小学生の頃、クラスで数グループに分かれて「劇」を見せ合う行事があって、皆自分たちのグループこそは一番面白いと評価されようと、それぞれに練習に励んだ。
ここでは詳しく書かないが、メンバーの一人のある男子生徒が舞台装置や小道具周りの準備において、ある勘違いから大失敗し、ぜんぜん違うものを用意してしまった。しかも少なくないお金までかけて。
ヘマをしたそのメンバーはへこんで、反省した。反省したはいいが、その失敗を取り戻そうと焦ったのだと思うが、挽回しようと思う気持ちが出過ぎてしたことが裏目に出、事態が改善したどころか余計にひどい事態を招いた。
結局、もういちから別の劇をすることになり、かわいそうだがその子はほとぼりが冷めるまでクラスメイトから冷たい対応を受けた。
「リトル・マーメイド」というディズニーアニメの名作が実写化したものが公開された。この作品でなによりも話題となったのは、主人公の人魚であるアリエルの役を黒人女性が演じたことだった。
違和感を感じた人が多かったのか、賛否のうちの「否」の意見ほうが勢いを得た。その結果、制作した本国アメリカ以外での興行収入は低い。
何も、「黒人がダメ」という差別主義的な話じゃなくその逆で、ポリコレというか、人種差別がいけないということをヘンに意識しすぎだ、それはやりすぎだという感想を、少なくない人が持ったのである。
差別をなくそう、これは白人でないとダメとかいう偏見を壊そうとするのはよいことだ。でも、なぜ既存のものまで「ひっくり返す」ことをしないといけないのか。
そもそも、人魚姫の物語はアンデルセンが書いたもので、彼は自分の住む世界の中でこの物語を考えたのであり(黒人が身近にいるような状況にはなかった)、当然ながら人魚姫の人間の部分は白人として考えられていた。それは別に差別でもなんでもない。それはそれでよくて、なぜそこに黒人女性をぶっこまないといけないのか。
製作側の言い訳として、「皆さんが言うように黒人女性を起用することで差別撤廃をアピールしたものじゃない。ハリー・ベイリー(アリエルを演じた当の女性)が、役にピッタリだったのだ。その、ピッタリな女性がたまたま黒人だったというだけだ」としている。
男性の言い訳でありそうである。「美人だから君を好きになったんじゃんじゃなく、君という人間そのものに惚れ込んだのが、たまたま君が美人だったのだ」
私は、それを聞いてもなお、今回のことは大衆に「行きすぎ」と勘違いされても仕方がないと思う。むしろ、制作側はそんな配役をした以上、そう思われることは甘んじて受け入れなければならない。決して、人々を「間違っている」などと言ってはいけない。
先日も、名古屋城の再現プロジェクトに対して「エレベーターをつけろ」「つけないということは障がい者の排除と同じだ」と主張した車イスの障がい者の話題を記事にした。その人物に対してプロジェクト側の人間がした発言が、一理あるのに言い方がものすごく口汚いせいで一方的な悪者に祭り上げられた。
私は、申し訳ないが障がい者の方が要求のピントがずれていると感じた。障がい者の権利を守るために戦うのはよいことだが、戦う場所と機会を完全に間違えている。
この、リトルマーメイドという映画作品の主人公を黒人にしたことは、制作側にどんな立派な言い分というか理由があろうとも、今回の件は悪手だと思う。
●戦うところをもっとうまく選べ。そこは戦うところじゃない。
黒人差別の撤廃を意図するなら、最初から黒人を主人公に想定した、別の物語を作ればいいのだ。なんで既存の作品に、おかしな上書きをしてケンカを売らなければならないのか。人魚姫は白人女性でいいだろう。それは差別とは違う。もしそれを「差別だ」と騒ぐなら、あなたはただ被害妄想が強すぎるだけだ。
念のため断っておくが、筆者は作品自体は見る価値のある素敵なもので、罪はないと思っている。問題なのは、黒人女性起用をめぐる点だけ。
どうも人間には、克服しきれない悲しい性質があるらしい。
それは、「ある特定の問題をなんとかしようと思う責任感が強すぎるあまり、適切でない場所でまで焦っていじろうとしてしまい、結果裏目に出る」こと。
だから私はリトルマーメイドの映画関連のニュースに触れて、久しぶりに小学校時代の痛いクラスメイトを思い出したのだ。失敗を挽回しようと焦るあまり、ズレた努力のせいで結局すべて台無しにしてしまった彼のことを。
彼は元気だろうか。いまどこで何をしているのだろうか—