人生とは何か。
このシンプルな問いの答えが、人にはわからない。だから、人生は色々なものに喩えられる。
若い頃の私にとっては、「人生とは檜舞台である」というのが自分なりの答えだった。自分の全てをぶつけていく場所。晴れ舞台。自分というアイデンティティを賭けて、力の限りを尽くしたいと思っていた。
今はどうだろうか。若い頃の考えが間違っていたとは思わないが、もう少し力が抜けた感じだろうか。
「人生とは○○である」という答えの1つとして、「人生とはゲームである」というのがある。若い頃の自分からすれば、「人生とはそんな安っぽいものではない」と反論したくなっただろうが、究極的に宇宙には理由もなく意味もないということを理解した今、もうそんなに力が入らないのである。
以前、うちの女神様たちに、「人生とは死ぬまでの暇つぶしっていう言葉があるけど同意する?」って質問したら、Yesの答えが返ってきた。人生とはゲームであり、宇宙とはそのゲームの遊び場であるという解釈があるわけである。
以下のお話は喩(たと)え話。今回は人生をゲームに喩えて話を進めていく。
人生をゲームに喩えた場合、非常に奇妙なのが、誰もルールを知らないままゲームを始めるという点である。ゲームを進めながら、手探りでゲームのルールを探っていくのである。
それから、人生というゲームの初期設定をしたはずなのだが、それを覚えていないということも奇妙である。
実は、人生というゲームは生まれた時に開始されたわけではない。生まれる前にゲームは始まっている。それが、人生のブループリント(青写真、計画書)と呼ばれるものの作成である。
生まれてくる前に人生のブループリントを作成してからゲームがスタートするのであるが、その際、喩え話ではあるが10万ポイントを持っていると考えてほしい。
その10万ポイントは人生が始まってからでは使用できない。人生というゲームをスタートするに際してすべて使い切る。そして、そのポイントでアイテムを揃えるのである。
たとえば、「日本人に生まれる(恵まれた国に生まれる)」というのは2万ポイントくらい消費する。そのほか、大きなポイントを必要とするのは、「裕福な家に生まれる」「美人に生まれる(笑)」などである。
もっと大きなポイントを必要とするのは、「世界一の○○になる」「プロのサッカー選手になる」などであり、こういうのは5万ポイントくらい必要かもしれない。
「性格が良い」「聡明である」とか、「ある分野で一流の技術を持った人間になる」なども大きなポイントが必要である。
大きなポイントを必要とする例ばかりを挙げたのだが、実は2000~5000ポイントくらいの小さなアイテムも各種揃えなければならない。というよりも、こちらが必須である。大きな夢もあるけれど、人生を生きていく上での必須のアイテム(あなたの長所、武器)もあるだろう。こういうのも15~20種くらい揃えておくのが重要だろう。
だから、逆に言えば、「日本人」以外の数万ポイントの大きなアイテムは1つくらいしか揃えられない。なかなか2つ以上を持っている人は珍しいのである。
これを「天は二物を与えず」と言う。なぜ、「天は二物を与えず」となるかと言えば、最初の持ち点が10万ポイントと決まっているからである(笑)。
ところが、何にでも例外はあるものである。「美人であり」「性格も良く」「お金持ちの家に生まれた」という感じの人も実在する。
どうして、こんなことがあり得るのだろうか。「人生は不公平だ。神も仏もいやしない」と思うかもしれない。
実は、1回の人生だけで考えると、人生は不公平なのである。
なにしろ、その人は16万ポイントからスタートなのだから(笑)。
ほかの人よりも6万ポイントも持ち点が多いので、「日本人として生まれる」「裕福な家に生まれる」「美人に生まれる」はその余分なポイントで揃えられてしまったのである。
ただ、1回の人生だけではなく、全ての転生を考えれば、非常に公平なシステムなのである。
その6万ポイントの剰余というのは、実は過去生におけるダルマ(宇宙銀行での善行貯金)なのである。過去に宇宙にとってプラスになることをやってきて、それを貯金していたのである。それを使っただけなのだから、その人の自由ということになる。
私が人生の中で観察してきた印象を述べると、裕福な家庭に生まれた人は平均すれば性格も良いことが多い。そして、実はこういう人たちはダルマの剰余ポイントを持っていた可能性が高いのである。
もちろん、逆のケースもある。過去のカルマ(悪行の借金)が蓄積していれば、8万ポイントスタート、6万ポイントスタートもあり得る。
その場合、通常の意味においては、恵まれない条件で人生をスタートしなければならない。
どんなに過去生でダルマをたっぶり貯蓄している人でも、何もかも満たされた人生というわけにはいかないので、やりたい人生を送るには持ち点が足りないかもしれないし、そもそもの持ち点が少ない場合も多々あるわけであるが、宇宙の創造主は一発逆転の初期設定をする裏技も用意した。
それが、「過酷な環境に生まれること」である。ハンディキャップである。
「事業家として成功する」のような人生を送りたい場合、これは明らかに大きなポイントを必要とするので、過去にダルマ貯金がある人でもなかなか難しい。しかし、元々カルマがないにも関わらず、例えば貧しい家庭に生まれることなどによって苦しむ(=地球の浄化になる)ことを選択すれば、その足りないポイントを補うことも可能なのである。
だから、昔の成功者というのは、貧しい家庭に生まれた人が多かったのである。
当然ながら、人生の初期設定が全てではない。初期設定で決まっていない部分において頑張れば、カルマという借金の返済やダルマという貯金だってできる。
ともかく、人生というゲームが始まってしまえば、その初期設定に関して文句を言ってみたところで何の意味もないわけで、与えられた初期設定の中で頑張らなければならない。
斎藤一人さんの言葉を借りるならば、「麻雀の配牌(※)に文句を言うやつは勝てない」ということなのである。天から与えられた配牌で頑張る。それしかないのである。
※ トランプで言えば、最初に手札として配られたカード。
ということで、私たちは人生というゲームの初期設定を行った。そして、3次元の地球に向かってエイッと飛び降り、いつの間にか赤ちゃんとして生まれてゲームスタートである。ただし、その際に初期設定の内容や過去生の記憶などは基本的に全て消去される。
幼少期はともかくとして、人生では誰もが悩む。色々悩むけれども、まず、このゲームのルールがよくわからない。
なんとなく生きていくことはできるかもしれない。しかし、どうなれば「勝ち」なのだろうか。
わからないのだけれども、人はわからないながらに色々な仮説を立てる。よくある例を挙げれば、「お金をたくさん集める」「有名になる」「異性にチヤホヤされる」「結婚して子供を育てて充実した(と世間で思われている)人生を送る」などを目標にしてみたりする。
でも、それを達成しても、達成しなくても、やっぱり満たされない。とても「勝ち」とは思えない。さらに悩む。もっと何かあるはずだと。
そして、ある人たちは外側の世界には答えがないのではないかというところに行き着く。外側の世界で世間的な成功を収めようが、満たされない人は満たされない。
「幸せであること」「心穏やかで内面が平和であること」こそ、人間が求めていることなのではないかと考える。
ただ、常に「どうやって」という問題がつきまとう。どうしたら幸せでいられるか、平安な気持ちでいられるかというのは難しい問題である。
難しい問題ではあるけれども、人は自分が好きな事をしている時にはわりと幸せなのだから、この世界でよく言われる言葉で言えば、「好きな事だけやって生きる(好きなことで生計を立てる)」「ワクワクを大事にする」などを目指すようになったりする。
逆に、嫌いな事や嫌いな人とは距離を置く努力もしてみたりする。人はほかの人に嫌われたくないという気持ちがあるので、なかなか「No」を言うことが難しかったりするのだが、いわゆる「嫌われる勇気」を持つということである。
こうして、他人にどう思われるかとか世間体などよりも、自分の本当の気持ちを大事にするというところに行き着いた。ずいぶん長い道のりだった。しかし、まだ終わりではない。これで本当の「幸せ」「平安」を手に入れたとも言えないからである。
そして、最後に「悟り」を目指すことになる。これはさらに「どうやって」というのが難しい問題である。悟りに至るための方法論はないと言われているのだから。
ただ、このブログでは「幸せ」「平安」「悟り」というテーマについて色々と書いているので、参考にはなるはずである。それらについては、過去記事を参照していただきたい。
■覚醒に向けた意識レベルの向上のために ~(8)
では、悟れば人生というゲームに勝ったことになるのか。
この問いに対して、最初私は「もちろん、そんなはずはない」と書くつもりだった。一度そう書いてから、女神様たちに質問したところ、「いや、人生における最初のゴールは悟りでよい」と言われてしまった。
まあ、ちょっとしたニュアンスの違いにすぎないのであるが、悟りを目指すこと、悟りを開くことまで否定してしまっては、人生を生きる指針が無くなってしまうという面もある。だから、「悟り」というわかりやすいゴールを提示することにも意義があるというわけである。
宇宙の創造主視点で考えると、人生というゲームに勝ち負けはない。ただ、宇宙の創造主が創ったこのゲームにおいては、誰もがいつかは「悟り」に行き着くようにできている。
人生に悩んで、悩んで、悩んで・・・、最後には必ず悟りを目指すことになる。この人生でそうならない人だって、転生を重ねれば、いずれ悟りを目指すことになる。
人間は転生を重ねて、いずれは必ず悟りを目指すということなのだから、表面的な世界で行われているゲームにおける最初のゴールは「悟り」であるとも言えるのである。
そして、「悟り」とは何かと言えば、宇宙の全体性を見抜くこと、自分もその全体性そのものであると見抜くことである。
これはこの宇宙という遊び場における基本的なルールを把握したことに相当する。
覚醒までは、ルールを知らないまま手探りでゲームを進めてきた。人生とは何をするところなのだろうかと悩みながら。
しかし、覚醒後は宇宙の基本的なルールを把握したうえで、人生というゲームで遊ぶことになるのである。
では、覚醒後の人生ゲームにおいては何をしたら「勝ち」なのだろうか。
これは決まった答えはないのである。これが私が言いたかったことである。
悟りを開けば最初の目標は達成となる。ただ、当然ながら人生は続いていく。
究極的に宇宙には理由も意味もないけれども、なぜ宇宙や人生が存在するかということへの一番近い答えは「(全体意識が)さまざまな体験をしたかったから」ということも覚者にはわかる。
究極視点に近いところから見れば、全ての瞬間瞬間は「体験」すること自体が目的である。どんな体験も、ある視点から見れば等しく体験である。
だから、勝ち負けはない。
それがわかったから、逆に言えば、本当の自分が望む体験をしていくことになる。「ハートの声に従う」ということである。
世間的な価値観、他人の目などはもう一切関係がない。ハートの声に従って生きる。それは一人一人異なるものである。だから、「悟り」のような人類共通のゴールはもう存在しないのである。
宇宙の創造主が創った、宇宙の枠組みのようなものは存在する。宇宙は3次元~11次元まで存在し、6次元までは意識レベルを高めることでアセンションすることができ、その先では自由意志によってアセンションできること。そして、最後には11次元の世界からのアセンションによって本当の意味での全体意識への帰還を果たして個人意識が完全消滅することなどである。
ただ、覚醒後は必ずしもアセンションがゴールということでもない。もし、アセンションがゴールなら、6次元から先はどんどん自由意志で連続アセンションして個人意識を完全消滅させるのがゴールということになってしまうが、そんな高次元存在は誰もいない。
もし、どんどんアセンションするのが目的なのだったら、11次元まで連続アセンションして、最後に全体意識に溶けていけばよいのだから、7次元以上の世界には誰もいないことになってしまう。それは宇宙が創造された目的に反している。
宇宙はあくまでも遊び場であって、色々な事をして遊んで「体験」するための場なのである。自分の好きなことをして遊ぶこと自体が目的なのだから、ゴールもなければ勝ち負けもないということもわかったうえで、人生というゲームをすることになるのである。
「体験」自体、「遊ぶこと」自体が目的なのだから、それ以上の目的は不要である。
よく、他人がやっていることに対して「そんなことして何になるの?」という人がいる。生計を立てることなどに直結しない趣味や遊びに時間を費やしているような場合に言われる言葉である。
しかし、体験自体が目的なのである。そのようなことを言い出したら、生計を立てることだって「そんなことして何になるの?」ということになる。「生き延びるために生きているの?」という話になってしまう。
宇宙という遊び場で体験したいことは人それぞれである。そして、体験には勝ち負けも優劣もない。ある個人意識の視点から見て、望む体験と望まない体験があるだけである。
覚者はそんなことは百も承知だから、他人に過度な干渉をすることもなく、おせっかいを焼くこともなく、他人との距離感を適切に保っているのである。
そして、自分のハートの声に従って、自分が望む体験だけをしていこうとしているのである。
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