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エホバの証人(JW)について考えるブログ

弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

元JWの非常に多くの人がそうであるように、私にとっても、エホバの証人と完全に決別するうえで最も決定的な影響を与えたのは、元統治体のレイモンド・フランズの書いた『良心の危機』を読んだことでした。

 

もっとも、私は、『良心の危機』を読むようになるまでだいぶ時間がかかり、「エホバの証人組織はおかしい」と確信するようになっても実際に読むまでは1年くらいの時間があったように記憶しています。

 

・もっと早く読めばもっと早くエホバの証人と決別できたかもしれないと思う反面、

・このように時間をかけ、段階を踏んで最終的に読んだからよかったのだと思うところもあり、

自分がこの本を読んだタイミングが良かったのか悪かったのか、良し悪し両面あると感じています。

 

いずれにしましても、いつもしているように自分がどのようにしてこの本を読むに至ったのか、そしてこの本を読んで何を感じ、どのような影響を受けたのか、事実を事実のとおりに思いだすままに書いてみたいと思います。

 

【なかなか読めなかったこの本】

 

●当時のインターネットについて

 

すでに書いたとおり、私は大学に入っておおむね半年もすると、エホバの証人組織にい続けることはできないと強く感じるようになりましたが、その理由は、周りの環境・それまで見てきたJWの実態・そして大学教育で学んだ動かぬ真実等の影響からであり、いわゆるエホバの証人のいうところの「背教者」的な情報には積極的にはアクセスしていませんでした。

 

とはいえ、大学においてインターネットの重要性を非常に強調されましたし、かつ、インターネットを使わないとやっていけない教育環境にも置かれたので、必然的に、まずはインターネット上のエホバの証人についての情報サイトにだんだんとアクセスするようになっていきました。

 

当時自分がアクセスしたサイトは、

・「エホバの証人の子供たち」の筆者の秋本さんが運営していたサイト

・STOPOVER

・昼寝する豚

・そして、アメリカの精神科医村本先生の運営していた、JWIC「エホバの証人情報センター」

などでした。

 

ほかにもいくつかサイトがあったと思いますが、今はもう思い出せないあるサイトに初めてアクセスしたときに、あまりにも統治体を侮辱する体裁の辛辣すぎる内容であったため、「いくらなんでもこれは酷い」と感じ、「どんなにエホバの証人がおかしいとしてもここまで侮辱的で下品な内容の情報は見る気がしない」と感じたのをよく覚えています。

 

「昼寝する豚」については、その後、さらに数か月から1年くらいがたってからよく読むようになり、ゆーじさんとも何度も会って二人だけで飲むこともありましたが、この離れ始めの最初のころは、やはり同じく内容や表現が辛辣・直接的すぎましたし、中身についても(たぶんゆーじさんが何かのことで勘違いした内容をそのまま書いていたので)事実と少し違う内容が何か所かに書かれていたので、同じように敬遠して、2,3度見たら後はアクセスしなくなっていました。

 

最初に足掛かりになったのは、秋本さんのサイトでした。彼は、エホバの証人として誠実に活動をしながら、内部で起きているおかしな事件について訴えだしたのをきっかけに真理から離れた自分自身の経験を書いていましたので、心情的に重なる部分が多く、感情的にとても入りやすかったです。どこででも、同じような酷いことが起きていて、それに対する組織の対応のひどさもまた、同じなのだなと共感を持てました。

 

その後にさらにステップになったのは、STOPOVERの中にあった「金沢文庫」、つまり、北海道の北広島会衆でおきた「大量背教事件」の本当の経緯を詳細に書いた忠実な記録でした。

https://www.stopover.org/lib/Kanazawa/index.html

北広島会衆事件については、私自身もそのような事件があったことを現役時代に聞いていて、「この背教事件のリーダーだった長老は悪霊に取りつかれていて、指一本でタンスを動かすことができた」というようなうわさを話半分で聞いたこともありましたので、この記録も非常に頭と心に入りやすかったですし、何より、「エホバの証人組織内で説明されている事実」との違いに驚愕して衝撃を受けたことをよく覚えています。

 

そして、この「金沢文庫」の傑出している点は、起きた出来事を時系列で忠実かつ詳細に再現していることや、登場人物はすべて実名を使われていることから、「迫真性や真実の響き」を感じ取ることができる、という点だと思いました。

私ですら、ここに登場する、当時の日本支部委員会の調整者織田正太郎の弟兄弟、日本人初の地域監督で奉仕部門のドンだった阿部孝司兄弟、この件を扱った後にストレスから白髪になったという噂のあった地域監督の藤原兄弟などはよく知っていて、直接会話をしたこともありましたし、べテル内部での物事の扱い方を考えたときに、「さもありなん、これは本当に起きたことなのだろう」と強く感じることができました。

 

自分がべテルで見た偽善、本音と建前の使い分け、都合の悪いことに対する徹底的な非情さなどがこの記録のすべてに表れていて、「自分が末端の会衆や、べテルで短い期間に見聞きし体験したことは、日本中のいろんなところで、しかももっと大規模な酷いレベルで起きているのだ」と体感することができ、ますますべテルの実態についての確信が深まり、極めて貴重な影響を自分に与えてくれました。

 

その直後にSTOPOVERの運営者の方たち何人かと数回にわたりお会いしたこともありましたが、いずれも素晴らしい方たちでしたし、確か「やめた元エホバの証人」にお会いしたのはその時が初めてでしたが、「柔和で知的なエホバの証人の兄弟」そのままの雰囲気の方たちであったので、非常に安心したこともよく覚えています。

 

何よりも最もインパクトを与えてくれて、自分の人生を救ってくれたのは、村本先生の「JWIC エホバの証人情報センター」でした。

http://www.jwic.info/

このサイトのすばらしさについては、私などが駄弁を重ねて説明する必要は全くないと思います。

いったい、このサイトのおかげでどれだけの人が人生を救われたのだろうかと想像いたします。

 

もし1つこのサイトについての感想を述べるとしたら、「この一般社会の、高い教育を受け専門分野を持つ専門家が、中立的かつ客観的視点から、専門的な事実やデータに基づいて、淡々と本当の真実を公開する」というスタンスに最も感銘を受け、そこに最も説得力を見出した、という点です。

この当時、村本先生は、読者からの感想を公開するとともに、それに対してコメントや回答を添えておられましたが、その言葉一つ一つが、簡潔ながらも知的で要点をついており、何より「冷静で理性的」であるというところから、特別の影響を受けたことをよく覚えています。

エホバの証人の吹聴する「悪辣で感情的な背教者の姿」はそこにはなく、文面からにじみ出る人間性から、「どちらが本当の背教者・偽善者で、どちらが本当に真実を公開しようという誠実さを持っているのか」が、おのずと読者に伝わる素晴らしいサイトであったと思います。

 

●『良心の危機』に導かれる

 

さて、本論ですが、このようにいろんなサイトを通じて、いろんな元JW関係者との接点が増えるにつれ、『良心の危機』を読んでみるように促される機会がどんどん増えていきました。

 

また、私のこの本に対するハードルを下げてくれたのも、やはり「JWIC エホバの証人情報センター」でした。

というのは、まだ『良心の危機』の日本語版が出版されていなかったころ、村本先生がいち早く、この本の内容の要約を、「レイモンド・フランズの伝記」という体で同サイトの中で日本語翻訳文を掲載してくれていたからでした。

http://www.jwic.info/franzbio.htm

 

この「伝記」にアクセスすることは、実際に『良心の危機』を読む上でのハードルを一気に下げてくれました。

 

前回書いた通り、私は、エホバの証人組織も教理もおかしいと急速に気づきながら、

①地元の集会に行き続けていたこと、

②母親からのとてつもない圧力があったこと、

という理由からエホバの証人活動を完全にやめきれない日々が1年程度続きました。

 

そのような中で、エホバの証人組織との関係を完全に断ち切るのに助けになってくれたのは、またしても「世の友人たち」でした。

 

【その後の彼らとの関係】

 

大学入学直後に素晴らしい友人たちとの出会いがあったことはすでに書きましたが、

その後、彼らとの関係はさらに深まってゆき、大げさではなく「家族」と評価してもよいほどに深い信頼関係ができていきました。

 

もっとも仲の良かった、同じクラスの一人の友人はかなり遠方の地方出身であったため都内のマンションに一人で生活していました。

 

この友人は非常におおらかでしたし、人のことが大好きだったので、自分がさみしいということもあり、毎日のように彼の家に友人たちが入り浸り、泊まり、挙句のはてにはみんなで掃除・洗濯・料理の家事分担もするようになりました。

 

彼は、合いかぎをいくつも作って友人みんなに渡し、彼の家には必ず誰かひとり、多い時には2,3人が毎日泊まる状況になっていました。

そして、そのようにして彼の家に一番入り浸っていたのは、ほかならぬ私でした。

 

その彼は、日本でも有数の進学校出身者でしたので、私たちの大学以外の東京の他大学に進学してきた友人たちのほうが交友関係が多く、私も彼と付き合ううちに必然的に他大学の友人がとても多くなってゆき、彼らとは本当に素晴らしい時間を過ごしました。

 

やがて彼は、同じ高校出身で他大学に行っている友人の家に同じように入り浸り、自分の家にはほとんど帰ってこなくなったため、彼はその友人の家に住み、私は彼の家に住み、10人くらいの気の合う仲間たちが、それぞれの家のどこかで交互に生活するというなんとも学生らしい生活をするようになってゆきました。

 

・大学のキャンパスにいるときは、授業も出ないで陽の当たるベンチに座って二人でただぼーっとしたり、

・みんなで買い物に行って夜は鍋をして、酒を飲みながらバカな話に興じたり、或いは将来のことを真剣に話したり、

・誰かが何かのことで悩んでいれば、肩ひじはらずにしかし真の気遣いに基づいて励まし、

そうした素晴らしい時間を一緒に過ごしました。

 

大学生だったので、そうした素晴らしい時間は非常にゆっくりと、そしてふんだんに流れていく日々でした。

そして、そうした幸せな日々が来る日も来る日も流れ続け、「今日は幸せだった、明日もきっと同じように幸せなんだろう」と確信する日々でした。

 

この頃は、生きてる瞬間、瞬間に「なんて幸せな日々なんだろう」と心から実感しましたし、今振り返ってもそう思います。

 

【誕生日の思い出】

 

あるとき、大学に入って初めての、私の誕生日の日が来ました。

 

もちろんそれまで誕生日を祝ってもらったことなどなかったですし、

その時すでに始めていた法律の勉強があまりに忙しくてすっかりそのことを忘れていましたが、

突然、その一番仲のよかった友人から、

「お前、今日の夜、7時に、〇〇駅の改札に必ず来いよ」

と電話がありました。

そこは、みんなが入り浸っていた、もう一つの他大学の友人の家の最寄り駅でした。

 

私はその日は結構いそがしかったですし、「なんなんだ一体」と思いながらも、有無を言わさずに来いという話でしたのでいぶかしく思いながらその駅に行きました。

 

電車を降りて、改札に向かう途中、何人もの人がへたくそな歌を合唱しているのが外から聞こえ、

その時はその歌のことをあまり気にかけませんでしたが、改札まで行ってみて本当に唖然としました。

 

その時に仲の良かった、いろんな大学の友人たちが10人くらい集まり、ズラリと並んで、

男の子は全員、これでもかというくらいの派手な女装をし、

女の子は全員、仮面舞踏会のような仮面をつけてドレスを着て、

全員で大きな声で、「ハッピーバースデー、IM~♪」と、私のために誕生日の歌を歌っていました。

 

駅員さんは爆笑しながらも困ったような顔で、苦笑しながらその友人に、

「なー、もうあんたたち、帰ってくれないかなー」と話しかけていて、

その友人は駅員さんに、「いや、もう少しで来るんです。もう少しだけ待ってください」と一生懸命にお願いしていて、

まさにそのやり取りをしているところに、私が到着しました。

 

もう驚くなんてレベルではないほど驚きましたし、

嬉しいなんて言うレベルではないほど嬉しかったです。

 

そのまま、その「もう一つのたまり場」になっていたもう一人の他大学の友人のアパートに行き、

朝まで誕生会を開いてくれて、私を飲ませるための「飲みコール」まで作曲してくれていました。

次から次へとプレゼントをくれて、そのプレゼントも気づかいにあふれるものばかりでした。

 

そのアパートの前には神田川が流れていましたが、

だいぶ酔いが回った時に、私は一人で外に出て大泣きしましたし、

そうすると、様子を見に来た東大生の友人が一人、抱きしめたり、肩を強く抱いたりしながらその場にずっと一緒にいてくれました。

 

この夜のことは忘れた日はありませんし、死ぬまで忘れないと思います。

 

【その時に思ったこと】

 

こうした素晴らしい日々、こうした素晴らしい友人たちは、

私がエホバの証人組織から奪われていたものを、すべて取り返してくれました。

 

こうした日々は、あたかも、

完全に乾ききり、砂漠のようになっていた心に潤沢な水と養分を与え続けてくれたように感じましたし、

ボロボロになり、ガタガタになって満身創痍の体に薬を塗り続けてくれたように感じましたし、

巨大な冷たい氷に閉じ込められていた自分に優しい陽の光を当ててゆっくりとかしてくれたように感じました。

 

そして何よりも私は、

・このような突出して優秀で、他の人への惜しみない無償の気遣いを示してくれて、真剣に真摯に人生を生きようとしている素晴らしい人たちがハルマゲドンで滅ぼされるというのならば、この人たちと一緒にハルマゲドンで死のう、と本気で決意を固めました。

 

・また、「誠実である」と公言しながら偽善にみち、「他の人を愛している」と公言しながら人を騙し、他の人の人生を奪い、自分の都合の良いように人をコントロールするエホバの証人たち、「利他的で自己犠牲に富む」と自らいいながら実際には利己的な人であふれるエホバの証人の人たちだけが、エホバ神に選ばれて滅びを生き残り、地上の楽園で永遠に生きるというのであれば、私はそのような楽園にはいきたくない、そのような神には従いたくない、そのような人たちしかいない世界で永遠に生きるなんて、むしろそのほうが地獄だと思い、そんな世界で生きるならば、むしろこの人たちと一緒に笑いながら死のう、と本気で決意を固めました。

これまで私は、自分の人生を赤裸々に書くことこそが本当の真実を伝えるのに必要と考え、すべての記事を「全員公開」にしてきました。

また、これまでアメンバー申請をいただく場合には、無条件で一律承認してまいりました。

 

今般、思うことがあり、ごく一部の記事を「アメンバー記事設定」に変更しました。

これに伴い、大変失礼とは思いながらも、これまでのアメンバーだった皆様を、一律解除させていただきました。

 

このように決めたのは、私がブログで言及する方たちへの感情にも配慮すべきであると考えるようになったことが最大の理由です。

また、なるべく「アメンバー限定記事」は書かないようにし、ごく一部の限られた記事だけにしたいとも思ってはおります。

 

①誠に申し訳ありませんが、もし「アメンバー限定記事」をお読みになりたい場合、改めてアメンバー申請をしていただけないでしょうか。

②また、すべての申請いただいた方を無条件で一律承認することもしないことにしました。

お手間をかけて大変恐縮なのですが、アメンバー申請をいただく場合、

1.ご自身のJWとのこれまでのかかわりと、今のお立場・JWへのスタンス、考え方

2.大体で構いませんので、ご年齢・性別・お住いの大まかな地域(お伝えできると考える範囲で構いません)

3.このブログへの感想や考え(批判的なものであっても全くかまいません。批判的なほうが逆に当方には有益な場合も多いです。)

4.その他、個人的な内容をお読みいただいても大丈夫そうな事情

等をまずはメッセージでお書きいただいたうえで、アメンバー申請をいただけないでしょうか。

 

お手間をおかけして申し訳ないと感じておりますし、

このことにより、アメンバー申請を全く誰からもいただけないことになったり、

それにより、書いた内容の一部をどなたにもお読みいただけないこととなったとしても、

それはそれで仕方がないと考えております。

 

以上、どうぞ宜しくお願いします。

 

この当時に、すぐにエホバの証人をやめられなかった理由がもう一つありました。

 

それは、私が戻った地元の会衆が奇跡的に「とても良い会衆」だったからでした。

 

あれだけ頑張っていた自分が何の特権もない状態で自分の育った会衆に帰り、

しかも、組織から禁止されている大学に進学し、明らかに霊的に一気に弱り始めていたわけで、

陰口をたたく人や面と向かって「助言」をする人もきっといるのだろうと思っていたのですが、

 

驚いたことに、私に対して消極的なことを言う人は一人もおらず、

長老も含めて、全員が全員、温かく、そして静かに見守る感じで接してくれました。

 

これはおそらく、自分が今までどれだけ霊的なことに打ち込んできたのかみんな知っていたので、一定の敬意を示してくれたことと、

大学に行って法律を勉強し始めたということで、「きっと何か深い考えがあるのだろう」と善意に解釈してくれていたのだと思います。

 

【戻った地元会衆での生活】

 

●集会で

 

私は、地元の会衆に戻ってから、まず、野外奉仕に出る時間は極端に減りましたが、注解だけは毎回、しかも何回かしていました。

数年にわたり異常といえるほどの量の個人研究をしてJW教理・聖書知識が徹底的に頭に入っていましたし、

べテルや訪問講演先で、いろんな経験・「例え」・エホバの証人的に言う「教える技術」が頭に入っていましたので、

 

「ここでは協会はこういう理解を求めているから、こういう注解をすれば、真の意味がわかるな」とか、

「ここでこういう内容を言えばみんな感動するだろうな」とか、

「この知識は誰も知らないだろうな」

というようなことがすぐにわかったので、要所要所で「感動的な注解」を毎回していたので、

会衆の兄弟たちは本当に感動して、たかだ注解なのに、いろんな人に「お礼」を言われる毎日でした。

 

神権宣教学校での割り当ても同様で、なにせ何年にもわたって学校の監督をしていましたし、公開講演は月に3回以上はしていましたし、何より洞察の本や霊感の本、そして過去の出版物の知識がほとんど頭に入っていたので、当時の「第4の話」は、原稿をもたずに聖書を一冊持っていれば、すぐに話ができました。

 

例えを駆使し、聖書の文脈や相互関係についての説明を駆使し、そしてエホバの証人組織で習った「こういえば兄弟たちは感動し、喜ぶ」という知識や感覚を駆使して、原稿なしで聖書だけをもって割り当てをしていたので、これもまた極めて評判がよく、「早くIM兄弟の公開講演を聞きたい」とみんなに言ってもらっていました。

 

エホバの証人教理がおかしいと気づき始めていたとはいえ、個々の兄弟たちは日本語会衆ではやや疲弊していて、そうした「真に教える技術」に飢えていましたので、そうした技術を提供してみんなが喜んでくれるのは、それはそれでやはりうれしいことではありました。

 

ただそれと同時に、「何かがおかしい」と気づいてから刻々と確実が時が流れてゆき、それに伴いエホバの証人教理の偽善への確信が深まるにつれ、「このようなうわべの嘘の教理を教えて兄弟姉妹たちの人生を狂わせるのは偽善的なことだ」と、ひしひしと感じるようにもなっていきました。

地元の会衆に戻ってから1年くらいは自分でもどうすべきか方向性が定まらず、

最初の半年くらいは、数回割り当てをしましたし、注解も結構な数していたと思います。

 

●集会以外で

 

同じようなことが、集会後の交わりの時などにも起きていました。

 

外国語会衆でのいろんな経験が多く、一時的とはいえべテルにいてその内部情報に詳しかったわたしの世間話はとても面白いようで、何の特権もない私でしたが、集会が終わると、周りに兄弟姉妹たちが輪を作ってくれて、いろんな話をして、喜んでくれていました。

 

特に、自分が狂信的にエホバの証人活動をしていた時は、(エホバの証人的表現を使えば)真に弱っている人への真の気遣いというところまでは全く手が回っていなかったと思いました。

会社での関係、家族との関係、健康状態について本当に困っている人たち、つまり霊的なことと関係なく大変な悩みを抱えている兄弟姉妹たちは、精神的な真の気遣いを必要としていましたが、霊的なことと関係のないことに関しては、こうした人たちは、おおむね、どこでもないがしろにされ、「霊的には頑張っていない」ので軽視されていました。

 

この当時、私は、長老でも奉仕の僕でも開拓者でも何でもありませんでしたが、軽い世間話のようにそうした人の話を聞いてあげて、

「そういえばこんな聖句があった」

「そういえば過去の出版物にこんな話があった」

というような感じで、全く肩ひじ張らずに、敬語さえ使わず、エホバの証人どうこうというよりも、「人として」普通に思う励ましの言葉を、一応、聖書や出版物を使って投げかけて励まし、そして、次にあった時、さらにその次にあった時、やはり肩ひじ張らずに、しかし継続して「どうなっているか」を気にかけて聞いてあげるようなことをしていました。

 

何人かの兄弟姉妹には、「助言や牧羊と称して第二会場に呼び出されて苦痛な時間を過ごすよりよっぽど気が楽になる」と言ってもらえることが多く、「会衆にもう一人本当の長老がいるみたいだ」などと言ってもらうこともありました。

 

今にして思うと、こうした励ましをすることで、兄弟姉妹たちが引き続きエホバの証人活動を頑張るように励ましていたとしたらとんでもないことと思いますが、ただ当時の私としては、まだマインドコントロールが完全に解けていない、解け始めている混乱期でしたので、こうしたことをしてしまっていました。

 

また、当時の会衆では長老たちにも恵まれましたし、逆に言うと、そのことがエホバの証人を離れる踏ん切りを遅らせることにもなりました。

 

この会衆の主催監督はかなり長い間特別開拓者をしていた兄弟で、しかも私が子供のころに私がいた会衆で奉仕の僕になった兄弟でした。

この兄弟にしてみれば、自分の子供のようなIMがまさか真理から離れるということはないだろうという確信があったのだと思いますし、

私が歯に衣着せずに組織内の間違ったことを指摘しても、「まあまあ」みたいな感じで包容力をもって接してくれました。

 

もう一人いた若い長老は、身体的理由で開拓奉仕をできていなかったのですが、そんな兄弟は、

徹底的な開拓奉仕を必要の大きな場所でやってきた私に強い敬意を示してくれていて、そのことを人に話してはばからない人でした。

彼が近隣の会衆の訪問講演に行くときに誘われてついていくこともあり、

私がそのときに昔の経験を話して、みんなが驚いたり感銘を受けたりしているのを、横で嬉しそうに聞いている人でした。

 

そんなような生活が、半年から1年弱くらい続きました。

 

●巡回監督と

 

この頃、ある巡回監督との間で、とても珍しい経験をすることがありました。

 

私は、地元の会衆に戻った当初は、野外奉仕もボチボチでていたのですが、

戻ってから最初の巡回訪問があった時、長老たちが気を利かせて勝手に巡回監督との奉仕を割り当ててきました。

 

その巡回監督との奉仕で、1件目を訪問し終わった後に世間話になり、その巡回監督が、

「いや、世の組織は本当にひどいですよねー」

というような話をしてきました。

 

私はこの頃、もう白々しい話をするのは嫌だったので、

「海老名べテルのほうがよほどひどいところもありますけどね」

と言い切ってしまいました。

 

そうすると、この巡回監督はすぐに立ち止まって、

「兄弟、それどういう意味ですか?」と顔つきを変えて真剣に聞いてきました。

 

私は、「しまった、何か助言されるか、それかもっと厄介なことになるかな」と思いましたが、

もう白々しいことは言わないと決めていたので、べテルのおかしいと思うところについて、簡潔ながらはっきりとその兄弟に言い切ってやりました。

 

ところが、びっくりしたことにその巡回監督は、

「いやIM兄弟、私もね、同じように感じることがあるんですよ

と言い出して、なんと、一緒に奉仕する予定だった30分くらいの間、まったく野外奉仕はせずに、ずっと真剣な立ち話をすることになりました。

 

しかも、立ち話と言っても、その内容は、その巡回監督の「愚痴」「悩み」「不安」をずっと聞いてあげる、というものでした。

 

その巡回監督の話というのは、

・「自分が、組織の運用で少しおかしいと思うところがあったので、協会に提案の手紙を送った」

・「そうしたところ、すぐに奉仕部門から返事が来て、『新しい任命』として、特別開拓奉仕に移るように指示が来た」

・「協会の考えていることはわかる。IM兄弟も想像がつくだろうが、すぐには特権をすべてはく奪するつもりではないだろうが、まずは特別開拓者におろして、その後1年もすれば正規開拓者に下ろされるのは目に見えている。」

・「自分はこれまで誠実に巡回奉仕をしてきたし、今回の件も、考え抜いて、兄弟たちのために良かれと思って提案を送っただけなのに、すぐさま巡回監督削除の対応が来た。これからどうすればよいのかわからないし、べテルの奉仕部門に本当に裏切られたと思っている。」

そういった話でした。

 

「なるほど、巡回監督も本当に大変だし、べテルの内部情報を知っている人の中には、自分と同じ感覚を持つ人が多くいるのだな」と思いましたし、「特権をどんどん与えられて舞い上がっている人はそれに気づけない。特権を失う段になってそれに気づく人は多く、気づいた時にはエホバの証人的にはもう終わりなのだな」と強く思いました。

 

結局、その巡回監督は、その週の訪問で、もう2度とその会衆には来ないことになっていましたので、

日曜日の集会が終わったあとの「宿舎」でのお別れ会的な交わりが、その人にあった2回目の機会、そしその人にあった最後の機会になったのですが、おそらくその会衆内で、本当に思っている心の内を話したのは私だけだったようで、私のところにだけ最後に来て、「IM兄弟、とにかくお互いに、今後の人生を頑張りましょう」と声を掛けられ、なんだか胸が詰まりました。

 

【時間がかかった理由】

 

このように、私は、大学に入って一気にエホバの証人の偽善に気づき始めた一方で、

実際に完全にやめるには、1年強の期間がかかったと記憶しています。

 

その理由の1つは、この会衆の集会に行くのをなかなかやめることができなかったからだと思います。

 

マインドコントロール研究の権威で、立正大学教授の西田先生は、その研究の中で、

「マインドコントロールを解くには、①環境または習慣、②外部からの教育、③自分自身がそれを求める感情、の3つの要素のうち、少なくとも2つを取り除かなければ難しく、1つの要素だけを抜いたのでは、ほかの2つの要素によりマインドコントロールが引き続き維持される」と書かれていたように思います。

 

私についてもまさにこれが当てはまり、

③エホバの証人組織及びその教えの偽善にどんどん気づいていき、もはや、これを信じ続けることはできない、

と感じてはいましたが、

①集会に行き続けるという「習慣」を維持し、エホバの証人組織という「環境」の中に身を置いていましたし、

②そこでは、ほとんど信じていないとはいえ、エホバの証人の「教育」を受け続けていましたので、

 

この、「集会に行くという環境」、「熱心な信者である母親と一緒にいるという環境」を変えない限りは、

完全にエホバの証人教理から決別するのは困難な状況であったのだと思います。

 

この点でも助けになり、私の人生を救ってくれたのは、「世の友人たち」でした。

外国語奉仕についての話に内容がそれていたので、
自分がJWをやめた経緯についての内容に話を戻したいと思います。

すでに書いた通り、
・私は既に必要の大きな場所や、日本語会衆に戻ってからもべテル中枢の偽善を知り、
・大学教育を通して、教理の偽善についてもほぼ気づきつつありましたが、

それでもなお、大学に入ってからエホバの証人の活動をすべてやめるまで1年以上の時間が必要でした。

その一つの要因は母親でしたし、
母親との関係もあり「集会に行くことをなかなかやめられなかったこと」が、一番の原因であったと思います。

 

【当時の状況ー親との関係】

 

大学に入り、すべての特権もなくなっていた私は、

それでも地元の会衆の集会にはしばらくの間通っていました。

 

最初のうちはもちろん、大学に通いながらでもエホバの証人の活動は当然に続けるつもりでしたが、

大学教育を受け始めるとともに急速に、本当に一気に、教理面でのエホバの証人の嘘を次から次へと知ることになりました。

 

今は安定していますが、この当時の母親との関係は、過去最悪の時期であったと思います。

 

精神的にかなり疲れ切っていたことと、あまりに驚くような真実を次から次へと知ってしまったため、

もともと自分との接触が非常に多かった母親には、それらのことをたびたび口にしてしまっていました。

 

・べテルの中で見た偽善について平気で話をしたり、ほかの会衆の長老などでおかしな行動をとる人には辛辣な批判をしていました

・また、教理面についても、自分が知ったおかしなところについては、系統的・全体的ではないにしても、それらを知るたびに、部分部分、母親にダイレクトに話をしてしまっていました。

 

当時は「自然消滅」という言葉や概念もまだ広まっていませんでしたし、

この点で誰からも助言を受けることもできなかったので、

母にとっても私にとっても異常ともいえる大変につらい時期であったと思います。

 

すでに宣べ伝えることはほとんどしなくなっていましたし、

・たまに集会を休む、

・集会に毎回のように遅れる、

・巡回訪問中に巡回監督の前で居眠りをする、

・酒を飲んで記念式に行く、

というようなかつての私であれば信じられないような行動をとるようになったほか、

上に書いたように「組織への疑念」「教理への疑念」を平気で口にするようになったため、

 

こうした私の姿を見た母親はまさに「病的」としか表現がしようがないほどに取り乱すようになり、

さらに、私に対してはまるで真理から離れようとしている小・中学生の子供に対するように、

「とにかく集会に行くように」

・「とにかく奉仕に行くように」と、

ほとんど発狂したような態度で繰り返し強く要求してきました。

 

ましてや、ただ単に小さな子供が真理から離れようとしているのではなく、「自分よりもはるかに知識も経験もあるであろう息子が、真理から離れそうになっている」という事実に直面して、母の恐怖や混乱も相当のものであったのだと思います。

 

また、すでに当時、私のべつのきょうだいは真理から離れていましたので、一番頑張っていた私までが真理から離れるのは想像もしたくなかったのでしょうし、夫婦関係は良好とはいえ、一般社会の重責を担う父親はほとんど家に帰れない状況で、家族生活という意味でも、私が真理から離れれば真に理解しあえる家族が誰もいなくなるという恐怖感もあったのだとは思います。

 

他方で私としては、エホバの証人の偽善について我慢できなくて母親に対して話すということもそうでしたが、

・このような偽善に基づいて自分を育てたこと、

・特に、幼いころに、「苛烈な児童虐待」としか表現できないようなムチを繰り返したことも許せず、

そのことについて、口汚く繰り返し母親を罵るようになりました。

 

何度か口論になり、完全に取り乱した私が、家の中のものを壊すということも何回かありました。

 

母に対しては、

・「あんたのせいで、私の人生は無茶苦茶だ、どうしてくれるつもりなんだ」

・「こんな状況で何とか自分の人生を取り戻そうとしているのに、それでも邪魔をするのか」

などとはっきり言ったこともありました。

 

母も感情的にこれ以上ないほど取り乱し、混乱していましたが、「真理が絶対である」と信じ込んでいる母親にはまともな回答はできませんでしたし、ただただ混乱し、怒り、取り乱すだけ、追いつめられるだけでしたので、今にしてみればもう少し方法があったような気もしますし、逆に、あれしか方法はなかったかもしれないとも思ったりもします。

 

特に私は、「会衆の若い人たちに同じ思いはさせまい」と考えていたので、自分の会衆の若者に、教育を受けることを強く勧めたり、もっと自由に生きるように相談にのったりしていたので、そのことが、母の不安感に拍車をかけていた部分もあったと思います。

 

母は、大げさではなく、何十人もの人をバプテスマまで導いていた人でしたし、その研究した姉妹たちの夫が研究して長老になり、小さな子供が成長して開拓者になったりしていたのですが、私は私でこの頃、

・「あなたはそうした人たちの本当の人生を考えたことがあるのか」

・「とんでもない教理を教え込んでしまい、人の人生を変え、もしその教えが間違いだったらどう責任を取るのか」

と詰め寄ったこともありました。

 

自分が必要の大きなところで奉仕していた時期は経済的に非常にきつく、

食べたいと思う食材もお金がなくて買えないこともありましたが、

たまたまそんな時期に、母親が自分の会衆の若い人を励まそうとホテルで食事をしたことがあり、

私はそんな過去のことの小さなことまでさかのぼって話して、母を繰り返し非難しましたし、

それに対して母は母で逆上して反論していました。

 

この頃の母との関係は平常につらく、ある意味どちらにとっても救われない日々でしたし、

この母からの強烈な圧力があったため、集会にいくことを1年程度やめることはできな状況が続きました。

 

外国語奉仕や言語訓練コースについて、脇道的にいろいろ書いてしまいましたが、

この件について最後に思うことを書いて、この件の話は終わりにしたいと思います。

 

とはいえ、何を書いたらよいのかわからず、またまとまりのない話になってしまうとは思います。

 

【当時の兄弟姉妹たちについて思うこと】

 

言語能力云々について、当時の外国語会衆の兄弟姉妹たちのことを何か強く批判的に書く気にはなれないです。

「当時の外国語会衆の言語能力の実情」については知られるべきと思うので正直な実情を書きましたが、

そこにいた人たち一人一人の個人が批判されるべきとは、今は思えないです。

 

・言語ができて一生懸命に奉仕していた人たちは、(宣べ伝えたり教えたりした内容が真理ではなかったとはいえ)、本当に誠実にやっていたわけで、人としては誠実・エホバの証人組織の一員としてはその組織の犠牲者ですので、そのようにとらえるしかないと思います。

 

・言語ができないながらも長いこと外国語会衆で奉仕していた人たちも、演壇で教えるという意味では貢献する場面が少なくとも、自分の生活においては大変な自己犠牲を払い、個々の会衆での言語面以外のほかの活動において兄弟愛を惜しみなく示そうとして、やはり人としての誠実さは褒められるべきものだったと思います。

 

・言語ができない・奉仕するために言語を学ぼうという努力もしない、というように見えた兄弟姉妹たちも、おそらくは元もと居た会衆でいろいろ辛い目に遭って、様々な経緯を経て外国語会衆に来た人も多かったことと今は思います。

そうした決断をした兄弟姉妹たちの気持ちもまた、今となってはよくわかります。

 

みんながみんな、それぞれの思いや事情があって外国語会衆でやっていて、みんながみんな、この組織の犠牲者かと思うと、なんだかとてもつらいです。

 

【今の兄弟姉妹について思うこと】

 

すでに書いたことと重なりますが、今現在、自費で海外に行く兄弟姉妹たちについて思うこともあります。

 

簡単にまとめてしまうと、

・そういう決断をすることはとてもよくわかりますし、

・とはいえそうした決断がどんな結果をもたらすのかを考えたほうが良いのではないかと強く思います。

 

私は、今は仕事で、こうした兄弟姉妹たちが行くような国に行くことが多くあります。

カンボジア・ミャンマー・タイをはじめとした東南アジア圏や、中米南米に行くことがあります。

 

そして、特に東南アジアの国では、エホバの証人に限らず、日本人の若者で現地に行く人が最近非常に多く、

現地の日本人社会では「何かやりたい組」とか、「何かやりたい病組」と呼ばれたりしており、どうしてもこの手の人たちと兄弟姉妹たちが重なってしまいます。

 

何度も書いたことですが、東南アジアであれば、安ければ渡航費は往復でも5、6万円程度、

現地の生活費は、取り立てて贅沢しなければ、ホテルに滞在しても月に3万円程度で済みますし、

日本人がやっているホテルの手伝いをすれば、現地生活費はそれだけでタダで済む場合もあります。

 

そうした「経済格差」を利用して、「行けば何かやれるかもしれない」「何かビックな可能性があるかも」と期待しながら経済格差のある国にやってきて、ただ単に現地で遊んで暮らして、教育を受けるわけでもなく、職歴を身に着けるわけでもなく、大きな投資話をする大人の話を聞いて実現性のない妄想に近い夢を膨らませてただ時間を過ごし、

現地の詐欺師にいいように使われたり、貴重な人生を無駄にする若者がとても多くいると、よく言われます。

こうした人が「何かやりたい病組」と呼ばれているのをよく聞きます。

 

自費で海外奉仕に行く人も、それに似たところがあったりはしないのでしょうか。

 

この日本国内でアルバイトをしながら開拓奉仕をすることは、精神的にも、経済的にも、身体的にも、相当にキツイことだと思います。

ところが、うまく国を選んで海外にいけば、そこでは極めて気楽で楽しく、それでいて人に褒められる日々が待っています。

そうであれば、多くの若い人は、そうしたものに飛びつくのでしょうし、ましてや組織がそれを「推奨」しているのであればなおのことだろうと想像します。

 

・もっとも、彼らはその間の年金支払いとかはどうしているのでしょうか。

・何か病気やケガがあった場合、現地での治療費やその後の補償の手立てがあるのでしょうか。

・すでに実例があるように、犯罪に巻き込まれたり、殺害されたりする危険についてはどう思うのでしょうか。

・せめて言語をマスターして日本に帰れば何か良いこともあるかもしれませんが、言語をマスターする人は多いのでしょうか。

 

私が外国語会衆にいたときはそれなりに言語能力の要求はありましたが、それでもすでに述べたような体たらくのレベルでしたので、最近になって自費で海外に行く兄弟姉妹たちのこの先の人生はどうなるのか、いろいろ考えてしまうところです。

 

【組織について思うこと】

 

組織について思うこともまた繰り返しになってしまいますが、あえて書いておきたいと思います。

 

それは、「エホバの証人組織の教育レベルは素晴らしい」「この世での教育など必要ない」と繰り返し組織は喧伝しますし、

その殻の中にいた私は、そのことを信じ込んでいたということ、

しかし、ひとたび、一般社会で高等教育を受け、その高等教育機関で誠実に一生懸命やっているプロの専門家を見れば、

エホバの証人組織が自負するその姿は、すぐに化けの皮がはがれ、何が本物で何がニセモノか、すぐに気づくということです。

 

今回書いたことに限った話だけでも、日本のエホバの証人は、

・「国内でこんなにも外国語巡回区が発展している」

・「世での教育など受けなくても多くの人が自主的に外国語を学び、マスターし、奉仕を拡大している」

・「そのための言語訓練コースも用意されている」

などとすべての人、特に若い人に繰り返し教え続け、宣伝し続けていました。

 

しかし、少なくとも私が知っていた外国語会衆の実態は、すでに書いたような体たらくでした。

私はコース自体には参加していませんが、「言語訓練コース」の立ち上げの時の状況は、すでに書いたような体たらくでした。

また、実際に一般社会で行われる教育レベルは、すでに書いたようなものでした。

 

ほかの人がどう評価するか、私にはわかりませんが、

「エホバの証人組織の教育レベルは素晴らしい」

「この世での教育など必要ない」

というのは、完全なる嘘だと思います。

 

また、誰かが言った、そして統治体が今も言い続けている、

「大学教育は真理にとって危険だ」

「大学に行って真理に残る若者はほとんどいない」という言葉、

この言葉は本当だと思います。

 

それは、大学教育を受けることで真実を知り、真実を肌で感じ、

誰が正しいことを言っていて、誰が嘘を教えているか、

ごく短期間ですぐに理解できるようになるからだと、私は思います。

 

こうした嘘をいまもエホバの証人組織が堂々と言い続けていることは恐ろしいことですし、

上述したような状況を考えると、

閉塞した日本を出て、海外で奉仕するようにと、多くの若い人にエホバの証人組織が扇動し始め、し続けているのも、

本当に恐ろしいことだと思います。

【その後の感想】

 

さて、エホバの証人組織がその当時やろうとしていたTESOLを取り入れた外国語教育について、その当時の感想は、前回書いたよなものだったのですが、その後、いろんなことを知るにつれて、いろいろと別のことを感じるようになり、また、そこからエホバの証人組織についてもいろいろ考えるものがありました。

 

1.別の教訓者候補-Q兄弟の話

 

まず、自分がまだ現役だった頃、この教訓者用クラスが終わった直後のことですが、私たちの言語の巡回区の兄弟で、いずれはこの巡回区の巡回監督になるのだろうと思われていた候補の一人の兄弟と話をする機会がありました。

この兄弟は、当時の私をずいぶん気に入ってくれていて、巡回監督くらいしか知らないようなべテル内部の情報をいろいろと教えてくれる兄弟でしたし、べテルについて歯に衣着せずに「間違ってることは間違ってる」ときっぱり言い切るタイプの兄弟でした。

 

大会か何かでこの兄弟にあった時に、Q兄弟のほうから無理やり二人だけの場所に呼ばれて、

「IMも例の言語訓練コースの英語版を受けたんだろ?どうだった?」といきなり聞かれました。

 

まあまあ良かったかなと思っていた私はQ兄弟に正直にその感想を伝えたのですが、Q兄弟は吐き捨てるように、

 

・「べテルでやった私たちのクラスは全く話にならないんだよ、IM」と言ってきました。

 

・「IMは、すべての授業を直接英語で受けたんだろ?私たちのクラスを想像してみなよ。カナダの先生兄弟が英語で話すだろ?そしたらそれをまず日本語に訳す兄弟がいるんだよ。で、いろんな外国語会衆のネイティブの兄弟たちも参加していて、彼らは英語も日本語もわからないだろ?だからその訳された日本語からさらに各国語に訳すんだよ。わかるだろ?それだけで3分の1に情報量が落ちるわけだよ。」

 

・「しかも、その英語から日本語への通訳、日本語から各国語への通訳の両方の段階で、明らかに誤訳とか訳せない部分があるんだよ。聞いててひどいんだ。だから、最初の数日間のクラスは、そもそも何を勉強してるのかもわからない感じで、参加者の多くがポカーンていう感じだったんだよ。」

 

・「しかも、教訓者候補としてネイティブの兄弟たちも呼ばれただろ?彼らは日本に何年も住んでいても全く日本語を覚えられないから俺たちが彼らの言語を覚えて助けてるわけじゃないか。なんでそういうネイティブの、しかも日本にいながら日本語を覚える意思も能力もない人たちが、言語訓練コースの「教える側」になって、日本人に「教える」わけなのか考えないか?できるわけがないじゃないか

 

と結構な剣幕で話していました。

 

・「あんなのただのお遊び、協会の自己満足以外の何物でもないよ」とまで言っていました。

(ちなみにこの人もべテルでは結構偉い人だったんですよ。)

 

この話を聞いて私は、そのクラスを受けたわけではなく、実際見たわけではないので、責任持ったことは言えないのですが、

とにかく、「あーー。。。。さもありなん」と感じました。

 

直接に通訳なしの課程を受けた自分でさえ、通訳がない分だけ得られた情報量は多かったですが、それでも英語でネイティブがすごいスピードで専門用語を話すわけなので、課目によっては半分も理解できていないであろうものがいくつもありました。(許可を受けていたので、すべて録音してあとで何度も聞き返したりしていました。)

 

そうであるにもかかわらず、課程が終わったときにはしっかり「TESOLの修了証」が私にも渡されました。

さらに驚いたことに、「希望する人は、自費になるが、修士号や博士号をとれる課程に進むこともできる」と言われましたし、

それより仰天したのは「学位を取るには、「外国語教育の経験」が何時間あるかということが1つの条件になる。基本的に教育者でないと取れない学位だから。ただし、外国語会衆で外国人と「家庭聖書研究」をしている兄弟たちは、その時間を「外国語教育」の時間としてカウントできる」というような説明もありました。

 

さすがにそれをきいて、当時の私は「そんなことでいいのだろうか」と疑問に思いました。

当時の私は、ちょうど大学に行きたいという強い願いが出始めていた時でしたので、その点についての強い憧れがありましたが、

そのような方法で学位が取れるということは信じられなかったですし、その学位が役に立つのかも疑問でしたし、何より自分は、そういう方法であれば、大した英語力がない自分は「学位をとること」に値しないと強く思いましたので、それ以上は情報を聞かないことにしました。

また、そのように「とれる学位」の信用性についても疑問がありましたし、そのためには随分とお金と時間もかかるということで、これもまた、それ以上関心を持たなかった理由の一つでした。

 

2.大学に入ってから

 

同じような疑問は、大学に入り本物の語学教育を本物の大学で受け始めたときに、さらに強まりました。

 

まず、以前書いた通り、同じクラスの周りの「世の友人たち」がすさまじい勢いで非常に難しい教育を難なく吸収して行く姿を見て、「エホバの証人の言語訓練コース」で勉強することなどでは、到底こうした世の人たちの10分の1のレベルにすら到達しないだろうということを肌で感じる毎日でした。

 

そして何よりも貴重だったのは、入学当初からほぼ完ぺきにこの言語を話せた私は、教授たちから当然のように特別扱いされて、教授たちの飲み会のようなものに参加させてもらうこともあったのですが、そのような機会に教授や専任講師の先生たちと話していた時に、「実は自分もTESOLらしき資格を取ったことがあるんですよ」と話したところ、教授陣全員から、「えーーー!それ本当!?信じられない!!」とびっくりされたことがありました。

 

あまりの驚きようにこちらが驚き、「いや、TESOL資格といっても、これこれこういう課程でした」と伝えたところ、

「なるほどー、それならば理解できる」「でも、いい経験だったねー」と優しく話してくれて、そのあとこのTESOLについての話が続きました。

 

実は、その時の教授陣の中に、3人ほどTESOLのホンモノの課程を受けた人たちがいて、そのうち2人は修了し、もう1人はあまりに辛くて途中で挫折したというような話をしていました。彼女たちの説明は以下のようなものでした。

 

・TESOLというのは、自分たち専門的外国語教育者の間では、基本的には、正式な「大学院修士課程」というのが常識的感覚である。さらにその後、博士課程に進んで博士号を取る人もいる。

・これらの言語教育研究課程は、ほとんどがアメリカ、またはイギリスの正式な大学の正式な大学院課程で行われ、極めて厳しいレベルおよび大量の教育がなされるので、よほどの言語レベル・気力・体力がないとついていけない。

(一人の人が途中で挫折したのはそのためとのことでした。)

・TESOLは何かの正式な資格ではなく、教育方法の名前なので、大学院で学ばなくてもエッセンスだけを詰め込んだ短期間の集中コースが実施されることはあるし、それはそれで価値がある教育だし、そうしたコースを設けている企業・団体はある。

但し、一般常識から言って、もともと教育学をやっていたり英語や外国語の先生をやっている人が、さらなるスキルアップとしてその短縮コースを受けてこそ意味があるのだろうし、その修了コースの認定証をもらっても学位とみなされないのは当然のことだ。

 

こうしたことを教えてもらいました。

 

3.その後

 

それから、「結局、このカナダの先生兄弟は誰だったのだろう?」とあとで気になったことがありました。

自分がもらった(もうその時にはなくしていましたが)修了証はどんな意味があったのだろうとも思いましたし。

 

それで、その彼の教育機関に電話して、直接聞いてみたのですが、

彼の教育機関は、大学でもなく、短期大学でもなく、専門学校でもなく、語学教室であると直接説明を受けました。

 

それから、修士号や博士号をもらえる可能性についても訪ねたのですが、

ほかの通信大学の紹介を受けて、通信教育課程を使ってそうした学位をとることも不可能ではないという説明でした。

 

私は勝手に、彼が「外国語大学の学長」だと思い込んでいたのですが、そうではなかったようでした。

また、これも驚いたのですが、私が受けたのと同じようなTESOLの短縮バージョンの課程を、今は日本でビジネスとして提供しているようで、お金を払えば、もう1回でも2回でも、彼のこの教育を受けることができるということもわかりました。

 

だからといって、何か彼のことを批判するつもりもなければそうしたいわれもありません。

こうしたTESOLの短期バージョンは多くの英語の先生には有益だと思いますし、

ただ、当時、自分がわからないでいたことの謎が解けてよかったなと思っただけです。

そんなこんなで、言語訓練コースの教訓者用クラスの、しかも前段階の実験的クラスに参加することになりましたので、

そのクラスのことを書いてみたいと思います。

 

ずいぶん前の時期の話ですし、私はJWとしてのやる気が以前よりも低下し始めていた時期で、しかも、授業はすべて英語・周りはほとんどネイティブの中で「果たしてやっていけるのか」という不安感もあり、かなり暗い気持ちで参加しましたのであまり覚えていない部分も多いのですが、一応、覚えていることを覚えている順につれずれに書いてみたいと思います。

 

【出席者たち】

 

①まず、行ってみたら本当に、北米の外国語教育機関の学長らしき人で、しかもエホバの証人の兄弟という人がいて、その人が一人ですべての授業を行う仕組みでした。この「外国語教育機関」が正規の大学だったのか、短大だったのか、ただの専門学校だったのか、はたまた単なる語学教室だったのか、当時の私にはよくわかりませんでしたが、「希望して教育を受け続ければ修士号や博士号も取れる」という話をされたので、大学だったのかもしれないと私は認識していました(のちに正体が何となく判明しましたが)。

 

②海老名べテルからは、「海外支援部門」のA兄弟が参加していました。以前も書きましたが、このA兄弟は、当時はものみの塔の朗読テープや地域大会の劇の声優役をやっていたかなり有名な兄弟でしたので、べテルでは部門監督だったのかもしれません。今もJW.orgを聞いていると、このA兄弟が吹き替えの声をしているのを聞くので、今もべテルに引き続きおられるのだと思います。

(これも以前書きましたが、当時のエホバの証人組織の態度に非常に大きな疑念を抱き始めていた私に、最も親切で、核心に迫るような助言をしてくれたのはこのA兄弟でした。)

A兄弟は、最初から最後までカナダの先生兄弟にピッタリくっついていましたので、べテルとしても相当にこの「新しい取り決め」に関心があるのだなあと感じたのをよく覚えています。

 

また、支部委員の家族も何人か参加していましたので、この点は少し驚きました。

 

③それ以外に参加している兄弟姉妹といえば、私以外は全員が英語会衆の人たちだったと記憶しています。

私は自分の英語力に非常に不安を感じてビクビクしながら参加していたのですが、英語以外の言語を教える方法への応用も必要だったということもあり、カナダ人なので英語以外にフランス語が話せる人、アメリカ人だけど中国系なので中国語が話せる人と並んで、英語以外の言語のほうが得意だった私は重宝され、すこしそれで安心した覚えがあります。

 

【課程の内容】

 

そのときの教育課程の内容ですが、当時の私は非常に勉強になったと感じました。

 

このカナダの先生兄弟の説明で、英語圏では、「英語を外国人に教えるための効果的な教育方法」が確立されていて、その教育学問のことをTESOL(ティーソル)と呼ぶのだと教わりました。TESOLというのは、Teaching English to Speakers of Other Languageの略だそうでした。  

 

①まず、「外国語を教えるときの心構え」のようなものを最初に教わり、これは、教育心理学の基礎の基礎を教えていたのだと思います。

「生徒が間違えたり、わからないことがあったりしたときに、絶対に生徒の人格を否定してはいけない。『間違えたり、わからないから』教わりにきているのであって、間違いもせずわからないこともない人であればそもそも教えることはなく、自分たち教師の存在も必要としない。わからないのが当然だという前提で教え、励ますことが必要」といわれ、このことはその後の人生でも大きく役に立ちました。

 

②また、これもよく覚えてはいないのですが、言語を処理するときの、脳の機能についての基礎の基礎の教育もされた覚えがあります。

新しい言語を脳がどのように処理するかを簡単に学んで、「とにかく話せるようにする」にはどうしたらよいのかの基礎的説明でした。

 

少し面白かったのは、この時に、「メモの取り方」についても学んだことでした。

 

エホバの証人の集会や大会では必ずメモを取ることを指示されますが、どんな人でも、横書きのノートに、箇条書きに上から羅列して書くのが普通だと思います。ところがこのカナダの先生兄弟は、「小さなテーマについていくつか文章を書いたらそれを大きく楕円で囲み、また別のテーマを書いたらそれをまた大きく楕円で囲み、そして大事な大きなテーマについての別のメモ文章にそれを『吹き出し』のようつなげて、全体のメモが、大きな木の幹と枝、葉っぱのような形にする」方法でのメモの取り方を教えました。このほうが、より理論的に頭に入るという説明でした。

 

新しい物好きの日本のエホバの証人社会では、「アメリカではやっている」とか、「べテルの兄弟がみんなそうしている」と聞くと、情報通の兄弟姉妹がそれをどこからか聞いてきて真似をして自慢するということが良くありましたが、この、90年代後半から2000年代前半くらいに、集会や大会でこういう「木の幹・枝・葉っぱ」のような形で、吹き出しを使って絵を描くようなメモが流行ったことがなかったでしょうか?

私はこの語学訓練コースがその奇妙なメモの取り方の発祥だと思っていますし、物事を形だけ真似したがるエホバの証人社会の典型的な現象の一つだったのではないかなと理解しています。

 

③そのような、ある程度の基礎理論を学んだあとに、実際の「外国語を教えるときの効果的な教え方」について、とても具体的で実践的な方法を勉強しました。

 

このカナダの兄弟先生の説明によれば、TESOLでは、30個だったか40個だったか、とにかく効果的に外国語を教えるための具体的な教育方法があるので、それを1コマに1つづつ学んでいく、という説明でした。例えば、

ⅰ.体を使いながら単語を覚えることで、正しい発音習得と突発的でも外国語が出てくるという効果が期待できるので、生徒全員で輪になって、ボールを投げあいながら数字を覚えていくとか、

ⅱ.単語だけひたすら覚えても「しゃべれるようにはならない」ので、文章1つを丸暗記し、その「覚える文章」が書かれたホワイトボードの横に単語をたくさん書き並べておいて、その覚えた文章の「一部分の単語だけを入れかえて」いろんな文章をしゃべれるようにするとか、

ⅲ.同じく難しい単語をいくら数だけ覚えても「しゃべれるようにはならない」ので、極めて基本的な動作、例えば、「カップラーメンの作り方」、要するに、「やかんに水を入れ、ガスコンロのガスをひねって火を出してお湯を沸かし、カップラーメンのふたを全部ではなくて半分くらいはがしてお湯を注ぎ・・・・・」というような、極めて基本的な日常動作なんだけど外国語で言うとなると非常に難しい言葉をとても細かい部分まで駆使して説明ができるようにするとか、

ⅳ.正しい発音が耳と脳に残るように、スペルを書かないで「基本動作」、例えば「歯を磨く」とかを動作だけで示して、「歯を磨く」という言葉を連続して発音して伝えて、生徒にオウム返しで言わせて覚えさせるとか、

ⅴ.新しい単語を教えるときに、その単語の意味をいきなり日本語で教えてしまうのではなく、その単語の意味が分かるように英語だけでかみ砕いた文章で説明してその単語の意味を理解させて覚えさせるとか、

 

要するにそのような「確立された効果的な外国語教育方法」が30か40あるうち、時間が許す限り、そして、ごく初歩的な人に教えるのに使えるものばかりを選んで学び、みんなで実践してみるというものでした。

 

【その時の感想】

 

すでに書いた通り、私はもう霊的なことへのモチベーションが下がり始めていたときだったので、以前のようにハイテンションで大喜びでこの課程に参加する感じでは全くなかったですし、すべてが英語で行われるので、いつみんなの前で恥をかくのかと本当に緊張してビクビクする毎日だったのですが、それでもなお、終わってみれば、それなりに勉強になったし、参加したことに後悔はないなと感じました。

 

おそらく自分は実際のべテル主導の「言語訓練コース」の教訓者などをすることはないだろうという気持ちから、

何とも言えない複雑な感情を抱きながら課程を修了したのですが、

そこで学べた内容や、そこでの新たな出会いは楽しいものではありました。

 

そこで、T兄弟と住んでいた家に戻ってから、

・どのような内容だったか

・どのような雰囲気だったか

かなり事細かにT兄弟にも教えてあげました。

 

T兄弟はその内容を聞いてずいぶん安心していましたし、

彼が参加するべテルでの課程ではすべての説明につき日本語の通訳がつくということだったので、

そうであれば全く何も心配する必要はないと、とても喜んでいました。

 

その後、T兄弟は、実際にべテルでの課程に参加して帰ってきましたが、そこでの雰囲気は本当に楽しかったらしく大喜びで、大変に機嫌よく帰ってきましたし、その後しばらくの間、私たち二人の間ではこの「言語訓練コースの教訓者用課程」の内容をネタにした話で盛り上がることが何回かありました。

 

このように、

・私の中でのこの課程についての評価は上々、

・T兄弟に至ってはこの内容については大喜び、

という感じだったのですが、

ほかの教訓者の中には全くそのように思わない人もいたようでしたし、

大学進学した後、外国語の教育を受け始めた私もまた、この時に感じた内容とは大きく違う印象をその後持つようになりました。

 

言語訓練コースや外国語での奉仕については、当初、あまりたくさん書く予定ではなかったのですが、

・皆さんのコメントを拝見すると、皆さんの周りでも「海外での奉仕」についての例が山ほどあることを知りましたし、

・今のJW.orgの内容を見ると、「海外での奉仕がいかに素晴らしいか」についてずいぶん宣伝されていること、

・そして何よりも、「外国語奉仕」「外国での奉仕」を煽るエホバの証人組織の姿勢は、あいもかわらず非常に重大な問題を引き起こしている、

と感じていますので、

この点について自分が知っていること、自分が思うことを、少し長めに書いていきたいと思います。

 

【言語訓練コースの「教訓者」育成の話】

 

話の時期はすこしさかのぼりますが、まだ私がT兄弟とパートナー生活をしていたころ、

そのパートナー生活をしていた最後のほうの時期に、

T兄弟がなんだか心配そうな顔をいつもしていて、そわそわしていたことがありました。

 

彼は自分がもらった特権について、あまりべらべら話すタイプではなかったのですが、

「実は、なんかあまり聞かないような取り決めの『教訓者』をやらないかと打診されていて、そのことで自信がなくて心配なんだよね」

と話してくれたことがありました。

 

その取り決めというのが、先回書いた、新しくできる予定の「言語訓練コース」の話で、

その教訓者として推薦されていること、

T兄弟以外にも、

以前書いた、

・MTS卒の元巡回監督の任命も受けていたカリスマ兄弟のL兄弟、

・同じくMTS卒で、L兄弟とは別にもう一人、代理の巡回監督の資格を持っていたTM兄弟

(やはり素晴らしい人柄の叩き上げの兄弟で、この人は私たちの巡回区の2番目の巡回監督になりました)

・そしてべテル奉仕者で、比較的若いけれども長年この外国語会衆にいて、みんなから人気のあったQ兄弟、

こうした人たちが選ばれているという話でした。

 

そして、このメンバーは、私の目から見れば文句なしのそうそうたるメンバーでしたが、

私のパートナーのT兄弟は非常に立派な奉仕をしながらも、とても謙遜で、特に自分の言語能力についてはやや自信がないところがある人でしたので、

・自分のような人間が彼らと肩を並べて『教訓者』なんてやれるのか、そんな能力や資格があるのか心配だ

・何より、「開拓奉仕学校の教訓者」などとは違い、全く新しい試みの教訓者なので、「何をどうやったらいいのか、全く想像がつかない」ところが一番心配で、気に病んでいるという話でした。

いかにも謙虚で誠実なT兄弟らしい悩みでした。

 

この話を聞いて、私は「あれ?」{あれれれ?」と思いました。

 

実は、T兄弟から、その話を聞く少し前に、私も、英語会衆の兄弟で、元特開者でべテルで宣教者になる訓練も受けたことがあるという知人の兄弟から、

「IM兄弟、今度、べテルで新しく言語訓練コースというのをやるんだけど、その教訓者を育成する課程があるんだ」

「北米のエホバの証人の兄弟で、外国語大学の学長をしている兄弟がいて、その人が、統治体に派遣されて、日本でもやることになったんだけど、その人は英語でしか教育ができないので、まずは英語だけの授業で実験的にその教育課程を実施してみて、その後、その試験的課程をもとに、べテルで英語→日本語の通訳を入れて、本番の教訓者育成課程をやるんだ。」

「なので、英語だけで授業を受けられる兄弟たちを探しているんだけど、英語会衆以外の開拓者の兄弟で参加できる人が全くいないし、英語以外の言語の会衆にも応用が利くかどうか試したいから、IM兄弟、参加してくれないかな?」

と打診されていたところでした。

 

私は、この頃は、K君から受けたショックもあって、霊的にどんどん調子を崩していた時期だったので、

なんだか気が乗らなくて返事を保留していたのですが、

T兄弟にその話をしたところ、

「え!!そうなの??そしたらそれは同じ課程ということだよね??」

「自分は教訓者なんてできるかどうか心配で心配で仕方ないから、IM兄弟、ぜひそれに先に参加してきて、どんな感じか教えてくれないかな?頼むよ、本当に頼む」

と言われてしまいました。

 

すでに霊的なことへのバイタリティが下がり始めていた時期でしたが、

特に断らないといけない強い理由もなかったですし、

T兄弟がそういうなら、行けば何か良いこともあるかもしれないと思い、

私はその、正規の課程の前に、英語だけで行われる勉強課程に参加してみることにしました。

このブログの目的は、自分が「覚醒」したプロセスを書き綴ることですが、ちょうど大学に入った時に感じたことで、今回話題にしたエホバの証人の「外国語奉仕」にも関連することが1つありますので、外国語奉仕つながりで、私が知っていることをもう1つ書いておきたいと思います。

 

それは「言語訓練コース」についてです。

 

皆さんは、90年代の終わりから2000年代の初めころに、日本の(そしておそらく世界中の)エホバの証人支部が、「言語訓練コース」というのをやっていたのをご存じでしょうか。

(あるいは今もまだやっているのでしょうか?今もあるのかどうか私は知らないもので。)

 

これは、2週間程度、新しい外国語を勉強したい兄弟姉妹たちが参加する外国語の勉強課程で、教訓者は外国語会衆で経験を積んだ兄弟たち、という触れ込みで、この2週間で基本的かつ「応用が利く」、専門的で特殊な外国語の勉強方法を学び、その課程を修了した兄弟姉妹たちが、その後外国語会衆に派遣される、というような取り決めだったと思います。

 

ギレアデを卒業して、各国に派遣された兄弟姉妹たちは、任命後の最初の期間、集中的に言語を勉強する課程が設けられていて、その内容は、基本的には「野外奉仕」で最初にする証言の方法や、簡単な再訪問・研究司会の方法がメインであったと思います。

 

そして、元宣教者の経験を持つ日本人の外国語会衆の兄弟の中には、この課程を真似した外国語教室プログラムを自分で作って、「元宣教者ステータス」を活用し、多くの兄弟姉妹を生徒にしてビジネスにしている人もいましたが、

 

べテルが「正式な取り決め」として、言語訓練の課程を作り、ほとんど外国語を勉強したことがない人でもほぼゼロ状態から参加できて、

上に書いたとおり、効果的な外国語の「勉強方法」自体を学ぶので、それを活かせばその後もどんどん効果的かつ短期間で外国語をマスターできる、そういった建前であったように記憶しています。

 

私は、この「言語訓練コース」が始まったころにはすでに真理から離れ始めていたので、この取り決め自体には参加しませんでしたが、

「言語訓練コース」が始まるしばらく前に、

「言語訓練コースの教訓者を訓練するコース」というものがべテルで開かれました。

 

私の尊敬していたパートナーのT兄弟もこのべテルでの課程に招待されましたし、

親しかったほかのべテルの兄弟たちや野外の立派な兄弟たちも何人か招待されていました。

 

私はこのべテルでの「教訓者コース」を本格的に始める前の、直接英語だけで行われた教育課程に参加したことがありましたので、この「言語訓練コース」について自分が知っていること、思うことを書いてみたいと思います。

 

※実際にこの「言語訓練コース」に参加された方が感想とかをコメントしていただければ、とてもうれしく思います。