サバカン SABAKAN | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

【作品紹介】

  日本映画。1980年代の長崎を舞台に、二人の少年の友情と、それぞれの家族との日々を描く青春ドラマ。クラスで人気者の少年と嫌われ者の少年が、ある冒険を共有することによって親しくなっていく。出演は草彅剛・尾野真千子・貫地谷しほり等。


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 この作品の評価をネットで調べてみると、総じて高評価である。
「感動した」「素晴らしい作品」「胸が熱くなる」「泣ける」などの誉め言葉が並び、この作品を悪く言う人はかなりの少数派であることが分かる。
 筆者も鑑賞してみたが、もちろん多くの人が言うように魅力的なドラマではあった。だが、手放しで「心温まるドラマ」ではなかった。少なくとも私にとっては。
 ある意味、この世界で生きることの残酷さを見た思いだった。
 以下、この作品のネタバレに関わる内容となるため、まだ未鑑賞で前情報なく楽しみたいという方は読むのをやめ、見た後でまたどうぞ。


 AとBという、ふたりの男子小学生がいる。
 Aはクラスの人気者で、作文が県のコンクールに出るなど皆に一目置かれる存在。Bは年がら年中ランニングシャツという格好で、おそらく家が貧しいのだろうと推測され、性格も気難しくいつも一人。家もボロ家で、皆にからかわれる。
 そんな中Aだけが、皆と一緒になってBをバカにしなかった。そこに心動かされたのか、不器用なやり方ではあるがBはAに関わろうとしはじめ、やがてそこに友情と呼ぶべきものが生まれていく。
 しばらくは、AとBにとって幸せな日々が続く。しかしある日に起きたことが、次第に彼らと周囲の関係者の歯車を狂わせていく。


 AはBの家に招待され、遊びに行く。そこにたまたま、パートの仕事に出ていたBの母親が帰ってきて「あら、(B)のお友達?」と聞く。
 数日後、Aが母親から買い物のおつかいを頼まれ、近所のスーパーにいくとたまたまそこで働いているBの母親と出会い、立ち話をする。
「実はね、あれからBに叱られちゃったのよ。向こうは自分のこと友達と思ってくれているかどうか分からないのに、友達かなんて聞くなって」
 それを聞いたAは傷付く。友達だと思っているのに、まさかそんな風にこっちのことを考えていたなんて! 嫌な気分になったAは、その日からBを遠ざけ、まるで見せつけるかのように他のクラスメイトと仲良くしだす。
 当然、そんなことになってBも気分が沈む。ただいま、と帰ってきてもいつもの元気がないBに、母親は何かあったのだろうかと悩む。
 Bの父親が若くして亡くなり、家系を支えるために昼も夜も働いていて疲労もあったのだろう。自転車をこぎながらボーッと息子のことを心で心配している時、車にぶつかり死亡する。
 さて、Bの母親はなぜ死んだのか。


●原因その1

「Bのお友達?」とAに聞いたことがそもそもの発端。だが、これだけで事件は起きない。次なる要素が必要になる。

●原因その2

 おつかいを命ぜられスーパーに出向いたAとその時間シフトにいたBの母親との出会い。ここでの会話がなければ悲劇は起きなかった。
 間接的には、その時間にAにお使いを命じた母親、その時間にBの母親をシフトに入れた店長までもが関わることになる。もちろん、誰一人悲劇を起こそうなどとは思っていない。

●原因その3

 Aがすねてしまったこと。気持ちは理解できるが、別に相手が何か悪いことをしたわけでも、裏切る行為をしたわけでもない。まだ子どもなので責めるのは酷だが、もう少し寛大な対応をしてもよかった。無視して、他の友達とこれ見よがしに仲良くするという反応は好ましいものではない。これが、Bの母の死の一因となった。

●原因その4

 Aのそっけない対応に、友情が「なにか変わってしまった」ことを感じ取ったBは、今まで友達がいなかった分大きな幸せと喜びを感じていただけに、その落胆も大きかった。彼は、母親の前では心配をかけないように気丈にふるまうという配慮ができるほど大人ではなかった。結局、母親に「学校(友達との間)で何かあったな」と心配させることになる。

●原因その5

 シングルマザーゆえの、労働と家事・子育て(兄弟がBの他に4人もいる)による過労、そして息子に起きた心配な変化。そのことを自転車の運転中に考えてしまい、交通事故に遭う。


 このように、その死は実にいろいろな要素が絡み合った結果である。どれが欠けても起きなったのであり、その意味で「実に悲しい奇跡」と言える。すべての必要条件(カード)が揃ってしまったのだ。
 もちろん、神の視点で物語を俯瞰視点で見る視聴者だから知れることであって、物語中のAもBも、まさか自分が母親の死の原因の一端になっているなどとは夢にも思っていない。もし知ったなら、生きるのが辛くなるだろう。


 宇宙には、こういう「個々人の認識の行き届かないところで、知られざる無数の秘密であふれている」ということである。
 もしそういうのを逐一知れてしまったら、人によっては生きていけないだろう。その事実を知ることがあまりにも辛すぎて、申し訳なさすぎて。
 私たちは、日々命をいただいて生きている。野菜も穀物も魚も、動物も。私たちはその根本を忘れ、命を奪うことに無関心である。私たちは何気なく「いただきます」と言って食べるが、そもそもの根源は「他の命の犠牲の上に自分たちが生きられること、支えられていること」へのおごそかな感謝があるのだが、今誰もそんなこと意識して言ってないだろう。
 だが、それでいいのだと思う。だから、私たちはその「隠されたすべての物事の起きる原因」について知らなくていい。ただ、「私たちの考えなど及ばないところで物事は起き、私たちの理解をはるかに超えているのだ」ということを認めわきまえればそれでよい。
 宇宙の不思議の前にひれ伏し、ただ少なくとも「分かっていること」の範囲の中でよかれと思うことを全力でし、人生を切り開いていくしかない。


 だから筆者には、この映画は「心温まる少年二人の友情物語」とは映らず、どちらかというと「この宇宙の残酷なまでの仕組み」を見せつける映画なのである。そしてそこで何が起きても、その事実を受け止め前に進むしかない、ということもまた確認させられるのだ。