前回の続き。

 

武蔵国の式内社巡りで最後まで残ったのが賀美郡(かみぐん)という地域である。これは駅で言うとJR高崎線の神保原駅の周辺になる。周辺といっても北にも南にも式内論社が点在しており、特に南は八高線の丹荘駅あたりまでに及ぶ。そして、公共の交通機関がほとんど利用できない地域なのである。

 

1つ1つの神社としては極端に行くのが難しい神社などはないのであるが、この地域の式内論社をまとめてまわろうとすると、これが大変なのである。かなりの工夫をしないと1日で20kmくらい歩かないといけないことになる。

 

まず朝一番に、この日2回だけ(帰宅時は除く)使った徒歩以外の交通手段を利用する。神保原駅から上里町コミュニティバスこむぎっち号に乗る。1日3本のみ、日曜運休という貴重なバスである。駅の北側で最も遠い目的地の近く、八町河原というバス停で降りた。

 

ここから徒歩5分で八町河原の稲荷神社に到着。

 

 

ここが今木青坂稲実荒御魂神社という難しい名称の式内社の論社となっている。当時の読みは「イマキアヲサカノイナミアラミタマノ(じんじゃ)」。

 

賀美郡というのは式内論社が一番多い地域である。候補社がたくさんありすぎ、確定できないのである。そして、次に紹介する今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ)以外は社格も低い神社ばかりなので、全く期待していなかった。

 

だから、社号標の「指定村社」という文字を見て少し驚いたのである。

 

指定村社というのは、村社のうち、神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)としての指定を受けた神社を指す。神饌幣帛料供進社というのは神様へのお供えの費用を地方自治体から受けることができた神社であり、それは実質的には資金援助を受けているということになる。村社のうちでも一部の神社のみがこの指定を受けていたものなので、社格としては通常の村社よりも上位の扱いという感じになるのである。

 

 

期待がゼロに近かったことを思えば、良い神社だった。まあ普通の村社である。評価は2.5。

 

続いて、ここから徒歩11分の今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ)に向かう。延喜式神名帳に今城青坂稲実池上神社(当時の読みは「イマキアヲサカイナミノイケカミノ(神社)」)と記載されているそのままの名称の神社ではあるが、ほかにも論社は存在する。

 

 

今城青坂稲実池上神社の通称は池上神社。今回の旅行で唯一の県社という格式である。

 

ただし、近代社格という明治時代にできた社格も、延喜式内社ということは考慮している。そのために社格が高くなるケースもある。当社からはそんな印象を受けた。

 

 

鳥居と参道。

 

 

 

まずまずの神社ではあるが、正直なところ、県社レベルではないという印象か。式内社でなければ県社ではなかっただろう。評価は3.0。

 

さて、さきほどの八町河原の稲荷神社は今木青坂稲実荒御魂神社の論社であった。当社は今城青坂稲実池上神社の論社。

 

非常に名称が似ている。実は、今城3社というのがあり、今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社、今城青坂稲実池上神社。全て式内社である。荒御魂(あらみたま)神社のみ「今木」という表記になっていることが多いが「今城」でも良いだろう。また、「青八坂」は荒御魂神社と池上神社においては「青坂」となっているが、実質的には同じものであろう。

 

ともかく、この今城3社というのは、現在ではもうわからなくなってしまったのである。論社がたくさんあるのである。ここで武蔵国賀美郡の混乱した状況を見てみよう。

 

私の神社サイトである現代神名帳の武蔵国の巡拝のページから引用する。

 

 

後述の長幡部神社以外は論社だらけで、もう訳がわからない。それを全て巡っていくのが賀美郡の式内社巡り。

 

しかし、この池上神社は一応県社に指定されているので、この地域の式内論社としては群を抜いている。ほかには郷社すらないのだから。

 

ちなみに、池上神社への参拝によって、埼玉県内で自分が知りうる限りにおける県社の巡拝もあと1社で完了という状況となった。その残りの1社というのも隣の駅である本庄から徒歩18分の距離にある。

 

今回、是が非でもその県社、本庄にある金鑚神社(かなさなじんじゃ、武蔵国二宮の金鑚神社とは別の神社)にも寄りたかったのだが、長い距離を歩くことが想定される今回はどうしても歩く距離を抑えたかったのである。往復36分はかなり痛いのである。泣く泣くまたの機会へと見送りとなったのである。

 

なお、近代社格における県社以下の神社の完全なリストというのは現在では失われている。第2時世界大戦で不明となったのである。私の神社サイトにおいては県社(東京・大阪・京都では府社)の復元率は84%くらいである(第2時世界大戦終了時の県社の総数は知られている)。

 

池上神社の帰りは神保原駅まで歩くのだが、その途中に石神社(せきじんじゃ)というのがある。なんと、日本全国の石神の総本社とされるのだそうである。

 

 

 

石神というのだから、石の神様である磐長姫(イワナガヒメ)を祀るのかと思いきや、御祭神は高皇産霊尊(タカミムスビ)、神皇産霊尊(カミムスビ)とのこと。

 

しかし、東京都青梅市にはJR青梅線に石神前という駅があり、その駅前にある石神社(いしがみしゃ)の御祭神はやっぱり磐長姫である。どうも、石神の定義がわからない。ともかく、当社の御神体は石棒(せきぼう)なのだそうである。

 

そして、石神は「いしがみ」のほかに「しゃくじん」「しゃくじ」などとも読むそうで、諏訪大社の周辺に見られるミシャグジ/ミシャクジ信仰とも関係するらしい。また、東京都練馬区には石神井(しゃくじい)という地名、石神井公園(しゃくじいこうえん)という公園・駅名があり、これは昔村人が井戸を掘ったところ石棒が出てきて、これを石神様として祀ったことに由来するという。これが石神神社、現在の石神井神社の始まりとのこと。

 

ちなみに、氏子さんらしき人が声を掛けてきて、親切にも「本殿(正しくは拝殿)にある木の箱の中に由緒書があるので、よかったらどうぞ」と言ってくれたのだが、中を見たら品切れなのであった。

 

石神社の評価は3.0。郷社格相当くらいの結構良い神社。

 

神保原駅まで戻って、今後は駅の南側へ。

 

本日2回目の徒歩以外の手段、タクシーを使って七本木神社(しちほんぎじんじゃ)に向かったのだが、最寄駅からタクシーを乗ったにもかかわらず、運転手が七本木神社を知らないのである。それほどまでに、武蔵国における式内論社はマイナーな存在なのである。なお、この後の神社巡りは全て徒歩である。

 

 

 

今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社、今城青坂稲実池上神社という今城3社全ての論社である。いずれも元々の式内社は当社に合祀されたという説である。

 

いずれかの説は正しいのかもしれないし、どれも正しくなく、当社はただの神社であるという可能性もある。

 

当社は公園的な神社であり、きちんとした参道というものがない。特に人の通り道を定めていないので、多少違和感がある。

 

指定村社なのだそうであるが、少し物足りない感じであり、評価は2.5-。

 

 

 

次は上里町堤という場所の熊野神社。

 

とても小さな神社なのだが、社号標に誇らしく刻まれているように、今木青坂稲実荒御魂神社の論社である。このことは由緒書にも説明されている。

 

今木青坂稲実荒御魂神社の論社と伝わるのだが、それを裏付ける資料はないそうである。

 

当社の評価も2.5-。

 

この後、上里町五明という場所の天神社に向かう。途中にこの辺り一帯で最も立派な神社である郷社の菅原神社があるのだが、これは式内社とは無関係だという。もちろん、参拝はしているが省略させていただく。

 

 

 

 

上里町五明の天神社。指定村社であり、今城青八坂稲実神社の論社。

 

爽やかで美しい境内風景。全く無名の村社でも、村社には村社の良さがあり、参拝に訪れる喜びがある。前回記事で紹介した奈良神社や当社などはその好例。

 

また、このように喜びを感じるということは良い場の気に満ちていることの証左なのであり、一種のパワースポットということなのである。もちろん、有名なパワースポットとはエネルギーの強さが違うとは言えるが、このような神社は日常的に訪れるには良い場所なのである。

 

当社の評価は2.5+。評価を2.5+とか2.5-とか細かく付けていると思われるだろうが、私としては2.5+と2.5-はかなり大きな差であると感じている。「上位の村社」と「下位の村社」というイメージであるが、色々な村社を巡ってみれば、その差はかなり大きいということが体感できる。

 

 

 

 

次は賀美郡の中で唯一、今城3社とは無関係の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)。延喜式神名帳に記載のままの神社名称であり、ほかに論社が存在しない式内社である。つまり、当社はほぼ式内社であることが確定している。

 

由緒書によれば、江戸幕府が編纂した新編武蔵風土記稿という文献におおよそ次のような意味のことが書かれているという。「長幡五所宮は村の鎮守であり、延喜式神名帳に加美郡(原文ママ)長幡部神社と記載されているのは当社という。今は最小社となってそれほどの古社には思えないが、長幡郷中の鎮座でありその地名も広く知られており、当社はおそらく式内社である」。

 

ここでは江戸時代の文献が式内社の論拠となっているわけである。

 

その新編武蔵風土記稿にもあるように、現在でもとても小さな神社であり、神社としての場のエネルギーはそれほど感じられなかった。だから、神社としての評価は2.0+になってしまうのであるが、それでも美しい絵画のような神社風景を見ていただければと思う。桜、青空、白い雲・・・。

 

本日の予定はあと2社。

 

 

 

皇大神社(こうだいじんじゃ)。一般に皇大神社は「こうたいじんじゃ」と読むことが多いが、ここでは「こうだいじんじゃ」と仮名が振られていた。

 

当社もさきほどの新編武蔵風土記稿に今城青八坂稲実神社と伝えられていることが記載されているという。

 

明治時代には1つの村に1つの神社を目指して日本全国で合祀政策(神社の合併、村で一番有力な神社を残して、ほかの神社を廃絶する)が推進されたのであるが、その際にさきほどの長幡部神社が村社となったため、当社はいったんは廃絶になり長幡部神社に合祀されたのだが、第2次世界大戦後に氏子の希望によって、当地にそのまま残されていた社殿に再度遷座したのだそうである。

 

色々複雑な事情があるが、現状では神社としての気をほとんど感じることができず、評価は2.0である。このような式内論社もあるということで、見ていただいた。

 

さて、この旅行の最後の締めくくりは神川町八日市の熊野神社である。今城青八坂稲実神社の論社。

 

 

社号標には「指定村社 熊野神社」の文字。

 

 

当社も桜が美しく、場の気が整った、村社らしい村社。一見したところ、平均的な村社で評価2.5かと思った。

 

 

だが、社殿左手にある社叢が素晴らしい。この社叢が私の心を捉えた。しばらく場の気に浸って佇んでいたいと思わせるものであり、実際にそうしたのである。

 

 

本殿の覆屋(おおいや)が透明になっていて、中の本殿が見える。しかし、美しく見えるようになっていないのが非常に残念。「一応中が見える」といった感じである。

 

過去にこのブログでも触れたことがないのだが、「本殿」には「建物としての本殿」と「祭壇としての本殿」の2種類がある。当社の本殿を取り囲む覆屋が普通の建物だったと想像してほしい。その場合、中が見えないのだから外側の建物を本殿として紹介するはずである。しかし、本当は中に祭壇としての本殿が存在するわけである。

 

狭義の意味においては祭壇としての本殿が本当の本殿である(と思う)。

 

広義の意味においては、祭壇としての本殿を取り囲んでいる建物は全て覆屋である(と思う)。

 

ただ、現実的にはどちらも本殿と呼ぶことが多く、わざわざ覆屋と言った場合には本殿を保護する簡易的な囲いを指すことが多い。

 

 

これは東京都青梅市の千ヶ瀬神社(ちがせじんじゃ)の本殿とその覆屋である。これが簡易的な囲いとしての覆屋の例である。逆に、こういったものを指して覆屋と呼ぶことが多い。

 

なお、覆屋は覆殿(ふくでん、おおいでん)などとも呼ばれる。

 

この辺りが神社趣味の難しいところであり、神社趣味人といえども専門家ではないし、こういったことに関する明快な解説を読んだこともないので、過去の体験から「そう思う」と言っているだけなので、間違っていたらご容赦いただきたい。

 

さて、八日市の熊野神社は一見したところでは普通の村社と思ったのだが、社殿左手の社叢があまりにも素敵だったため、大幅加点して評価3.0である。

 

この後はJR八高線の丹荘(たんしょう)駅まで歩き、帰途についた。

 

なお、丹荘駅は武蔵国二宮である金鑚神社の最寄駅でもある。また、実はこの辺りにはまだ式内論社があり、今城青坂稲実池上神社の有力な論社である神川町の今城青坂稲実池上神社、今城青八坂稲実神社や荒御魂神社の論社である阿保神社(あぼじんじゃ)、お隣の郡であるが地理的に近い那珂郡甕たま神社(みかたまじんじゃ)の唯一の論社であるみか神社などが存在する。

 

これらの神社には既に参拝していたため、今回の旅程には含まれず、旅行2日目に歩いたのはおそらく合計15km程度で済ますことができた。これらの神社を含めると1日ではまわりきれないし、歩く距離も合計20kmを超えることが予想されるので、この辺りの式内社巡りはなかなか大変なのである。

 

初回の記事の繰り返しになるが、今回の式内社巡りは、予想を良い方向に裏切って爽やかで楽しいものであった。式内社とはいえ一般的には無名の神社群を長時間歩き回って、少しは大変な思いをして巡拝するわけである。それでも、「行って良かった」というのが感想である。何かの参考になれば幸いである。

 

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