ」だろう。なぜ検索しても「はいしょ」という言葉が出てこないのか不思議である。
この「拝所」と「拝殿」の二重構造の神社はたまにあるような気もしたのだが、検索してもほとんど出てこないので珍しいのかもしれない。唯一、検索して出てきたのが宮崎神宮で、確かにそうなっていた。また、呼び方として「外拝殿」「内拝殿」のような場合もあるかもしれない。
こんな話をわざわざ書いたのは、最初の頃はここが拝殿だと思っていたのである。ところが、よく考えると諏訪大社には(前宮を除いて)本殿がない。この拝所の奥にあるのは本殿ではないのである。
これが拝所の奥の立ち入りできない場所にある「拝殿」。ここだけ見れば、春宮や秋宮の拝殿のような形をしているし、諏訪周辺のそれなりの規模の神社にはこんな形の拝殿が多い。これが「諏訪造」という社殿の建築様式である。中央の部分が幣拝殿、左右に片拝殿というものが並ぶ。
そして、本殿はなく、御神体は拝殿後背にある守屋山(もりやさん=標高1651m)である。守屋山は諏訪市と伊那市の境界にある。
守矢氏、洩矢神、守屋山。
本宮の中で最も独特な「布橋」と呼ばれるもの。なぜ布橋と呼ばれるかは諸説あり。大祝専用の通路という説もあるが、異論もある。とにかく、誰かが通る時に布を敷くことから「布橋」となったらしい。
もちろん、現在では誰もが布を敷かずに通行することができる。最後の画像は前回参拝時のもの(諏訪大社は何度も参拝しており、参拝のたびに全ての写真を撮る必要がなくなったため、一応カメラは持っていくが適当に撮っているので欠けが多い)。
この布橋のあたりに東宝殿・西宝殿という社殿があり、なんと最も重要な社殿らしいのである。が、全くそんな認識がなかった私は過去に一度も写真をとったことがない。宝殿が何かは知らないが、神宝を納めた社殿かなにかくらいの認識で、それに対して参拝するということもないから、素通りだった。
私の神社に対する見方は、おおむね気功的・エネルギー的な見方であって(場の気の素晴らしさを感じる)、あまり歴史的な背景とか由緒書には注意を払っていないし、そこを突き詰める楽しさというのは私の楽しみ方とは少し違うのである。もちろん、全て無視するとかいうことでもないが。
そういうことで、最も重要な社殿である「宝殿」については、今回はスルーということにしておく。
布橋の途中にある大国主社。当社御祭神のタケミナカタの父である。
摂末社遥拝所。画像は前回参拝時のもの。
布橋の出口。前宮側の鳥居に一番近いところなので、「正式な」参拝においては「入口」である。
布橋の出入り口付近にある、摂社の出早社(いずはやしゃ)。御祭神はタケミナカタの御子である出早雄命(いずはやおのみこと)。私は、さすがにタケミナカタの御子まで全て知っている変人ではないので、唯一、タケミナカタの御子として認識できる(名前は聞いたことがある)神様である。ウィキペディアによればタケミナカタは最大二十二子をもうけたとされ、出早雄命は第八子とも第一子~第三子とも説があるとのことである。そして、なんとタケミナカタが戦った相手である洩矢神の娘を娶ったという。
普通の境内社より立派な社殿だが、神馬社。
二之御柱と大欅。左は布橋の出入り口。
今回はいなかったのだが、前回参拝時にこの辺で佇んでいると、ボランティア・ガイドを名乗る人が話しかけてきて、「実は御柱は触っても良いんですよ。地元の人しかほとんど知らないんですけど」ということだった。
一般的には、あまりパワースポットの御神木に触れたり抱きついたりは、個人的にはやらない方が良いという認識なのだが、御柱は良いとのこと。
パワースポットにおける御神木への「抱き付き行為」は、木からエネルギーを抜き取って枯らしてしまうことにつながる可能性があるのに対して、御柱の場合には既に切ってある木であるし、7年目(満6年)ごとの建て替えだから問題ないということではないだろうか。
神楽殿。なかなかである。太鼓の表面を見てみたくて近寄って行った。
高島神社。高島氏は諏訪藩の藩主。上諏訪近くに高島城がある。
この後、上諏訪に出る「かりんちゃんバス」に乗るのだが、1時間以上も時間が余ってしまった。近くに諏訪市博物館というのがあり、諏訪大社や御柱に関する展示があるとのことだが、あいにく改修工事期間で閉館中。そこでカフェで時間調整をしたところ、前述のようにどちらの鳥居から入るのが正式なのかという話が聞けたのである。
本宮から先、諏訪湖方面に歩くと実はまだまだ上社と関係の深い神社がたくさんある。一番近い南方御社宮司社(みなみかたみしゃぐじしゃ)は徒歩17分ほどの距離にあり、ミシャグジ信仰の神社である。その先、北方御社宮司社(きたかたみしゃぐじしゃ)、習焼神社(ならやきじんじゃ)、蓼宮神社(たてみやじんじゃ)、千鹿頭神社(ちかとうじんじゃ)と良い神社が続くので、歩くのが好きな人にはお奨めしたいコースである。私はこれらの神社には前回の諏訪旅行で参拝している。
次回は諏訪大社下社を紹介する。