Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。




beatofterra




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 ●クリスチャンがひっくりかえる聖書物語 ~イエスが本当に言いたかったこと~



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 ●何だそうか! 悟り発見伝



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『わたしは命のパンである。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。これを食べる者は死なない。そしてその人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」 と、互いに激しく議論を始めた。イエスは言われた。
『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。』
 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたは、このことにつまづくのか。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。


【ヨハネによる福音書 6章41~71節の要約】


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 某経済学者が世の高齢化問題に関して「唯一の解決策ははっきりしていて、それは高齢者の集団自決である」と言った件に対し、哲学者(らしい)の内田樹氏が「それは解決にはならないと思う」とまともに嚙みついた。その内田氏の批判記事がネット記事になっていた。


 筆者は、ずっこけた。あれをまともに受け取って、真面目に反論するとは!
 上記に、イエスが「私の血を飲み肉を食べないと救われない」みたいなことを言った際、多くの者がカチンと来てイエストのもとを離れた、という聖書のエピソードを紹介した。ちょうどこれと同じである。
 もちろんイエスは、『本当に』自分の血を飲ませ肉を食べさせたいわけではない。文字通りのことを言いたいわけではない。それくらいは皆さんも分かるでしょ?
 自分の血を飲み、肉を食べろと言うことは、つまりはイエスの伝えるメッセージを素直に聞き、自らの意志で受け入れ生かしていくことを意味する。そうすることで、イエスの教えがその人の中で結実し、その人の血となり肉となり、イエスと等しい者(血肉を分けた分身。兄弟)になる、というイメージだろう。つまり物理的に肉を食べ血を飲むことを指したのではなく、精神的な意味合いでの受け入れのことを言ったのだ。でも、当時の頭の固いユダヤ人たちの多くは、文字通りの悪いふうに受け取ってイエスを誤解し、去って行った。
 で、イエスもまた変わった人であった。普通相手が「ああ、誤解してるな」と思ったら、ちょっと待ってくれ。これは物の例えで言ったまでで、本当にそんなことをしろと言っているわけじゃないぞ? つまりだな、飲んで食べるということは自分の内側に受け入れる、ということを暗に指していてだな……なんて弁解する。
 自分の言ったギャグが理解されない時、自分で解説することほど悲しいことはない。それと似たケースだが、ここは恥ずかしくても弁解しないと自分が損をするケースだ。でもイエスは常人とは違った。


●余計、強調した!(びっくり)


 イエスは、ザワザワとしている群衆の声を拾い聞き取った。

「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と。でもイエスは、なぜか意図の解説や弁解をせず、それどころかさらにこう言った。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る』。


●ここであえて否定せず余計に強調することで、頭のいい人なら違和感を感じて「あ、これはこの人言葉通りのことを言いたいんとちゃうな」と察する。
 もしここまで言っても文字通りの意味と思い続けられる人なら、イラネ(人として価値がないというのではなく、別に自分の人生に関わらなくてもいいと思っただけ)と思ったのだ。



 イエスの弟子になるということは、大変なのだ。聖書を読んでいるだけだと、元漁師とか取税人とか、誰でもなれるような感じに受け取ってしまうが、それは結果的にメンツを見たら、ユダ以外はたまたま下級庶民の出であったという偶然によるもので、イエスにはイエスなりの「鑑定眼」があってのことだったのだ。
 一般に入学試験とか入社試験というものは、「その者がこちらでの活躍が見込める者かどうか」を判定するためにある。イエスの言葉はそれと同じだった。それで表面的な言葉につまずく程度なら、自分と共に険しい道を行くことはできぬと考えたのだろう。大勢がイエスのもとを離れてもそれは想定の範囲で、別に悲しくも悔しくもなかった。そんな烏合の衆、どうなろうとよかった。
 ただ、12弟子とされる者たちだけが残った。イエスには、彼らだけがいればよかったのである。あとはいくら数がいてもそれはゼロ、または時にマイナスにすらなる。


「高齢者は集団自決しろ」というのは、以前の記事でも書いたけれど「ちょっと、この問題高みの見物してないで、ちょっと本腰入れて考えようよ!」というメッセージなのである。一種のゆさぶりである。
 本当に高齢者に自決を迫るというより、そういう風に言うことで人はカチンと来てでも、この問題に意識が向く。自分が嫌われても、人々の関心が高齢化問題に向けばもうけものなのである。それで、この言葉の目的は達せられることとなる。
 GACKTが主演し好評を博した「翔んで埼玉」という日本映画の中で、埼玉県民にはそのへんの草でも食わせとけ! というセリフがある。頭の悪い人は、埼玉県民が本当に草を口にするシーンを頭に思い浮かべてしまうのだろうが、これを言っている者は埼玉県民に本当に草を食べさせたいわけではない。


●お前らは下の立場なんだ。劣るやつらなんだということを言いたいだけ。それ以上の意図はそこにはない。


 目の前で誤解されているのに修正せず、さらに煽るようなことを言うイエスもイエスだが、そこまでイエスに茶化されふざけられてさえ、例えが例えと分からない群衆もたいがいである。
 筆者は、一応は哲学者と言われるほどの人が、集団自決の話をまともにとりあげて、ナチスドイツのユダヤ人対応にまで話を広げて大真面目に語っていたことが大変残念である。
 知識人には、知識の豊富さやこの世で通用する頭の良さだけでなく、ジョークのセンスや心の余裕というかブレーキの遊び的な部分もちゃんとないとダメだと思う。

 

 

『終末のワルキューレ』というタイトルのマンガがある。アニメ化もされて、現在第二期までが公開されている。
 お話は、単純には「神 vs 人間」のバトルである。
 神は人間界を観察し、どうしても愚かなままなら人間の世を終わらせようと考えていた。

 そしてついに千年に一度開かれる「人類存亡会議」にて、人間世界の終わりを決定したが、一人が反対。天界の法律にある「超特別条項」に書かれてあることを盾にして、「神々の代表 vs 人類の代表」による最終闘争(ラグナロク)にて、もし人類側が勝てば終末は取り消されるということに。


 普通、神と人間が戦うなんて勝負ならないと考えるだろう。神のほうが圧倒的だと。まぁ常識的な発想ではそうだ。
 このマンガでは、そのままだと神 vs 人間は勝負にならないので、人間側には「神器」、つまりは当たれば神の体を傷付けることができる武器が貸し与えられる。
 それでもやっぱり神のほうが強いんじゃ? と思ったそこのあなた。


●外側の条件を同じにして戦った場合、人間の方が強い場合がある。


 特に、このマンガの「ヘラクレス vs ジャック・ザ・リッパー」の戦いを見てもらえばわかりやすいが—


神は間違えない。間違えないということは逆に、もっとも合理的かつ的確な攻撃しかしない。イコール真面目過ぎて攻撃は強くても単調

 → 人間は間違える。気まぐれ。必ずしも合理的な動きをしない。つまり完璧な存在からしたら信じがたい動きをすることがある。


神は駆け引きをしない。ブラフ(はったり)を使わない(使えない)

 → 負けているような演技、こっちだと思わせて実は狙いはまったく別とか、そんなことを瞬時に考え自然に実行できるのは、「弱い」からこそ知恵を使って生き抜く必要のある人間の専売特許である


 人類存亡会議において人間の味方をした神は、言う。
 人間が神に勝っているものがひとつある。それは悪意よ、と。
 神に悪意はない。
 ここで言う悪意とは、普通連想される「悪いことをする悪い意志・心」のことを言ったものではない。物事を素直に見ず信じず、ああではないかこうではないかと様々な推測をした挙句、自分を守るためにあらゆる手を打とうとする、その先回りの知恵のことである。絶対的強者や完璧な精神性をもつ者は、それをする必要が普段ないため、欠落している精神機能である。
 そうは言っても、なんだかんだ神は強い。マンガの中で神と人間の攻防は一進一退を続け、すぐには勝負が決まらない。


●人間は、形を変えた神である。
 一見弱いが(実際弱いが)実は神にはできないことが出来、神が持たないものをもつ。その意味では人間は神をしのぐ存在でもある。



 先のマンガでは、人類が神に勝っているのは「悪意」と表現していたが、筆者は「感情」であると表現しよう。感情とは喜怒哀楽であり、それを引き起こすのは「今自分が幸せか不幸か(快か不快か)」という知的認識である。
 神には、悪がない=善悪という基準そのものがない。動きはすべて一面的となる。
 だから、自分だけでは満足できなくなったのである。完璧な上位存在は、あえて「欠点」をもつ存在を創造し、エンターテイメントはそこに委ねた。それが我々人間だ。この宇宙だ。
 人間は自分たちのもつ「愛」を、その由来が創造主である「神」にあると考え、神を完璧な愛の存在と考えてきた。特に宗教はその傾向が強い。でも違う。


●神に愛はない。ないからこそ人間に持たせた。
 その点で、人類は神に勝る。



 愛は、いやな言い方をするが「愛でない」と思えることが世界にあるおかげで、対比して「愛」だと認識可能なのだ。幸福も同じで、不幸が世にないなら人間はそれと判断し味わったりできない。この世界が愛だけ、光だけになるというのは、そう考える気持ちはきれいだと思うが頭は悪いと思う考え方である。
 人間は、その醜さと汚なさ(もちろん本当に醜く汚いというより、そのように思うことが可能というだけの話)を引き受けることで、その代償として愛と幸福を得た。そして笑いと快楽も得た。不快や苦痛が存在しないと快楽も分からない。


 負の部分ばかり強調されやすいがゆえに、この人間界は良くばかりは言われない。どっちかというと、人類は醜い怖い幼いまだまだであるとか色々マイナスが取り沙汰されることのほうが多いかもしれない。
 でも、人類は神(上位存在)がもたないすごいもの(特に愛と呼ばれるもの)を持っているのである。諸刃の剣ではあるものの、うまく使えば最高の体験がこの宇宙で可能なのだ。
 だから、胸張って生きよう。欠点も、もっと素晴らしいお宝を内に持つからこそ。これからも、人間を楽しもうじゃないか。

 ちなみに、『終末のワルキューレ』で筆者がこれから見ようとしているお話には、ついに人類代表として、私の好きな新選組の沖田総司が登場するらしいので楽しみである。(今期ではまだ戦わなさそうだけど)

 

 

 今朝、NHKの情報番組『あさイチ』で、動画の倍速視聴に関する特集があった。その中で、倍速視聴に関する本を出した人が登場し、かつてはその人自身も倍速のヘビーユーザーだった経験も踏まえて次のような言葉を言った。


●2時間の作品を倍速で見て「1時間得をした」のではない。
 1時間もかけて「その作品をちゃんと味わえていない」と考えるべき



 筆者はここで、等速がいいのだ倍速はダメだということを主張する気はない。
 確かに筆者は等速主義だが、自分がいいと思っているものをその証拠になるような事例をあげて「ホラみてみろ」とマウントを取る気もない。少なくともここでは、「この世界に絶対の真理はないのと同時に、絶対の間違いもない」と言ってきたのだから。少なくないケースで「等速で見る方が総合的にメリットが大きくデメリットが少ない」というだけの話で、倍速でもそれが当人にそう問題になることもなくむしろ成果をあげることもあり、どこまで行ってもこれは「個人差」のある話なのだ。
 ただ、合う合わないがあるという話。ちょっとでもそれでストレスがあるなら、いくらタイパがよくてもムリはしないでというだけの話。


 筆者もこんなことを文章で書くようになる以前の昔、失敗ばかりしてきた。人生の「遠回り」とも思えるような過ちを多くしでかしてきた。成果や合理性ばかり考えるなら「こんなことやらなきゃよかった」「この~年間は何だったんだ」というような暗黒の時期も人生にはある。
 でも、じゃあそれは全く「なかった」ほうがよかったのかといえば、絶対に違う。


●それまでのすべてがあって、今の私がいる。今のあなたが在る。


 先ほどの倍速視聴に関する本を出した人だって、倍速視聴にどっぷりハマるという一時期を経たからこそ、その問題点を浮き彫りにできるしその言説に説得力も出る。筆者も、旧統一教会の教義を真理と考え、信者として活動した数年間を恥じて「人生にあれがなかったらよかった」と人情的には思う。でも逆に、それがあるからこそ私にできるメッセージがあり、アドバイスがあり、今まさにその問題の渦中にいる人に人ごとや対岸の火事ではなく、気持ちに寄り添うことができる。
 聖書では、イエス・キリストの青春時代の描写がほぼない。生誕時と幼少期・少年期の短いエピソードがひとつふたつあるのみで、そのあとはいきなりイエスが30歳になっている。まさに現代で言うイエスの中高生・大学時代や若さいっぱいの20代に何があった、という情報がないのだ。
 これは筆者に降りた勝手なインスピレーションだが、イエスのいわゆる「なかったことにしたい暗黒時代」だったのではないか。だから、イエスを偉大で尊敬しかできない人物にしておく必要があるために、たとえ情報があってもあえて書かなったということもあるのではないか。
 酒に、女に、暴力に。自身の能力を持て余し、尾崎豊ではないが「この気持ち(やり場のない怒り)をどこにぶつけたらいいのか」悩んだ十数年だったのではないか。
 でもイエスは、迷路で散々迷った挙句、出口には出てこれた。そこからが彼の真骨頂で、イエスの三年の公生涯と言われる、我々が聖書で知る彼のドラマのスタートとなったのである。


 聖書で紹介されているイエスのエピソードには、そうした「しんどい、遠回りした時期があったからこそ」悩める衆生(しゅうじょう。迷いの状態にあるすべての生き物を指す)に寄り添え、また救えたと思えるものもある。完璧でまったく間違えることのない人間の言うことなら、たとえ正しくても誰も耳を貸さない。大事なのは正しいかではなく、気持ちを分かってもらえるか、共感してもらえるかどうかなのだから。
 合理的に考えたら、何かをいいものと思い込んで一定期間やったが、結局間違ってましたと言う時、それは「やらなければその時間を得したのに」となるだろう。でも、人生とは合理的に考えすぎるとどこかでうまくいかなくなる。


●人が何かを本質的に「得る」時、その逆をやる必要がある場合がある。それを合理的に「損した」と思うべきではない。むしろ必要な過程であったと思うこと。
 ただ、人生には最短で皆が思う「正解」を最初から選べてしまう人もおり、それはもう個人差であり宇宙シナリオの違いなので、考えてずるいだの言っても意味がない。それよりは、すべては今在る自分のためにあったと考えたほうがいい。



 銀河鉄道999というアニメの古い主題歌で、「人は誰でも幸せを探す旅人のようなものだ」という趣旨の歌詞がある。自分に一番合う、個々に住みたい! と思える星にめぐり会うまでは、いつまでも歩き続けるだろう、と。
 私たち人間は、その人生をかけて「自分の人生とは、自分にとって生きるとはコレだ!」と胸を張れるものを見つけようとしている生き物だ。その過程で、ああでもないこうでもないはつきもので、色々な寄り道をするだろう。999だって、各駅停車するのだから。色んな駅に降り立ってみるのである。
 そして、合うものを見つけるまで旅は終わらない。ちょうど、動画の倍速視聴をしまくってある時限界が来て、「これだ!」と自分なりの答えにたどり着き本を出版するまでになった冒頭の人物も、そのように旅の落ち着きどころを見つけたのだろう。
 正解にたどり着くことそのものにフォーカスするのではなく、その過程をこそ優しく見つめる眼差しというか、視点が必要なのではないだろうか。あんなことなかったことにしてくれ、とネガティブに思うのではなく。