『わたしは命のパンである。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。これを食べる者は死なない。そしてその人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」 と、互いに激しく議論を始めた。イエスは言われた。
『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。』
これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたは、このことにつまづくのか。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
【ヨハネによる福音書 6章41~71節の要約】
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某経済学者が世の高齢化問題に関して「唯一の解決策ははっきりしていて、それは高齢者の集団自決である」と言った件に対し、哲学者(らしい)の内田樹氏が「それは解決にはならないと思う」とまともに嚙みついた。その内田氏の批判記事がネット記事になっていた。
筆者は、ずっこけた。あれをまともに受け取って、真面目に反論するとは!
上記に、イエスが「私の血を飲み肉を食べないと救われない」みたいなことを言った際、多くの者がカチンと来てイエストのもとを離れた、という聖書のエピソードを紹介した。ちょうどこれと同じである。
もちろんイエスは、『本当に』自分の血を飲ませ肉を食べさせたいわけではない。文字通りのことを言いたいわけではない。それくらいは皆さんも分かるでしょ?
自分の血を飲み、肉を食べろと言うことは、つまりはイエスの伝えるメッセージを素直に聞き、自らの意志で受け入れ生かしていくことを意味する。そうすることで、イエスの教えがその人の中で結実し、その人の血となり肉となり、イエスと等しい者(血肉を分けた分身。兄弟)になる、というイメージだろう。つまり物理的に肉を食べ血を飲むことを指したのではなく、精神的な意味合いでの受け入れのことを言ったのだ。でも、当時の頭の固いユダヤ人たちの多くは、文字通りの悪いふうに受け取ってイエスを誤解し、去って行った。
で、イエスもまた変わった人であった。普通相手が「ああ、誤解してるな」と思ったら、ちょっと待ってくれ。これは物の例えで言ったまでで、本当にそんなことをしろと言っているわけじゃないぞ? つまりだな、飲んで食べるということは自分の内側に受け入れる、ということを暗に指していてだな……なんて弁解する。
自分の言ったギャグが理解されない時、自分で解説することほど悲しいことはない。それと似たケースだが、ここは恥ずかしくても弁解しないと自分が損をするケースだ。でもイエスは常人とは違った。
●余計、強調した!(びっくり)
イエスは、ザワザワとしている群衆の声を拾い聞き取った。
「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と。でもイエスは、なぜか意図の解説や弁解をせず、それどころかさらにこう言った。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る』。
●ここであえて否定せず余計に強調することで、頭のいい人なら違和感を感じて「あ、これはこの人言葉通りのことを言いたいんとちゃうな」と察する。
もしここまで言っても文字通りの意味と思い続けられる人なら、イラネ(人として価値がないというのではなく、別に自分の人生に関わらなくてもいいと思っただけ)と思ったのだ。
イエスの弟子になるということは、大変なのだ。聖書を読んでいるだけだと、元漁師とか取税人とか、誰でもなれるような感じに受け取ってしまうが、それは結果的にメンツを見たら、ユダ以外はたまたま下級庶民の出であったという偶然によるもので、イエスにはイエスなりの「鑑定眼」があってのことだったのだ。
一般に入学試験とか入社試験というものは、「その者がこちらでの活躍が見込める者かどうか」を判定するためにある。イエスの言葉はそれと同じだった。それで表面的な言葉につまずく程度なら、自分と共に険しい道を行くことはできぬと考えたのだろう。大勢がイエスのもとを離れてもそれは想定の範囲で、別に悲しくも悔しくもなかった。そんな烏合の衆、どうなろうとよかった。
ただ、12弟子とされる者たちだけが残った。イエスには、彼らだけがいればよかったのである。あとはいくら数がいてもそれはゼロ、または時にマイナスにすらなる。
「高齢者は集団自決しろ」というのは、以前の記事でも書いたけれど「ちょっと、この問題高みの見物してないで、ちょっと本腰入れて考えようよ!」というメッセージなのである。一種のゆさぶりである。
本当に高齢者に自決を迫るというより、そういう風に言うことで人はカチンと来てでも、この問題に意識が向く。自分が嫌われても、人々の関心が高齢化問題に向けばもうけものなのである。それで、この言葉の目的は達せられることとなる。
GACKTが主演し好評を博した「翔んで埼玉」という日本映画の中で、埼玉県民にはそのへんの草でも食わせとけ! というセリフがある。頭の悪い人は、埼玉県民が本当に草を口にするシーンを頭に思い浮かべてしまうのだろうが、これを言っている者は埼玉県民に本当に草を食べさせたいわけではない。
●お前らは下の立場なんだ。劣るやつらなんだということを言いたいだけ。それ以上の意図はそこにはない。
目の前で誤解されているのに修正せず、さらに煽るようなことを言うイエスもイエスだが、そこまでイエスに茶化されふざけられてさえ、例えが例えと分からない群衆もたいがいである。
筆者は、一応は哲学者と言われるほどの人が、集団自決の話をまともにとりあげて、ナチスドイツのユダヤ人対応にまで話を広げて大真面目に語っていたことが大変残念である。
知識人には、知識の豊富さやこの世で通用する頭の良さだけでなく、ジョークのセンスや心の余裕というかブレーキの遊び的な部分もちゃんとないとダメだと思う。