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エホバの証人(JW)について考えるブログ

弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

『良心の危機』を読んで得られた、最大にして決定的な情報は、「1914年の教理についてのエホバの証人の教えの根拠は「虚偽」であり、かつ、統治体はそのことを認識しながら信者にこの教理を教え続けている」という衝撃的な事実についての詳細かつ具体的な記載でした。

 

・この点について『良心の危機』が暴露していた内容について紹介し、

・そしてこの動かぬ事実は何を意味するかについての自分の考えを書きたいと思います。

 

【1914年について暴露されていたこと】

 

いうまでもなく、エホバの証人は1914年という年代の決定的重要性について長年にわたり繰り返し教えており、しかも、この1914年という年代についての理解は、エホバの証人教理・エホバの証人組織が寄って立つ根本的な基礎であり、すべての始まりであり、彼らの言う正当性の絶対的な根拠になっています。

 

ところが、『良心の危機』の中には、

・1914年についての教理が全くの誤りであること、

・しかもその事実を統治体全員が認識していながら、信者にその事実をひた隠しにしつつ、なんとかこの教理に基づく年代計算で、信者の数を維持しようとしていたこと、

これらが詳細かつ具体的に書かれていました。

 

①執筆委員会にいたレイモンド・フランズの徹底的調査

 

『良心の危機』には、1965年にレイモンド・フランズがノア会長によりブルックリンの世界本部に呼ばれ、「聖書辞典」を作成するように指示され、この作業を行ったことが書かれています。

 

この「聖書辞典」というのが、後に「聖書に対する洞察」として、世界中のエホバの証人にとっての「難解ながらも絶対の聖書理解のための権威的書籍」とみなされることになる本で、当時はその原型である「聖書理解の助け」という本で、英文でしか発行されなかったものでした。

 

最初はこの仕事をしたのはレイモンド・フランズ一人でしたが、後に統治体員になるライマン・スウィングルと、ギレアデの教訓者エドワード・ダンラップ(ヤコブ書の注解の執筆者)、そしてさらに2人が参加して合計5人で5年間を費やして作成したとの事でした。

そしてその作成の際には、「キリスト教世界」の出版した多くの聖書事典や注解書を参考にし、聖書をヘブライ語とギリシャ語の原典から読む作業も行ったようでした。

 

その過程の中で、レイモンド・フランズは「年代計算」という27ページの記事を書いた際に、「1914年に終わりの日が始まった」という教理についても言及することとなり、その際に、「ダニエル書4章の『七つの時』、つまり2520年の期間が始まったのが西暦前607年(ネブカドネザル王がエルサレムを滅ぼした年)からスタートする」という教えについて徹底的な調査をしたことが書かれていました。

 

レイモンド・フランズによれば、607年という数字が、「何故かものみの塔協会の出版物にのみ出てくる協会特有の数字であることに薄々気がついていた」そうですが、何ヶ月もの間古代史の文献や資料を調査し、歴史資料を探し、執筆部門の秘書チャールズ・プレーガー兄弟を使ってニューヨーク中の図書館を探し回らせたものの、西暦前607年を支持する史料は何一つ見つけられなかった、とのことでした。

 

それどころか、どの信頼できる資料にも、「ネブカドネザル王がエルサレムを滅ぼした年は西暦前587年である」ということですべて一致していたことが、『良心の危機』では率直に書かれていました。

 

そして、レイモンド・フランズはブラウン大学の考古学の教授で古代楔形文字の権威であったアブラハム・サックス教授に直接この点を質問したそうですが、「ものみの塔協会が言うようにエルサレムが紀元前607年に陥落したことが史実であるためには、古代の書記たちが示しあって多くの楔形文字で書かれた文書を一斉に同じ様に書き換えなければあり得ない」といわれたことも記されていました。

 

ブラウン大学というと日本ではなじみが少ない名前かもしれませんが、この大学はアメリカではハーバード大学やイェール大学などの超一流トップ大学である「アイビーリーグ」の1つであり、全米屈指の大学、世界最高レベルの大学の1つと言って間違いのない大学です。

その大学の教授、つまり古代史の世界最高権威の教授からこのような事実を告げられ、愕然とした事実が書かれています。

 

なお、レイモンド・フランズ自信は、『良心の危機』の中で、次のように述べています。

紀元前六〇七年を裏付けるものはまるで何も見つからなかったのである。歴史家たちは口をそろえてその二十年後の年代を示していた。私は『聖書理解の助け』で「考古学」の項目を書くまでは、メソポタミア付近で発見され、古代バビロンにまでさかのぼる粘土板に記されたくさび型文字の記録が何万という数に及ぶことなど知らなかったが、その何万という記録のどれを見ても、(ネブカドネザルが統治を行なった)新バビロニア帝国の期間は、エルサレム破壊の年が紀元前六〇七年になってくれる長さにならない。どれを見ても、協会が言っているよりも二十年短い期間になる。」

 

ブラウン大学の教授が言った、「古代の書記たちが示しあって多くの楔形文字で書かれた文書を一斉に同じ様に書き換えなければあり得ない」という言葉は、少しわかりにくい表現かもしれません。

レイモンド・フランズ自信が述べる通り、現存する古代バビロン時代の楔形文字は数万にも及び、想像を絶するほど正確に記録がされており、しかもそれらは相互に正確性を補完しあっています。このような、非常に長い年代にわたり記録され続け、莫大な数に及び、しかも相互に正確性を担保しあっている粘土板につき、「書記たちが示しあって多くの楔形文字で書かれた文書を一斉に同じ様に書き換えなければあり得ない」と表現するということは、要するに、「万が一にも絶対にありえない」ということです。

(楔形文字資料の信用性についてはカレブさんが非常に専門的に正確に指摘されています。)

https://www.jwstudy.com/ja/bc607_1914/conclusion1_clear_chronology/  など

 

これらの書記たちが作り続けた各記録の作成期間・その書記たちが存在していた地理的範囲・それら当時の書記たちが相互に連絡する連絡手段の不存在などを考えると、こうした表現をされたということは、「エホバの証人の年代計算は完全に間違いである」とはっきりと言い切られたことに等しいといえると思います。

 

結局、レイモンド・フランズの徹底的な調査(しかも洞察の本の原型を執筆するためになされた調査で、かつ、キリスト教世界の文献も含めたあらゆる調査)の結果、エホバの証人の教える「1914年」の年代計算を導き出す根拠は、要するに1つもなく、すべての証拠がエホバの証人の年代計算と史実は20年のずれがあることを示していた旨記されていました

 

②統治体は間違いを認識した上で無視する

 

さらに、レイモンド・フランズが統治体のメンバーになった後に統治体会議でもこの点が話題となったことも書かれていました。

 

すでに1977年には、その当時はまだ熱心な現役長老であったスウェーデンのカール・オロフ・ジョンソンが、善意から1914年の根拠となる西暦前607年の教えが間違っていることを示す論文をブルックリン・べテルに送っていたようですが、1979年の統治体会議で、レイモンド・フランズがこの1914年の年代計算の根拠に関する論文をコピーして配布し、1914年という年代の教義が歴史的・客観的根拠を持たないことについて疑問を提起したことが『良心の危機』に書かれています。

 

そして、こうした指摘にもかかわらず、統治体からは冷淡な反応が示され、結局、統治体はこの1914年の教義を変更しないことに決定したことも書かれていました。

 

当時の会長のネイサン・ノアが、「1914年について私はよくわからない。1914年はずいぶん長いこと語られてきた。われわれは正しいかもしれない、正しいと希望するよ」という名言を吐いたのも、この時であったようです。

 

このように、

・統治体全員が、1914年という年代を導き出す根拠に間違いがあることを十分に認識する場を持っていたこと、

・1914年の教理について統治体の中にも確信を持たない・よくわからないと考える人物がいたこと(しかも会長)

・それにもかかわらず、その後も1914年の教理について、エホバの証人は強調し、教え続けてきたこと

が『良心の危機』にはストレートに示されていました。


【この動かぬ事実が意味すること】

 

このように『良心の危機』を読み、「1914年に関するエホバの証人の教義は嘘である」と知った時、

私が持っていたエホバの証人教理に対する信仰は、まさに根幹からすべて覆され、完全に「ゼロの状態」になりました

 

・なぜ私はエホバの証人教理に信仰を持っていたのでしょうか。

それは、霊感を受けているとまではいかなくても、神に導かれ、神に唯一用いられているエホバの証人組織と統治体の教えが「正しい」と信じていたからでした。

 

・ではなぜ、私はエホバの証人組織と統治体の教えが「正しい」と信じていたのでしょうか。

それは、「1914年」という終わりの日の始まりについて理解し、その日の意味について宣べ伝えていたのがエホバの証人だけであり、

それゆえにエホバの証人組織は1914年以来、神から特別に用いられる組織となり、

特に1919年以降、神に選ばれた唯一の真の組織となった、と教えられ、それを信じていたからでした。

 

・ではなぜ、私は「1914年」の意味について理解する組織が真の神の組織であると信じていたのでしょうか。

それは、

〇西暦前607年に地上の神の王国が滅ぼされたこと

〇ダニエル書4章によれば、その時から「7つの時」が過ぎると神の王国が復活すると予言されていたこと

7つの時とは啓示の書によれば2520日であること

〇2520日とは民数記によれば2520年であること

〇したがって、西暦前607年から2520年後の1914年が「神の王国の復活の年」であること、

このようなことを教えられ、そしてそれを信じていたからでした。

 

私のみならず、論理的にエホバの証人の教えを受け入れ、真にエホバの証人教理を研究して理解し信者になったのであれば、誰しもが、全員が全員、こうした理解に基づいて、エホバの証人は真の宗教だと信じていたのではないでしょうか。

 

しかし今や、この教えの最も肝要な、起点となる年(西暦前607年)についての教えが、事実と全く反するということであれば、

エホバの証人の教え、エホバの証人教理に対する信仰は、すべてが根本から覆るはずですしこの情報を知った私は、まさにそう思いました。

 

あまり陳腐な例えは使いたくないですが、

 

・仮に自分がどこかの不動産からどこかの土地付きの家を買い、3000万円をすでに不動産屋に支払ったとして、

支払い後に、実際にその家があるはずの場所に行ってみたら、「買ったはずのその土地」自体がもともとそこには存在せず、地図にも最初から載ってなく、あるべきはずの家ももちろん存在しなかったとしたらどうでしょうか。

「いや、この不動産屋からは土地の測量図をもらっている!」

「家の図面ももらっている!」

「設計図ももらっている!」

「建築中の家の写真も何枚も何枚もらっている!」

「建築許可証のコピーだって、登記申請書類のコピーだってもらっている!」

と叫んだところで、

そもそもその土地自体が最初から存在しなければ、そうした書面をいくつも持っていることに何か意味があるでしょうか

 

そのような、期待と夢を持ちながら眺めていた測量図・図面・写真・法的書面を何度見たところで、

それらを手にして「自分の土地と家は存在するんだ」と信じこもうとしたところで、

 

そもそもその土地と家自体が最初からこの世に存在しないという事実があり、そしてその事実が動かぬ事実であれば、

それまで信じていたこと・それまで信じてきたことの「証拠」だと思っていたものには、全く何の意味もなく、それらをたくさん持っている意味は「ゼロ」なのではないでしょうか。

自分が信じてきたもの、信じられると思っていたものには何の意味もないのが現実ではないでしょうか。

 

・さらにもっと簡単な別のたとえで言えば、

オセロの盤面の真ん中部分をどんなに白い牌で埋め尽くしていても、両端・または四隅に黒い牌を置かれたら、

連鎖的にすべてが黒にひっくり返されるのではないでしょうか。

両端・四隅に黒い牌を置かれたという事実があれば、それまで状況がどうであったとしても、盤面は一気にすべて黒で埋め尽くされ、何をどうしたところでその状況は動かしようがない、否定のしようがないものなのではないでしょうか。

 

私の信仰についても、まさにそのような状況でした。

 

・どんなに愛ある兄弟姉妹に囲まれていると感じていたとしても、

・どんなに王国会館・大会ホール・海老名べテル・ブルックリンべテルの建物や施設が立派だと感じていたとしても、

・どんなに集会や大会で感銘を受け、真の宗教としての満足感のようなものを長年実感してきていたとしても、

・そして何よりも、エホバの証人教理の深さや素晴らしさにそれまでずっと感銘を受け続けていたとしても、

 

そのような思いや経験がいくらあったとしても、

 

西暦前607年にエルサレムが滅びたという事実はウソで、実際に滅びたのが587年であることがすべての考古学的証拠で動かぬ事実として確証されている以上、この年を起点に計算された1914年についてのエホバの証人の教えは崩れることになります。

→そして、1914年の教えが崩れる以上、1919年にエホバの証人が神に選ばれ、その後に真の組織として用いられてきたという事実もまた崩れます。

→そして、「エホバの証人が神に選ばれた真の宗教である」という命題が崩れるのであれば、その組織が教える教えについても、その正しさの根拠が一気に、まさしく一気にすべてゼロに戻されることになります。(ましてや、1914年の間違いについてエホバの証人組織は一切の反論をしていないばかりか、この事実を指摘する人を排斥し、『背教者』として異常なほど信者に近づけようとしていないい状況を考えると、なおさらということになります。)

→このように、エホバの証人が神に選ばれた組織であるとする最重要根幹の根拠が崩れる以上、エホバの証人が教えていた一つ一つの教えが、1から100まで、そのすべてが連鎖的に崩れることになります。

 

・なぜ「血を避けるように」と聖書に一言書かれているだけで輸血を避けないといけないのでしょうか?

聖書に文字通り明確に書かれているから従わないといけないのであれば、同じようにはっきりと書かれている、パウロの言った「水を飲むのをやめ、ぶどう酒を飲むように」という教えにも従わないといけないのではないでしょうか?

→「統治体がそう教えているからそうなんだ」という理由で兄弟姉妹たちはエホバの証人の教えに従いますが、そもそも統治体の教えに従う根拠の根本が崩れる以上、なぜこのような線引きがされるのか、合理的理由はすべて消え去ります。

 

・ソロモンは数百人の妻がいたのに、なぜ「淫行は絶対の罪」とされるのでしょうか?

ロトは娘二人と近親相姦したのに、なぜ「淫行は絶対の罪」とされるのでしょうか?

ユダは行きずりの娼婦と思う女性と関係を持ったのに、なぜ「淫行は絶対の罪」とされるのでしょうか?

→「統治体がそう教えているからそうなんだ」という理由で兄弟姉妹たちはエホバの証人の教えに従いますが、そもそも統治体の教えに従う根拠の根本が崩れる以上、なぜこのような線引きがされるのか、同じく合理的理由は全て消え去ります。

 

・もっと言えば、そもそもなぜ、1914年の年代計算の際に、全然文脈と関係のない啓示の書がいきなり出てきて「1年は360日」とされ、またその後に再度、同じく全く脈絡のない民数記がいきなり出てきて「1年は1日」とされ、7つの時が2520年だとされるのでしょうか?何の根拠があるのでしょうか?

→「統治体がそう教えているからそうなんだ」という理由で兄弟姉妹たちはエホバの証人の教えに従いますが、そもそも統治体の教えに従う根拠の根本が崩れる以上、なぜこのような全く関係のない場所にある聖句がいくつか突然に引っぱり出されて、そこだけもっともらしい「字義どおり」のあてはめがされ、その一方で、別の聖句については字義通りのあてはめがされずに「比ゆ的な表現だ」とされるのか、もはや全く説明がつかなくなります。

 

このように、『良心の危機』で知った、

1914年の教理についてのエホバの証人の教えの根拠は「虚偽」であり、かつ、統治体はそのことを認識しながら信者にこの教理を教え続けているという衝撃的な事実から、論理的・合理的な考え方をすれば、何をどのように考えたとしても、エホバの証人の教理についての信仰が、その小さな1つ1つの知識に至るまで、とりあえず全て「ゼロ状態」にオールリセットされることになりました。

 

このように、『良心の危機』には、前回書いたとおり「統治体」の立場にあったこの欧米出身の老人たちの一団が、

・兵役拒否の教えについての露骨な二重基準(それにより引き起こされた多くの兄弟たちの無駄死に)、

・血液製剤についてのあまりに無責任で杜撰な教え(それにより引き起こされた多くの兄弟たちの無駄死に)、

・そして、性的関係について繰り返された異常で詳細な指示(それにより引き起こされた多くの兄弟たちの家庭破壊・人格破壊)

これらにより、いかに人の人生を破壊し、ある場合には無数の人の命そのものを無為に奪い続けていた、戦慄の記録が具体的かつ克明に記されていました。

 

これらの事実の暴露は、確かに「エホバの証人組織の実態」を考えるうえで、極めて重要な情報です。

 

もっとも、『良心の危機』が書かれた趣旨は何かという観点から言えば、

これら具体的で深刻な問題は、結局のところ、前々回に書いた内容にすべて帰結するようにも思います。

 

それはつまり、自ら「統治体」・「忠実で思慮深い奴隷」・「地上における唯一の神の経路」と名乗る欧米系の老人たちの集団が、こうした何百万という兄弟姉妹たちの人生、そして彼らの生命そのものに直結する問題について、ほかの誰にも知られないような本部べテルの密室で聖書も開かず祈りもせず、その時その時の人間的感情で極度に無責任かつ著しく適当な方法で物事を決め、それにより、人を徹底的に縛り人生を取り上げるとんでもない教理が1世紀以上にわたって世界中の誠実な信者の人生や命を奪ってきたということであり、

いうなればこの事実にすべてが包含される内容であるように感じます。

 

したがって、『良心の危機』の総括的感想を述べるならば、この、

①エホバの証人の統治体がいかに不誠実で信じられないほどに適当にエホバの証人全体に指示を出しているのか、その実態を赤裸々に具体的に暴露した

という点が、この本の最大の貢献の一つであると、私は感じました。

 

また、この本の最大の貢献のもう1つは、

②1914年についての教理が全くの誤りであり、しかもその事実を統治体全員が認識していたことを暴露したこと

であると感じます。

 

そして、多くのエホバの証人関係者にとっては、まさにこの「②」の点こそが、決定的に重要であり、私個人にとってもこの事実が、エホバの証人との関係を清算する最後の、しかも、最大の要素になりました。

 

この、②の点について『良心の危機』が何を述べていたのか、

その述べる内容から自分が何を学び取ったのか、

次回に書きたいと思います。

『良心の危機』には、これら「統治体の実態」の暴露のほかにも、

エホバの証人組織の正体を暴く、非常に重要な具体的情報がたくさんのせられていました。

 

【その他の暴露】

 

①マラウィの兄弟たちを見殺し

 

例えば、マラウィのエホバの証人は、当時の一党独裁政権の党員カードを購入するのを拒否しているために、暴行や拷問、虐殺などの非常に激しい迫害を受けていたこと、エホバの証人組織はこれを「購入する」ことは政治的中立を破るものであり「妥協を許さない」クリスチャンはたとえ殺されても買ってはいけないと強く指導していたことが書かれていました(実際には、世界中のどの国も導入している単なるIDカードとも考えられるのに)。

 

また、レイモンド・フランズが監督であったドミニカ共和国では(そしてドミニカ以外の多くの国でも)、エホバの証人の若い兄弟たちは兵役を拒否するがゆえに長年投獄されていたことが指摘されていました。

 

・ところがメキシコでは、役人をわいろで買収することにより「軍事訓練終了の印鑑を押してもらうこと」ができたこと

・ものみの塔協会のメキシコ支部から「この違法な買収はメキシコのエホバの証人の間でも何年にもわたって一般的に行われている」という報告を統治体は受けていたこと、

・そしてその理由は「ニューヨーク本部が1960年の正式書面でそのように指導したから」であったこと、

・「その書面を書いたのはフレデリック・フランズであった」こと、

・「メキシコ支部では、エホバの証人たちはマラウィの悲惨な状況を知っており、それに比べてわいろを使って買収しているメキシコの証人の間に、良心の痛みを感じている人が多くいること」が報告されていたこと、それでも統治体はその運用を変えなかったこと、

が指摘されていました。

 

要するに、統治体は、ある国では平気で行われているようなことを、別のある国では「死に至ってもやってはいけないこと」と強く指導し、多くの兄弟姉妹たちを事実上見殺しにし、しかも、非常に悲惨な死に追いやっていたことなどが指摘されていました

 

②血友病の兄弟たちを見殺し

 

また、「統治体が自分たちの「適当な教え」により人の命を見殺しにする」という事実について、さらに非常にシンプルでわかりやすい露骨な例として、「血液製剤」の使用についての統治体の決定についても指摘されていました。

 

この実例も、あまりに杜撰であまりにひどい話としか言いようがありません。

 

『良心の危機」には、

・統治体と各支部の指導者は、血友病のエホバの証人の患者に対して、なぜか「血液成分である凝固因子を使って一回の治療をすることは構わないが、この治療を繰り返して受けることは禁止されている」と教えていたこと、

・しかもこの方針は長年の間、出版物に載せられることなく問い合わせのあったエホバの証人に直接本部や各国の支部が伝えていたこと、

・そしてこの方針は1975年6月の統治体の会合で変更され、血友病患者は繰り返し血液成分の治療を受けても構わないという決定が下されたこと、

・ところが、協会の見解がくるくる変わることがばれることを恐れて、エホバの証人本部は過去に問い合わせてきた血友病の証人の手紙を元に新しい方針を個々の患者の証人に手紙で伝えることにしたこと

・実際には多くの証人は電話を通して本部に治療方針を問い合わせてきていたために、電話で問い合わせた患者には新しい方針を伝えることができなかったこと

・なんと方針返還から3年以上もたった1978年6月15日号の「ものみの塔」誌に、ようやく、「他の血液成分の治療の許される例と一緒に血友病が小さく取り上げられた」こと、

・この間にいったい何人のエホバの証人が「古い教義」に従っていたため、そして新しい教義を伝えられなかったために血液製剤を使えず「無駄に」死亡していったのか見当がつかないこと、などの事実が指摘されていました。

 

【感じたこと】

 

これを読んで私は、「このような事実を知った時、こんな組織が『神に用いられている唯一の真の正しい宗教』と考える人が、果たして一人でもいるのだろうか」と思いました。

 

クリスチャンである以前に、一人の人間として、このような事態が容認されるべきだと考える人がいるのでしょうか。

 

私は以前、大会でK君の経験を聞いた時や、醜い人間性をあらわにしたべテルの兄弟と話をした時、自分の人生や人格が否定されたと感じるちっぽけな出来事を経験した時に、エホバの証人組織に対して、

 

恥はないのか,

誠実さはないのか,

やましさはないのか,

そういった,クリスチャンでない世の人でも持ってるであろう「人としてのマトモな感覚」はないのか,

と思ったことを書きました。

 

そして今や、エホバの証人組織が世界的レベルで、しかも、人の命に直結する最も重大な事項についてすら、こうした「人の道に対する背理」ともいうべき著しい偽善・無責任さを長年にわたって示し続けてきていたことを知ることができました。

 

世の人でさえ、というかむしろ世の人こそ示すような、誠実さ・責任感・人としての感情はそこには全くないことが良く理解できました。

『良心の危機』を読んでみて、さらに衝撃を受けるとともに、これまで熱狂的に信じてきた教理についてバカバカしさすら覚えるようになったのは、エホバの証人教理がどれほどズサンであきれ果てるほどに適当な方法で作られているのか、まさにその裏側が具体的かつ赤裸々に記録されていたからでした。

 

【ずさんかつ適当に作られる教理】

 

①1975年にハルマゲドンが来るという教え

 

その1つの例は、「1975年にハルマゲドンが来る」という教えの裏側についてでした。

 

1975年にハルマゲドンが来るという「うわさ」があったこと、これを信じて仕事や家を捨て、人生をかけて開拓奉仕に没頭した人がいたことは私もよく知っていましたし、物心ついた1980年ころからずっと、それらの人たちは「時に信仰を持った間違った人たちだったのだ」と私は教えられ、そう信じていました。

 

しかし、『良心の危機』を読むことで、

・この教えは1966年に出版された『神の自由の子となってうける永遠の生命』という本の中で相当程度断定的に語られた教えであったこと

 

 

・その本の中で、「人間創造の年は西暦前4026年であり、人間の創造以来6000年がたつのは1975年であること、したがって、1975年の秋にはイエス・キリストの支配がはじまること」などが教えられていたことを知りました。

 

・そして、この本が出た1966年からの9年間、エホバの証人組織は「1975年の秋にはイエス・キリストの支配がはじまること」を異常なまでに強調し続けたことも改めて知りました。

(例えば、ものみの塔1968年5月1日272頁には、「どんなに長くとも数年以内にこの「終わりの日」に関係する聖書の預言は成就されるでしょう。そして生き残る人類はキリストの栄光に満ちた千年統治の中で解放されるのです。」と書かれていることが指摘されていました。

また、王国宣教1974年6月号でも、「家や資産を売って、開拓奉仕をしてこの古い体制における自分たちの残りの日々を過ごそうとする兄弟たちのことをよく耳にしますが、確かにそれは、邪悪な世が終わる前に残された短い時間を過ごす優れた方法です。」と書かれていることも指摘されていました。)

 

さらに、この怪しげでありながらも奇妙に説得力を持たせていた教えは、後のものみの当協会の会長フレデリック・フランズが考え出した教えであり、かつ、このフレデリック・フランズが、周囲の統治体メンバーの慎重な意見に耳を貸さず様々な大規模な大会で「講演」の形でもこの教えを世界中で流布しまくり、強調しまくっていたことも知りました。

 

『良心の危機』の中には、レイモンド・フランズがこの点についての熱狂状態をいさめるような講演をしたところ、フレデリック・フランズが、「興奮して何がいけないのかね?これは興奮すべきことだよ」と言い、この人物が心底から自分の作り上げた教義を信じて疑っていない様子を示していたことも書かれていました。

 

私は、ちょうどフレデリック・フランズが亡くなるころに開拓奉仕を始めたこともあり、「フレデリック・フランズ」といえばほぼ神格化された卓越した聖書学者という印象を持ち続けていました。うわさでは、「目が全く見えなくなっていたにもかかわらず、聖書全巻をほとんど丸暗記しているので、講演をするにも聖書研究をするにも困らない」とか、「統治体の中で唯一、神学についての高等教育を受けていたので、ギリシャ語・ヘブライ語にも通じており、『新世界訳聖書』の翻訳では最重要な役割を果たしたほか、ラッセル兄弟にも直接会ったことがあり、統治体の中での特別な『教理の柱』としての存在である」という印象を持っており、真理から離れ始めていたこの当時もぼんやりそのようなイメージに引きずられているところがありました。

 

しかしながら、『良心の危機』を読むことにより、もはや「狂信的な妄想」としか表現できない、一方的かつ個人的な確信に基づいて、このフレデリック・フランズが、1975年の教理をばらまいたのだということがありありと浮き出てきました。

 

また、この1975年の教理のみならず、ほかの教理についても、その多くはこの狂人の老人が考え出したものであり、ほかの統治体メンバーは、この暴走する老人に表立って逆らえないとか、或いは、エホバの証人信者の数が拡大しているからいいではないかという理由で、それに従ってきたという姿がハッキリとイメージできるようになりました。

 

②「この世代」についての教え

 

1975年の予言が外れたことはもともとよく知っていましたので、その裏話はそこまで強い衝撃は受けませんでした。

 

むしろ、自分個人としては、「この世代」についての教えの裏側について『良心の危機』が暴露していた事実が非常に印象的でした。

 

私は1980年代の終わりころにバプテスマを受けましたので、「1914年に起きた出来事を認識できた人が死に絶える前にハルマゲドンが来る」という教えを最も強調された世代であり、自分自身もこれを確信していましたし、「永遠に生きる」の本を使って、何人もの研究生にこの教えを繰り返し教えていました。

ところが自分が開拓奉仕学校に行っているまさにその最中に、「この世代」とは、「1914年に起きた出来事を認識できた人」ではなく「滅ぼされるべき邪悪な人々である」と「見解が調整」され、新しい教えはなんだかわかりにくいと感じながらも、一生懸命にその教えを理解しようとしていました。

 

そして、『良心の危機』には、この教理についても具体的で赤裸々な事実が暴露されていました。

 

『良心の危機』には、

・そもそもこの教義には何の説得的な根拠もなかったこと、

 

・1914年の出来事を目撃した世代は年を追って減少していて、ハルマゲドンが到来しない以上この教義を続けていくには何とか「この世代」を長引かせる「調整」が行われなければならないと統治体で話しあわれていたこと、

 

・1978年の統治体の会合では、アルバート・シュローダーが「この世代」を「油注がれた残りの者」に変更することを提案したけれども、他の関連する教義とつじつまが合わないという理由で却下されたこと、

 

・多くの統治体メンバーは、この点について話すことについてとても冷淡で、ロイド・バリーは現行の教義に疑いを挟むことについて非難する発言をしたこと、

 

・ライマン・スウィングルなどは、「ソビエトのある地方では130歳まで生きる人も多く、現行の教義を固守していくことに問題はない」と述べたことなどが書かれていました。

 

何より私個人にとって決定的だったのは、

・1980年3月5日の統治体の会合で、アルバート・シュローダーを中心とする司会者委員会(3人の統治体メンバー)が、「マタイ24:29-44は天体現象を述べており、これは1957年のロシアのスプートニク人工衛星の打ち上げによって開始した宇宙時代を指しているものであるので、「この世代」は1914年を見た世代ではなく1957年の宇宙時代の開始を見た世代に変更すべきである」と言って、さらに47年の時間かせぎを提案したという点でした。

 

このような会話がなされていたことを知り、エホバの証人教理のいい加減さに怒りが生じるというよりも、

 

・あまりにバカバカしすぎてもはや全くついていけない

・健全な判断能力を持つ人であれば全く相手にされないような、こうした「荒唐無稽」としか言いようがないような話を、この連中は真剣に話し、そしてその思い付きによるメチャクチャな教えにより、人々の人生を失わせてきたのか、

 

という感覚のほうが強く、もはやすがすがしさを覚えるほどまでに、エホバの証人の教えの「話にならないいい加減さ」を強く感じるようになりました。

 

③その他

 

ほかにも、

・1979年11月14日の統治体の会合で執筆委員会の長であったカール・クラインが述べた、

ある教義についてしばらくの間黙っておいて、それから変更を加えるとあまり目立たない。こうした手を組織はこれまで時々使ってきた。

という発言や、

 

・1975年の統治体の会合で当時の会長ネイサン・ノアが述べた、

「1914年について、私はよくわからない。1914年はずいぶん長いこと語られてきた。われわれは正しいかもしれない。正しいといいなあ。

という発言も、紹介されていました。

 

・また、『良心の危機』の中では、1975年の予言や「この世代」の予言のみならず、1881年、1914年、1918年、1920年、1925年、1940年と、エホバの証人組織は繰り返し予言をし、それらをすべて外してきたことも指摘されていました。

 

私は、「教理についてのこの組織の裏側の実態についての暴露」、しかも、「いつ、どの場で、だれが発言したかについてまで言及される、まさに経験した者でしか語りえない真実の響きのある暴露」を詳細に読むことができ、上にも書いたとおり、もはや怒りを通り越してバカバカしさを感じていました。

 

また、ここまで適当かつ著しく無責任に教理が作られ、そしてそれが維持され、やがて時とともにそれが耐えられなくなって廃棄され、また別の「つじつま合わせだけを目的とした新しい光」が発表されるという流れを知り、もはや「すっきりした」というか、すがすがしさに似た感情さえ感じるようになりました。

 

まさに、「真理を知り、真理は自分を自由にしてくれた」と感じました。

 

※『良心の危機』の自分にとって最も決定的だった点について、次回、書きたいと思います。

【統治体の実態を知る】

 

 

2.「統治体」のメンバー自身が明らかにした「統治体」の実態

 

 

そのように、私自身は、「統治体」については神々しい絶対の存在、そして何より神と兄弟姉妹への愛・聖書理解・数百万人を導くことへの強烈な責任感・一人のクリスチャンとしての卓越した人格を備えた人たちだと信じていたわけですが、実際に統治体を約10年経験し、しかも数多くの根幹的な教理の執筆にかかわってきたレイモンド・フランズが実際に直接見聞きした経験として語る彼らの姿は、こうしたイメージとは全く真逆のものでした。

 

そして、レイモンド・フランズが語るその内容は迫真性・具体性に富み、絶対的な真実の響きがあるものでした。

 

①まず最初に自分がこの本を読んで度肝を抜かれたのは、「統治体会議の際に、幾人かの統治体成員は居眠りをしていた」、しかもその理由が、「高齢で疲れていたから」というものであり、さらに驚いたのは、「起こすのはかわいそうなので、会議が終わるまで眠ったままにしておくことがしばしばであった」という点でした。

 

これが、神と兄弟姉妹への愛や数百万人を導くことへの強烈な責任感を抱く人の姿なのだろうか。

このような実態で、統治体の個々の成員は、「自分の深い聖書理解」を反映することが、いったいどのようにしてできるのだろうか

私は、そう思いましたし、その疑問に対する答えは自明であるとしか言いようがなく、まずこれだけでも、『良心の危機』の読み始めの最初の頃から、統治体に対するイメージがガラガラと音を立てるように瓦解してゆくのを感じました。

 

②また、「統治体会議」で話される内容についても、衝撃的な事実が赤裸々に暴露されていました。

まず、その中で話される議題の多くは、「世界中に無数にいるであろう巡回監督・地域監督・支部の責任者の任命を、統治体自身が承認すること」であった書かれていました。

 

それらすべての無数の監督たちの個人的な状況・人格・霊性を判断することなど、物理的にできることはありえようがなく、ただ単に、名前・年齢・バプテスマの日付・「油注がれた残りの者か大群衆か」だけが示されて、右から左へと承認されるだけのものであったと書かれていました。

 

日本でもどこの国でも、地元の会衆で新しく長老や奉仕の僕が任命されるときには、「〇〇兄弟は、エホバの証人の統治体により、奉仕の僕に任命されました」・「統治体により、長老に任命されました」と発表されるのが恒例であったと思います(今はどうか知らないのですが)。

 

私は、このような表現が使われているとはいえ、実際に日本国内についていえば、本当は日本支部委員会の調整者で地帯監督も務めていた、織田正太郎が代理承認していて、統治体のところになど話はいっていないことを知っていました(これを知ってショックを受けたこともありました)。

 

一方で、巡回監督・地域監督・べテル長老の任命だけは、本当に統治体が直接任命し、直接署名することも知っていました。

ですので、べテル長老・巡回監督以上のレベルの兄弟たちはエホバの証人組織の中で特別扱いされていましたし、このことはベテル経験者や旅行する奉仕経験者はみんなが知っていて認識していることでした。

 

ところが、その「責任ある兄弟たち」の任命についての実態もそこまでお粗末・不誠実極まりないものであることがこの本で暴露されていました。

 

それよりなにより、そもそも「霊的に最も重要なことを決定する場」であるはずの「統治体会議」の席が、そのような全くもって形式的で何も意味のないことのために多大の時間を割かれていることがこの本で暴露されていました。

 

これが、「真に突出した霊性を備え、エホバ神との特別なきずなで結ばれた人たちが全員で集まって祈りのうちに神の導きを求めるばですることなのだろうか」

これが、「世界中の兄弟たちの人生と将来の永遠の命、そしてまだ真理を知らない人たちの将来の永遠の命のために、統治体全員で決定すべきことなのだろうか

と私は思いましたし、考えるまでもなくこの疑問についての答えも自明でした。

 

③「統治体会議」で話される内容について、さらに衝撃だったのは別のもう一つの点でした

 

右から左へ何の意味もなく旅行する監督の任命を承認することに無駄な時間を使っていただけではなく、

世界中のありとあらゆる支部・会衆・個人から寄せられる「質問に答えること」がその仕事の大部分であり、しかも、そのほとんどは、「どの行為が排斥の罪に当たり、どの行為が排斥の罪に当たらないのか」つまり、「誰が排斥で、誰が排斥でないか」を次から次へと決めることであったと書かれていました。そして、その質問の量、こたえなければいけない量は「膨大であった」と書かれていました。

 

加えて、その質問に対しての答えの出し方がさらに衝撃的でした

 

そのような莫大な量の、しかも個別具体的な質問に対しての答えが聖書に書かれているわけもなく、かつ、いちいち聖書を開く時間も全くなく

、結局は聖書を開くことすらも一度もなく、個々の件について祈りのうちに検討することもなく、単に「その時その時の統治体成員の感覚」で回答がなされ、その回答に基づき、答えを待つ一人一人の誠実な兄弟姉妹の一生の人生が決まっていく、という実態が暴露されていました。

 

さらに、その答えを出す際には、なんとなく伝統として決まっていた、「統治体の3分の2の賛成で決定される」という、聖書的根拠なく人間が勝手に作ったルールによって、次から次へと結論が出されているということでした。

これはつまり、レイモンド・フランズの言葉を借りれば、「14人の統治体のうち、9人までが『排斥にする必要がない』と結論を出しても、3分の2に達していないのでその人は排斥される」ということになります。統治体の半分以上が正しい、許される、問題がない、と考えていても、その人は排斥されて、その後の人生が一生変わってくるわけですし、その人の周りにいる人・その人と同じ事例に遭遇する世界中の無数の人が、その「統治体の指針」によりその後の一生、或いは命そのものを左右されることになる、そうした状況が暴露されていました。

 

・私はこれを読んで、MTSに行った兄弟が「MTSでやることのほとんどは、『どの行為が審理委員会にあたり、どの行為があたらないか』、『真理委員会をどういう風に進めるか』という内容ばかりだよ。だから姉妹たちは招待されるはずがないんだよ」と言っていたのを思い出しました。

・また、エホバの証人組織内の様々な決定において、およそ聖書的・神権的でないと思われる決定が有無をいわさずに下され、それがおかしいと思っても、「これは組織の方針だ」「これはベテルの方針だ」「これは長老団の方針だ」というまさに「人間の権威」だけを持ち出して、聖書的な説明は一切なく強硬におかしな決断が実行され、しかもだれもそれに逆らえないことを思い出し、「結局、組織の中枢の中枢・最高幹部中の最高幹部たち」がこうした姿勢なので、組織の末端に至るまでこうした姿勢が貫かれているのだと、非常に納得することにもなりました。

 

エホバの証人の統治体のメンバーは、昔も今も、全員が欧米出身の高齢者です。

つまり、その全員が北米かイギリス連邦、ヨーロッパ出身であって、東洋出身・中央アジア出身・中東出身・アフリカ出身・中南米出身の統治体メンバーは聞いたことがありません。

 

こうした、「欧米の感覚を持つ高齢者の一団」が、密室の中で、世界中の何百万人もの人の人生を直接かつ現実的に左右する決定を、いうなれば「自分の好み・自分の感覚」で決定し、それによりそれを信じる人たちの人生が破壊され、狂わされてゆく姿が、『良心の危機』にはまざまざと記されていました。

 

しかも、『良心の危機』に書かれている内容によれば、こうした「統治体」に寄せられる質問の多くは、「性的なこと」に関連したものであり、どこまでの性的行為は許されるのか、生殖器そのものを使わない肛門・口を使った性的行為は許されるのか、特定の性行為の体位を禁じるべきではないか、といったことまで話されていたということでした。

中には、病気や事故により生殖器に障害が生じ、長年にわたり生殖器以外を使用して性的行為をしてきた夫婦についての相談(しかもその具体的相談は1件だけというわけではなかった)の事例が扱われたことも書かれていました。

 

こうした、究極的にプライベートなことについて質問が来るということは、それら一人一人の信者が、心底誠実な姿勢で導きを求めており、かつ、統治体に対して「神の代理者」としての絶対的な信頼を寄せていることの証としか評価しようがありません。

 

そうであるにもかかわらず、聖書も開かず、居眠りをしながら開かれる統治体の密室の会議の中で、欧米出身の偏った感覚・偏った性的思考を持った高齢者の一団が、何百万人という人の人生を狂わす決定を、自分たちのその場の感覚一つで決定し続けてきた、という事実に、戦慄や嫌悪感、強烈な衝撃、そしてそういった言葉では言い尽くしえないような、愕然とした諦めに近い感覚を覚えましたし、

同時に、今まで組織内で自分が見てきたこと・聞いてきたこと、そうしたことすべてに答えを与えてくれる感覚も覚えました。

 

※統治体の実情について感じたことは、この後もう少し書きたいと思います。

 

ここまで書いたのが、『良心の危機』の最初のイメージ、そして読んだ時の雑感でしたが、

この本の内容が自分に与えた影響の、本論部分についていくつか書きます。

 

【統治体の実態を知る】

 

この本が自分に与えた影響のうち、最も大きなものの一つ、そして一番最初に受けた衝撃は、

「統治体の実態」についての真実でした。

 

1.それまでの統治体のイメージ

 

私が現役当時に抱いていた統治体のイメージといえば、「ふれ告げる」の本に顔写真一覧が出てくる統治体メンバーについてのものでした。

 

すでに前回、当時の7人の統治体メンバーの名前を書きましたが、この人たち以外に、フレデリック・フランズ、ケアリー・バーバー、カール・クライン、ジョージ・ギャンギャスといった人たちが、見たことはないにしても「統治体」として心の中に非常に強い存在として植えこまれていましたし、この人たちの経験談もむさぼるように読んだものでした。

(ふれ告げるの本には、ほかにジョン・ブースも出ていましたが、なぜかこの人については何も知りませんでした。おそらく高齢であるゆえに公の舞台にはほとんど出れなくなっていたのであろうと思います。)

 

ほとんどすべてのエホバの証人がそうであるように、私は、これらの「統治体」について、次のようなイメージを持っていました。

 

①まず、これら統治体メンバーは、その一人一人が傑出した「聖書研究者」であり、聖書の研究と理解という意味で、想像がつかないレベルの立派な巨人たちなのだと信じていました。

 

②また、「エホバ神との関係」そして「エホバの証人の兄弟たちを「指導する」立場という意味においても傑出した存在なのだと思っていました。

 

エホバ神とのほぼ直接に近いような、極めて特別な関係にあり、それゆえに(「霊感を受けている」というレベルまでではないにしても)神から特別の形で導かれ、突出した霊性を備えているのだと本気で信じていました。

 

また、それゆえに、「教理の教え」においても、「組織の運営」においても、その神との特別の関係にあるこれら一人一人の統治体の兄弟たちが、さらに全員で集まって聖書を検討し、神に一緒に祈ることで「エホバからの特別の霊」がそこに注がれるのだろうし、そのような場でだされる「教え」についての結論や「組織」についての指示は、(仮にのちに変更が起こりうるとしても)その時その時の時点における間違いのない神のご意思であって、そうした意味において「仮に何かの間違いがあっても、その時点ではそれよりも正しい結論はありえないもの」であると信じていましたし、「だからこそ、その時その時の統治体の指示に従うことこそが真にエホバ神に従うことである」と、本気で信じていました。

 

③さらに、統治体一人一人の「人間性」についても、盲目的な「信仰」に近いイメージを抱いていました。

その一人一人が、すさまじい権威を持つにもかかわらず誰よりも「謙遜」で、誰よりも「愛」に富み、無条件で「優しく利他的」で、末端の兄弟たち一人一人への「個人的愛」と「深い気遣い」、そしてそれら兄弟たちを導くことについての「押しつぶされるような責任感」に満たされているのだ、と信じていました。

 

「完全」ではないにしても、圧倒的に長い奉仕の経験と神との特別な関係により、「完璧」に近い人間性を備えているのだと、信じていましたし、そう教えられてもいました

 

④そして何よりも、ごく近いうちに、これらの兄弟たちは、地上の歩みを終えると同時に瞬時にエホバ神のみ前で「霊者として復活すること」、「啓示の書」が言うように、イエスキリストに並ぶほどの高い地位の霊者になるのだと、本気で信じていました

 

エホバの証人は、天の霊者にもランクがあり、ミカエルたるイエスキリストは別として、その下にごく少数のセラフ(神の崇拝を行う霊者)→ごく少数のケルブ(神の神聖さを守る霊者・サタンはもともとこの地位にあった)→そして、地上の神の民を守る役目を果たす数億の「み使いたち」がいると教えています。

 

そのうえで、これら統治体の兄弟たちは、地上の歩みを終えるとともに、即座に、セラフよりも上の地位になり、イエスキリストといわば「同列」レベルで、地上を支配するのだと教えており、私は本当にこれを信じていました。

(ポエツィンガー兄弟が死んだ、ギャンギャス兄弟が死んだと聞けば、もうすでにその瞬間には、天で自分のことを見ているのだと思うと、身が引き締まる思いでいたのをよく覚えています。)

悪魔サタンが、反逆する前に「ケルブ」だったのであれば、そして数億の悪霊たちはそれより下位の「み使い」であったのであれば、それよりずっと上位の霊者になったこれら油注がれた兄弟たちが、彼らをハルマゲドンで「縛り」、その後の千年統治が終わった後に滅ぼすのもわけはないとも思っていました。

 

そして、強制収容所での日々を過ごしたポエツィンガー兄弟をはじめ、これら天で霊者となった兄弟たちは、地上の私たちの苦しみや苦労、限界を知ってくれているので、そうした兄弟たちが「王様として」私たちを支配してくださるのはなんと素晴らしいのだろうと、本気で「現実的」な確信を抱いていました。

 

つまりは、現役当時の私にとり、「統治体」は、まさに神々しい存在でしたし、

エホバ神を崇拝するのと同様、今にして思えば、これらの統治体の兄弟たちのことも「崇拝」していたに近い状態でしたし、多くの熱心なエホバの証人は皆そうであったと思いますし、こうした感覚は、組織の公の教えにおいても、出版物においても、個々の兄弟姉妹との交わりにおいても、日々教え込まれ、心に埋め込まれ、これと異なる感覚を持つ余地は、少なくとも純粋だった自分には与えられていない状況でした。

 

そんな状態であった私に対して、『良心の危機』は、統治体の本当の現実、実態を、赤裸々に教えてくれたので、

このことから、視点が180度変わるような影響を受けないはずもありませんでした。

1.これから私が何回か書く内容は、『良心の危機』を読んだ感想ですので、ほとんどの方にとっては、今まで書いた「べテルの内情」のようなものとは異なり、新しい情報が何もない内容が何回か続くと思います。

 

ですので、今まで「知らない情報だったので面白い」と感じてくださった方たちがおられたとして、この先数回は、ある意味すでにとっくに知っている内容であって、面白みに欠けるかもしれませんが、お付き合いいただければとても嬉しいです。

 

なぜ自分がエホバの証人をやめたのかのプロセスを再現することが目的でしたので、そういう意味においては、『良心の危機』をよむことがその最終段階でしたし、そこまで書ききれば、私個人がエホバの証人の嘘を確信したプロセスのご紹介は、ある意味そこで終わりになると思っています。

 

2.この間に多くの方から、「エホバの証人は信じてはいないとしても、神自体は信じているのか」というご質問をいただいてまいりました。

 

私は、現在、神の存在自体も信じていないのですが、これにも理由があります。

 

それは、「聖書そのものを調べなおした」というようなことではなく、ほとんどのエホバの証人関係者、そして一般人であってもほとんどの人が見たことがないような世界、ほとんどの人が受けたことのないような教育を受け、そこで見聞きしたことが、現在の私の結論につながっています。

 

それで、現時点では、最後にその点については必ず書きたいと思っていますし、

そこまで書ききれば、「どうしても書きたい」と思っていたことは終わりになりますので、その先はブログを続けるのかどうするのか、まだ決めていない状態です。

 

(※なお、「ほとんどの人が見たことがないような世界」というのは、何か、スピリチュアルな世界を経験したとかそういった類の話では全くなく、正式な教育に基づいた情報の取得と実際の経験でした。そうした何か「霊的な世界」の話とか「陰謀論」みたいなものをするわけではありませんので、そこは先にお伝えしておこうと思います。むしろ、通常の生活をしてればほとんど存在も知らないような世界の話であり、かつ、押しつぶされるような圧倒的な現実感を伴う話になりますし、その経験は私の人生観を大きく変えましたので、それはそれでまた、「新しい話」として興味を持っていただけるのではないかと思っています。)

 

3.『良心の危機』の感想を書く際には、まだこの本を読んでない方が、少しでもこの本を読んでみようと思えるような仕方でのご紹介ができれば嬉しいとも考えています。できるかどうか自信はないところではありますが。

 

先回は、かつての統治体についてのイメージを色々書きましたが、こうした内容が面白いのか面白くないのか、自分では区別がつきません。

また、自分では、「個人的なことなのでこれを書いてもつまらないだろう」という内容を書いてみたら、思いがけず強い反響をいただいたこともありました。

それで、書いてる内容で、面白いこと・つまらないこと、「これについて書いてみるのはどうか」というようなご意見を引き続きいただけば、それもまた大変に嬉しいことです。

 

自分が忘れていることや、書く必要はないと思って切り捨てていることも多々ありますので、いろいろご教示いただければありがたく思います。書ける内容があれば思い出して書いてみますし、書けない内容であれば正直にそのように言います。

 

宜しくお願いします。

【良心の危機への雑感】

 

『良心の危機』を読んだ時の軽い感想・雑感についてもう一つ書きたいと思います。

 

3.統治体についての言及

 

もう一つ、私がこの本に吸い込まれるように読み進めることができたのは、当時の「統治体」についての、「その場で現に経験したものしか表現しえないような、迫真性のある具体的な表現」が何度も出てきたことでした。

 

そうした統治体メンバーの固有名詞が挙げられたうえで、いつ、どのような発言を、誰がしたかが書かれているのは、「エホバの証人オタク」で統治体メンバーについて非常に強い関心を持っていた私には、これもまた衝撃的としか言えないほど興味深い内容でした。

 

 

私自身が、自分のこの目で直接見て、自分のこの耳でその声を直接聞いたことがある統治体のメンバーには、

・アルバート・シュローダー

・ロイド・バリー

・ジョン・バー

・ダニエル・シドリック

・セオドア・ジャラズ

・ミルトン・ヘンシェル

がいました。

 

話が少しずれますが、ついでなので、自分が現役時代これらの統治体に抱いていたイメージを少し書いてみたいと思います。

 

アルバート・シュローダーについては、フレデリック・フランズ同様、エホバの証人組織の中での「聖書理解の要」というイメージを持っていました。ギレアデ聖書学校の開校当初からの教訓者で、私が現役の時もまだ教訓者でしたし、「新世界訳聖書翻訳委員会」において、フレデリック・フランズとともに中心的な役割を果たした人物と聞くことが多くありました。

 

もっともこの人は、話をするときは抑揚のない弱々しい話し方をするし、何より言っている内容が難解で何を言ってるかよくわからず、あまり励みを与える話し方をする人ではないな、というイメージでした。

また、いつだったか、日本に「地帯訪問」で来たときの特別集会で、なんと、この人の「息子」のジュダ・ベン・シュローダーにもその特別集会で話をさせたことがありました。

私は、統治体とはいえ子供ができたのにべテルにとどまることができるという「特別扱い」に非常に強い違和感をおぼえましたし、何より、「父親が統治体だから」という理由で、年もそんなにいかず経験も突出した霊性もないであろう若い息子のジュダ・ベン・シュローダーが、「地帯訪問の特別集会」で話をするという、普通考えられないような特権を得ていることに、嫌悪感に強い極めて強い違和感を覚えたことがありました。

 

ロイド・バリーについては、言わずと知れた、元日本支部の監督ですし、日本にまだ数十人しかエホバの証人がいない時代に宣教者でやってきて、まさに1万倍に増えるのに貢献した人、というイメージでしたし、何か事あるごとに統治体の中で「日本のエホバの証人の開拓者精神をほめてくれる」と聞いていたので、良いイメージを持っていました。

当時は確か、ものみの当協会の「副会長」をしていましたし、ものみの塔の執筆もしているという話を聞くこともありましたので、そうした点でも親近感や良いイメージがありました。

彼の奥さんは、「大群衆」であって「残りの者ではない」というのも有名な話で、将来、夫婦で永遠に分かれてしまうことはいったいどのような気持ちなのだろうと、悲痛な思いでその点を同情的に考えることもありました。

 

ただ、バリー兄弟も、日本で話をするときは下手な「日本語」で話しますので、大体何言ってるかよくわからないし、話し方も弱々しいなというイメージはありました。

それから、ニューヨークの日本語会衆に所属しているのは有名な話でしたが、兄弟姉妹たちを注解で指すときに、かなり適当でぞんざいな差し方をするという話を聞いて、「そのようなものかー」と思った記憶があります。

 

ジョン・バーは、優しそうな顔をしていますが、実際に、話をするときも本当に優しい話し方をしますし、内容もまた、真理と兄弟たちへの愛に溢れていて、まさにイメージする通りの統治体という感じで、好印象を持っていました。

確か双子の兄弟がいたはずだけど、その人は今どうしているんだろう?とか思ったりすることもありました。

あと、実際に会うと、顔がすごい黒いのでびっくりしました。

 

ダニエル・シドリックは、ほかの多くの統治体員とは違い、話し手としては傑出しているとしか言いようがないという印象でした。

あの独特の低い声で、そして非常に力強く、完ぺきに抑揚が利いた話し方はまさに感動を呼ぶ超一級の話し方だと思いましたし、その話す内容も、将来への希望や神への強い信仰を強く奮い立たせる内容で、まさに話し手としては完ぺきな人だという印象でした。

 

演壇から降りたときの話し方も、威厳に満ち溢れながら笑顔を絶やさず、まさにカリスマ的統治体員という印象でした。

 

セオドア・ジャラズも、ダニエル・シドリックと並んで、傑出したもう一人の超一級の話し手という印象がありました。

あのよくとおる声で、計算されたような非常に力強い話し方と一気に話し上げるスピード感は、天性の話し方というイメージがありました。

ダニエル・シドリックが信仰や希望を強める話が好きなのに対して、ジャラズは「とにかく特権を追い求めるように」という話をする傾向が強かったイメージがありますし、話に飽きが来ないように要所要所でうまい経験やちょっとしたサプライズを入れる、フレキシブルな人であったようにも思います。

 

ミルトン・ヘンシェルは、とにかくデカい(背が高い)というイメージと、年を食ってからは腰も曲がって小さくなった、というようなイメージがあった気がするのですが、ひょっとしたら誰かと勘違いしているかもしれません。

やはり日本の地帯訪問に来た時に、まさに「SP」としかいいようのないものすごい屈強な黒人の兄弟2人が横にピッタリくっついていたことと、日本中の兄弟姉妹が集まる「特別集会」なのに、周りが困るような、自分を高齢者として卑下するような話をして、「ものみの塔協会の会長がこんな軽薄な話をしてよいのか」と少し頭が混乱したことを覚えています。

通訳していた織田正太郎は、嬉しそうに大笑いして訳していたような覚えがありますが。

 

⑦それからライマン・スイングルは、直接見たこともなければ肉声も聞いたことがないですが、ブルックリンべテルで彼に会ったことがある兄弟が、「本当に優しくて、嘘偽りなく謙遜な人」と言っていたのをよく覚えているので、そういう人なんだと思っていました。

 

多くの元JWの皆さんも、統治体に抱いていたイメージがあると思うのですが、皆さんはどんな印象を持っていたのだろうと思うことがあります。

 

それはさておき、エホバの証人的に言うと、「少し人間的な」感想についても書いたわけではありますが、それでも現役当時の私は、当たり前ですが、統治体というのは本当に「神々しい」レベルの兄弟たち、謙遜で愛に富み、何より徹底的に聖書を研究し突出した霊性を備えている人たち、そして間もなく地上の歩みを終えれば、み使いよりもケルブよりもセラフよりも高い地位に引き上げられ、地上を支配する人たち、と本当に信じていました。

 

こうした当時の統治体について、いろいろ実名を挙げて、どのような会話がなされったのか、どのような態度を彼らが示していたのか、そして現役当時は想像もつかないような「統治体会議」の中でどのような会話がなされていたのか、赤裸々に書かれていたことが、『良心の危機』を一気に食い入るように読み切るうえで助けになりました。

 

 

【良心の危機への雑感】

 

それでもなんとか『良心の危機』を読むに至ったわけですが、

まず最初に、この本を読んだ時の軽い感想・雑感について書き、

その後、この本が自分の心に決定的に与えてくれた影響について書きたいと思います。

 

1.エホバの証人関係者にとっての読みやすさ

 

まず最初に感じたのは、この本の書き出し部分にレイモンド・フランズのエホバの証人としての経験、プエルトリコでの宣教者や支部監督としての経験、ギレアデに行った経験などが書かれていて、まるで「ものみの塔」や「年鑑」にある経験談を読んでいるようで、とても読みやすい、入りやすいということでした。

 

読み進めるにつれて、さすがは「ものみの塔」の記事そのものを書いていた人の文章だな、と感じることがとても多かったっですし、

この点が、「悪霊なみに恐れていたレイモンド・フランズ」への印象を根本的に変えてくれました。

 

2.洞察の本の著者

 

それよりなにより、私が非常に衝撃的ともいえる感銘を受けたのは、レイモンド・フランズが『洞察の本』の内容のほとんどを書き上げた人その人である、という事実でした。

 

私は現役時代、エホバの証人組織の様々な本に精通するように努め、「王国宣教」に書かれる「質問箱」から、年鑑・ものみの塔・目ざめよ等に出てくる経験も含めて、いろんなエホバの証人の提供する情報を取り入れて頭に入れるようにしていました。

当時の私は、(まちがった教えだったとしても)エホバの組織が教える教えをとても愛していました。

 

そして、そのような中でも、「霊感の本」のように聖書そのものについて教える書物が最も好きでしたし、その中での最たるものが『洞察の本』でした。ここまで徹底的に聖書のそのものを解説する本はほかにはないと思いましたし、これこそが「エホバの証人の固い霊的食物」の中でも最も優れたものだと、日々感動しながら何度も通読していました。

 

そして『良心の危機』を読んだときに、

・レイモンド・フランズが『洞察の本』の前身となる『聖書理解の助け』を作るためにブルックリンべテルに呼ばれたこと、

・その本が完成してすぐにレイモンド・フランズが統治体に任命されたことを知りました。

・また、なぜ『聖書理解の助け』が日本語で発行されず、その後、よく似た内容の『洞察の本』が出たのか、なぜ『聖書理解の助け』は日本語訳されないのか不思議に思っていましたが、レイモンド・フランズが排斥されたのちに、エホバの証人組織にとって都合の悪い中立的な真実が書かれている部分が削除されたうえで、改めて『洞察の本』が発行されたことを知るようになりました。

 

私は、私が本当に愛していた真理の中核となる本を作ったのがこの人であること、そしてその自分が愛した「真理」について、今やその人が「本当の真実」をこの『良心の危機』という本の中で書いているのだ、ということを知りました。

 

何万人という人の人生を狂わせ、いまやそのほとんどが破棄されている奇妙な予言についての教えは狂信的なフレデリック・フランズが作り上げ、誰もそれに逆らえず、或いは、逆らおうともせずに垂れ流され、そして今や忘れ去られている一方で、

 

今読んでも感銘を受ける「聖書そのもの」についての深い解説は、レイモンド・フランズ(そして彼と一緒に排斥されたエドワード・ダンラップ)が調査して書き上げたものであると知り、さらに今や、まさにその人が、その後に渾身の思いを込めて全世界のエホバの証人関係者に向けた『良心の危機』の本を自分が読んでいるのかと思うと、

何とも形容しがたい、しかし、本当に重く深い思いが自分の中を巡ったことをよく覚えています。

【良心の危機を読めないでいた理由】

 

このように、多くの人から『良心の危機』を読むように勧められ、自分でも読んだほうが良いかと思いながら1年近くの期間が経過しました。

 

自分ではとても買う気にもなれず、

名前すら知らないある元エホバの証人の方が「あなたは絶対にこの本を読んだほうがいい」と、自宅に手紙と一緒に郵送してきてくれたことがあり、それでようやく手元に来ましたが、それでも読む気になれず、この本は家でしばらくほこりをかぶっていました。

 

自分が『良心の危機』をなかなか読む気になれなかったのには、いくつか理由があったように思います。

 

・まず第1に、これは単純な理由ですが、この本は分厚くてとても読み始める気になれなかったというのが一つの理由にありました。

 

考えてみると、当時の私はこの本の2倍の厚さはある本を数十冊読み、しかもただ読むだけでなくその中身のほとんどを覚えないといけない状態だったのですが、そうした状況の中でこの本を読む時間をとるのに乗り気になれなかったのかもしれません。

 

※ところがいざ読みだしてみると、非常に読みやすく一気に読むことができましたし、何よりこれを読むことにより人生そのものが変わりましたので、分厚さが嫌になって読まないでいる方がおられれば、ぜひ読んでみてほしいと思っています。

 

・第2の理由は、こちらのほうがはるかに大きい理由ですが、この期に及んでもまだエホバの証人組織のマインドコントロールが効いていたこと、それほどまでにこの組織のマインドコントロールの力が強かった、ということだと思っています。

 

つまり、私はエホバの証人時代に、レイモンド・フランズといえば、まさに「大背教者」・「悪魔の使い」・「悪霊に近いような危険で不気味な存在」というイメージを植え付けられており、レイモンド・フランズの考えに触れるということ自体について「まるで悪霊にかかわるような得体のしれない漠然とした恐ろしさ」を抱いていたのだと思います。

 

結局、この本を読んでみた後の彼に対するイメージは全く正反対のもの、「真に尊敬すべき、誠実・自己犠牲・他者への気遣いの塊」というイメージに代わりました。

 

この『良心の危機』に対して抱いていた自分のこのかつての印象は、エホバの証人組織が自分の心に忍び込ませ、はびこらせ、こびりつかせた、マインドコントロールの最後の爪痕だっのだと今は良く理解できます。

 

その後知ったところによれば、レイモンド・フランズが排斥されるまでは、エホバの証人組織内における排斥者・断絶者への忌避は、今ほど異常で苛烈ではなかったと聞きます。

 

レイモンド・フランズが排斥されるまでは、エホバの証人組織は今ほど「背教者」を目の敵にしておらず、今ほどのなりふり構わぬ攻撃はしていなかったと聞きます。

 

その後のエホバの証人組織の異常なまでの「背教者」への攻撃、排斥者・断絶者への攻撃を考えると、それほどまでにエホバの証人組織は、「真実を誠実に語るレイモンド・フランズ」を憎み、恐れているということだと思いますし、

 

それはとりもなおさず、

 

エホバの証人組織がどれほど自分たちの嘘と偽善を認識しているかの証拠、

エホバの証人組織がどれほど「真実」や「誠実さ」とかけ離れているかの証拠であると、今は思います。