君の名は。
見ました。
公開3日目、8月28日に見ました。まずは私がYahoo!映画に投稿したレビューを転載します。
RADWIMPS楽曲が圧倒的にミスマッチ
RADWIMPSの歌をオープニング、エンディングのみならず挿入歌として何度も何度も聴かされる映画です。
オープニングはTVアニメのようだし、似たような使い方の映像が何度も本編をぶった切る。ただのバンドマンが全編の音楽を監督するという呆れた製作体制。これほど厚顔無恥なバンドが過去にあっただろうか!
ストーリー自体も、タイムリープを扱った過去作に及ばないスケールとツイスト感。携帯データが2度も消えていく展開は、ドラマの都合に合わせた強引な辻褄合わせにしか見えません。
そもそも主人公2人がなぜ意識を入れ替わる事になったのか? ファンタジーであることは分かっていますが、瀧が選ばれる理由が一切描かれていないのは納得できない。「イケメンになりたいなー」の一言で願いが叶った?
説明くさいセリフ、過剰なモノローグも目立ちます。アニメなのに言葉に頼った描写が多すぎませんか?
主人公2人が序盤から涙を流す場面が多すぎて、クライマックスとして機能すべきクライマックスがピンボケ状態。歯車が噛み合わないまま展開していくストーリーについては、RADWIMPSの音楽もその機能不全に役立っていたと思います。
挿入歌が流れる度にセリフがオフになってMVを見せられてる気分になる、そんな映画を傑作と呼ぶ事は出来ません。非常に残念な大作アニメでした。
(追記)
RADWIMPSの歌が使われるのはOP、ED、挿入歌として2ヶ所だそうです。同じボーカルの歌声を1本の映画で4曲も聴かされればしつこいと感じて当たり前だと思うのですが、他のレビューを見るとそうでもないみたいですね。
提供された楽曲に合わせたミュージックビデオのような映像を作っているから、違和感が無いように見えるのでしょう。しかしそれは映画としての完成度を下げてでも「好きなバンド」に自由を与えた結果です。
監督の自己満足としか思えません。
(以上転載でした)
論点をしぼるために、ほとんどRADWIMPS音楽への攻撃に終始してしまいましたが、ストーリーの構成や展開についても受け入れがたい部分が多かった作品でした。
簡単に言えば「その感動のために、世界観/設定を都合よく変形させるのは嫌いだ」という結論です。
この映画には現実世界で起こりえない事象が描かれています。「ある女性と、ある男性の意識が交換される」という事象。日本人に古くから好まれているモチーフです。
この事象には「但し書き、追記、注釈」のように変形が加えられていきます。
意識交換の対象は自分の生活圏からはかなり離れた場所に生きている
女性の意識が、その女性から見て3年後の世界に生きている男性の意識と交換される
意識交換は女性を主体とした現象なので、女性の死によって現象は停止する
意識交換の対象についての記憶は時間と共に薄れ、消えていく
意識交換の対象についてのデジタル記録は、対象の死によって消去される
…こんなところでしょうか。この「追加ルール」の解読・解説・説明によって映画の前半が費やされていると言っても良いでしょう。このルールを理解しようと頭を使う、情報提示とその認識タイミングが同じ事によって生まれる主人公たちへの感情移入などは、映画へ没入するアプローチとしてある意味正しいと思います。
その前半部にキャラ描写やギャグを織り交ぜて退屈にさせないところはこの映画の長所と言えるでしょう。
意識交換は空間や時間が離れていても行われます。時間を超越する点をふまえると、この映画はタイムリープについての映画でもあるといえます。
過去世界への移送、あるいは過去世界への意識転送をモチーフにした物語では往々にして「小さくない危機/危険を回避するため」に奮闘するキャラクターが登場します。この作品では「選ばれた」側の男子高校生が、意識交換対象の女性を死なせた天災被害を食い止めるべく奮闘します。
しかし、この物語の核心でありクライマックスの展開が2つの意味で物足りないのです。
主人公として「奮闘」する男子高校生が
勇気を示していない
リスクを背負わされていない
からです。
彼は彼女と再会したいがために、東京から岐阜県へ移動し、彼女のルーツを辿り、山岳地帯のクレーターへ辿り着き、口噛み酒を飲み、二度と起きないと思われていた意識交換現象を体験します。
この彼の行動に、まったく心を動かされなかった。なぜなら彼は、行動の結果を予測し、恐れ、それでもなお試行するというプロセスを踏んでいないからです。
そして彼の行動は、それによって何かを失うリスクを製作者によって背負わされていません。
つまりは、「結果的に過去を改変できた」という物語にしか見えませんでした。
そしてその物語を彩るべきドラマ性の付与も、ピンと来ない。タイトルにも表されているように、意識交換を体験する2人はお互いの名前を忘れ、思い出そうとします。
その名前を思い出す事が事態の解決/悲願の成就のために必要なのだろう、と予想しました。『君の名は。』という物語が「その展開」を必要としているのだろう、と予測しました。それが外れた事に失望しました。
映画内で最も「あいつの名前を思い出したい!」という欲求が高まった瞬間、この映画は唐突にラブロマンス映画に陥るのです。「お互いの名前を、相手の体(手のひら)に書く」という約束を、彼は破るのです。
新海誠監督は「俺が考える最高にドラマチックな告白シーン」を描きたかったんでしょうか? そのモチベーションだけでこれだけの大作アニメが作れれば大したものでしょうが、まあそれは私の邪推に過ぎません。
こういった行動の意味を観客にハッキリと提示せず、RADWIMPSのうまいとは言いがたい劇伴によって誤魔化している。個性も情熱も欠いたボーカリストの歌にうんざりしながら、クライマックス展開の熱量不足に落胆させられた次第です。
RADWIMPSさんの歌詞世界がどれだけ素晴らしいか知りませんけど映画とは無関係ですからね…こういう無意味な情報で映画の価値を底上げしようとする行為は本当に無駄だと思うし、こんな手法では世界的な評価を得られるはずもない。個人の見解ですが。
クライマックスで再会した2人が名前を尋ねあう。そのセリフと同時に表示されるタイトル『君の名は。』。「最後の最後にタイトル」という手法は古今東西の映画で見られてきた手法ですが、この映画のに取り入れる事で生まれる感動は薄いと言わざるを得ません。物凄く綺麗な着地を描いている風ですけど、そこに至るまでの放物線は、もっと美しくあって欲しかった。
以上、どこまでも個人的な映画レビューでした。