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GREAT WASTED

ロック野郎なネットワークエンジニアが、何故かフィリピンで恋に落ち、もの凄い勢いで結婚し、その後半年にわたるフィリピン暮らしを経て、今再び嫁を引き連れて日本の土を踏みしめながら、働いちゃったり遊んじゃったり。の巻。

現在のアッサム州は、トリプラ、ミゾラム、マニプル、ナガランド、メーガーラヤ、アルナーチャル・プラーデシュといった州に囲まれているが、このうち、トリプラ、マニプルは元々小王国であり、ナガランドは先住民族であるナガ族の土地、メーガーラヤとミゾラムもナガランドと同じく丘陵地で先住民族が居住する土地である。

アルナーチャル・プラーデシュは、イギリスがチベットと中国との紛争を調停したシムラ会議において、チベットに受諾させたインド・チベット間の境界線(マクマホンライン)によって、インド・中国間の緩衝地帯として存在している。

アッサムを含めた周辺のこれらの地域は、ヒンドゥー文化圏ではあったものの、近年までインドではなかった。

18世紀後半に、西欧の過剰な搾取によりインド・ムガール帝国が弱体化するのを見たビルマ・コンバウン朝は、版図を広げようと西方の小王国群への侵攻をはじめた。1795年に、現在はビルマ領のアラカン王国、1814年にはマニプル王国が、1817年にはアホム王国がそれぞれ支配下に入っていった。

ビルマはさらにインドを実効支配していたイギリス東インド会社に対して、東ベンガルの割譲を要求し、これが受け入れられないとわかると、1822年にイギリス東インド会社の支配下にあったベンガル地方に侵攻し、第一次英緬戦争となった。

豊富な火力でビルマを返り討ちにし、第一次英緬戦争に勝利したイギリス東インド会社は、これまで独立した小王国群としていたベンガル以東のこの地方を、支配下として組み入れ統治することになる。

イギリス東インド会社は、その名前の通り元は貿易目的の会社であったが、西欧諸国のインド貿易会社との争いにより軍事的な力を強め、その軍事力を行使して、ベンガルの知事権や税徴収権を得るなど、植民地という国家経営にまで手を広げていた。

彼らは、この地域の統治に際して、これまであった王国と支配階級を小藩国として残す事で、間接統治を行うという手法をとった。

しかし、ビルマの侵攻によって壊滅状態にあったアホム王国は、周囲を囲む丘陵地の先住民族からの襲撃に手を焼くなど、国家としての機能を失っていた。

最終的には、小藩国としての間接統治の対価として課せられた支払いを納める事ができずに、1838年に直接統治下に入り、これにより13世紀から約600年続いた王国の歴史に終止符をうつことになった。




何日か前に、インドのアッサム地方で連続爆弾テロがあったので、ちょっと調べてみたら、すげー長くなったので書いていきます。

インドの北東部というと、なんか漠然とカオスな感じがしていたんだけど、改めて地図を見ると、地政学的に相当ヤバいねこれ。

東にミャンマー、北にブータン、北東に中国、南西にバングラディシュという民族、宗教、文化のいずれかもしくは全部が異なる国家に囲まれ、西の本土との接続は僅か幅4kmの回廊で繋がっているだけ。

アッサム地方は、インド国土内で産出される紅茶と石油の半数以上を担っているらしいが、海にたどり着くには他国を通るか、前述の回廊を通り、ぐるっと西を廻ってコルカタに行くしかない。

この地方は、もともと非インド(非アーリア、非トラヴィダ)族系のヒンドゥー系小王国が乱立していた。アッサムの語源といわれるアホム王国もこのひとつで、アホムとは「同じではないもの」という意味らしく、その意味する通りタイ族の王朝だった。

タイ族は、その名の通りタイ・ラオスに広く分布しているが、元は中国の雲南省、その前は揚子江周辺が発祥だと言われており、華北平原の漢人勢力に押し出される形でヒマラヤ山脈を越えて散らばった。

南下した一群はシャム(タイ)王国をつくったが、西に行った一群はビルマでシャン族となり、さらに西に行った一群がアホムと呼ばれた。

この展開は、その後、漢民族に追われネパール、ブータン、シッキムといった国々をつくっていくチベット族の軌跡と良く似ているが、チベット族が平地勢力の権威が及びにくい山地で国家を形成していくことで、比較的スムーズに、かつ独自の文化を色濃く残したまま版図を広げたのに対し、タイ族は水稲の耕作を生業としていたため、その勢力は諸地方の川沿いの平野や盆地へと展開し、必然的に他民族や他文化とぶつかり融合していくことになった。





ジュニアが生まれてから、週末は大体散歩をする。

いやまて、生まれる前から妊婦の運動のために散歩してたな。

ま、いいや。

で、当たり前だけど、散歩というのは、正直、何も生み出さない。

でも、毎日、結構な緊張感の中で生産性を高めることに従事していると、バランスをとるためかそういう無駄でほわわわんとした時間が自分の中でとてつもなく必要とされている事に気づく。

だから僕にとっての散歩というのは、無駄な時間である必要があるのだ。

エクトプラズムが半分口から放出されている状態で、ターコイズブルーのクイニーザップを押しながら、時折何かを指差して雄叫びをあげるジュニアの後頭部をながめ、嫁と二人でとことんどうでもいい話をするのが重要だったりするのだ。

そう言う意味で、今日はとても残念だった。

事の顛末はこうだ。


僕がよく行く公園は、カフェがついている。

このカフェは公園と繋がっていて、オープンな空間があるので子供連れにはとても重宝する。であるから、休日の昼ぐらいは結構混んでいるんだけど、嫁の体内時計に従った生活をしていると、大体この混んでいる時間帯に行く事になる。

席が空いてない時は公園を一周して戻って来たり、それでも空いてない時はそのまま別の公園に行ったりするんだけど、今日は端の一席が空いていたのでそこに座る事にした。

近所に大使館とかカソリック教会とかインターナショナルなキンダーガーデンとかがあるので、外人さんの家族連れとかも多く、この日もテラスにファミリーが座っていた。

この公園はここに来るまでに長い坂道があって、ジュニアはそこを歩いてというか走って登りきってからカフェに来る事になるので、大抵の場合、疲れていておとなしいことが多い。

今日は、いつもにも増して結構な勢いでパタパタ走っていたんだけど、テンションが上がりすぎたのか、カフェについてからも雄叫びを上げていた。

僕はもともと、もの凄い短気な人間で、公共の場所で雄叫びをあげるガキとかは、ぶん殴ってもいいと思っていた方なので、そんな過去の自分に遭遇するリスクを回避するために、ジュニアのテンションが振り切れている時は、いつも肩に担いで公園に連れ出してあやす事にしている。

が、しがし、今日のジュニアはいつもより手強く、カフェを出て公園にいこうとすると激しくもがいて拒絶する有様だった。

ジュニアの雄叫びに、通路際に座っていたミニチュアダックスをつれた業界人っぽい夫婦があからさまに嫌な顔をしていたが、何かいけ好かない感じだったので、とりあえずシカトしておいた。

公園に出てからも、あんまりもがくので、面倒臭くなってリリースしたら、今度は一目散に車道にめがけて走っていく。

車道に出る寸前で後ろから抱きかかえるという、お決まりのコントを三回ほど繰り返したが、よっぽど車道に飛び出したいらしく、抱きかかえるとガン泣きしながら拒絶もがきを繰り返す。

子供というのは本当に親を成長させるもので、僕なんかもそんな状況でも全然平気になった。

どうせ嫁がいつものカレーとカフェオレを頼んでおいてくれるので、ジュニアの気が済むまでこのアホなコントに付き合ってやろうと思っていたら、今度はカフェの横の路地を見つけて、店の裏のほうへと歩いていった。

僕の頭の中では、カフェの裏は通路になっているとすっかり思い込んでいて、どうせ店のスタッフに驚いて戻ってくるものと思っていたら、しばらくたっても戻ってこない。

恐る恐る迎えに行って見て、目に入った光景に背筋が寒くなった。


実はカフェの裏は、手すりもない長い下り階段になっていて、ジュニアはその上から三段目ぐらいで、こっちを見て笑いながら下に降りて行こうとしていた。

とっさに抱きかかえ連れ戻したけれど、もうびっくりしたり安心したり反省したり、結構な精神的ダメージを食らった。MP消費した感じ。

これがひとつ目。



それからまた、一旦公園に連れて行ったんだけど、なんか一気に素に戻っちゃったので、メシ食ってとっとと帰ろう思い、叫びながらもがくジュニアを肩に担いで店に戻ったそのとき、

目の前を走っていた外人さんファミリーの女の子の足に、さっきのいけ好かない夫婦の足元にいたミニチュアダックスが、激しく吠えながら飛びかかったのだ。

半狂乱で泣き叫ぶ外人ガール、猛抗議する外人ママ、激怒する外人パパ、なぜか逆ギレしているいけ好かない夫婦、おろおろする店員、とその奥で完全に他人事でただカレーを待ちわびているうちの嫁。

外人さんは英語で、いけ好かない夫婦は日本語で、結構な剣幕で双方の言い分を話しているんだけど、お互いに相手の言葉はわかっているらしく、受け答えが妙に噛み合っているところが、より一層の不快感を周囲に惜しげもなく提供しつづける。

いけ好かない旦那は、吠えて飛びかかったけど咬んでいないと力説するが、吠えて飛びかかった時点でアウトなので、必死に弁解すればするほど、周囲は残酷な不運ショーを見ている気分にさせられる。

外人ママは咬まれたと強硬に主張。証拠に血が出ているというが、いけ好かない旦那は飛びかかられて転んだ時の傷だと力説する。

つかどっちでもダメくね?

外人パパは、外人モラルでの父親としての役割の在り方を瞬時に嗅ぎ分け、日本語を交えながら、論理的に彼らが被害者でいけ好かない夫婦が加害者であるという立場を明確にしようとするが、いけ好かない嫁がこれに逆ギレで対応。

「わかったわ。もうめんどくさいから、警察呼びましょう、警察。」

とか言って、このシーンから見た人はどっちが加害者だかわからないというか、変な外人に絡まれてる不運な犬好きの夫婦という彼女の脳内設定を前面に出すに至り、事態は一層の混迷を迎える。

ジュニアは背後での派手な怒鳴りあいを気にも止めず、テーブルの上にある全ての物質を触ろうとして、挙げ句の果てに服の袖にカレーを付着させて嫁に怒られる。

嫁はようやく出て来たカレーを食べたいのに、ジュニアは動き回るわ、僕の機嫌は悪いわ、横では派手な言い合いをしているわで、やっぱりちょっとイラッとしている様子。

僕は、ナイフ渡すから4人で殺しあって静かになってくれないかな、なーんて事は考えずに、咬まれたんなら言い合いなんかしてないで早いとこ病院行かないと、傷口から変なウィルスとか感染したらヤバくね? とか思いながら見てました。

極めつけは、外人パパが日本語で

「ボクモ、イヌ、ダイスキダケド、Controlデキナイナラ、ツレテキチャ、ダメ」

と、至極真っ当な事を言ったのに対し、いけ好かない嫁が

「あなただって娘のコントロール出来て無いじゃない。うるさくてみんな迷惑してたのよ。」

と、収まりかけた怒りに燃料を注ぐような発言で盛り上げる。


この頃にようやく警察が到着。

外人ママが必死の日本語と身振り手振りで状況を伝えたところ、警察は他のお客さんに迷惑だからと、ご一行を公園の入り口に連れて行き、そこでなにやら話を始めた。

ようやく静かになったけど、今更ですよ。

犬好きの人間の醜さと、平和な時間のありがたさを思い知った一日でした。


犬を溺愛するのは、傍目から見るとかなり醜い。僕だけだろうか。

そんで、吠えたり咬んだりしたら、その場でシバかないと駄目。迷惑をかけた人に対する礼儀でもあるし、そもそも犬は脳が未発達なので、あとから注意したりしても全く意味をなさない。これは子供でも一緒ですね。

でも、あの逆ギレぶりを見ていると、やっぱり犬は飼い主に似るって言う事なんですかね。

ま、咬んだのがうちのジュニアじゃなくてよかったなと。

いや、どちらかというと、彼らのために。







このところ散歩に行くとやたらと毛虫が多い。

黒くて毒毒しいやつ。あれは頂けない。


毛虫って春のイメージがあったんだけど、

よく考えてみりゃ夏の終わりだよね。


特定の木の近くにいるんだけど、

何て言う木かはわからないというか、

上から降ってきそうで気持ち悪いので、

いつも足早に立ち去ってしまう。


春になったら蛾が増えるのかな。

それより鳩が毛虫食ってた。レッツ食物連鎖イェー。

鳩が頼もしく見えた。


全然関係ないけど

菅刈公園の裏口の柵の横に、

なんか斜めに自転車が止めてあって、

ベビーカーだとただでさえ柵があってめんどいのに

特定の角度から進入しないと入れない感じになってた。


悲しいのは、

その自転車には幼児用の座席がついていたということ。


この人もついこの間まではベビーカー押していたはずなのに、

なんつーか、諸行無常の響き有り的な。

いーけどさ。

喉元過ぎたら人生楽しんでくれよせいぜい。

いーじゃんそーいうの、今風で。 ケッ。ペッペッ。


近所にビルができてるなーと思ってたら、

見る見るうちに巨大になっててて、

調べたら最終的に144mぐらいまで行くらしい。

すげーなおい。

半ばムキにならないとそこまで大きくできないよな。







気がついたら九月おわってんじゃんまじびびり。




こりゃすごい。

カントリーロックの大御所が歌うNINの名曲。

Johnny Cash/Hurt







このようにネパールの近代史は非常に興味深い。

そして、この興味深い流れ、特に2001年からの政変が仕組まれたものだと仮定すると、、

毛沢東主義など知らないし知るつもりもないが、毛沢東その人は紛れもなく権力闘争のスペシャリストであり、その集団心理を操る術を学んだものがマオイストの中にいたとしても何の不思議も無い。

山間部・農村部を手中にした彼らが都市部における自らの勢力拡大の障壁を冷静に分析することができたとしたら。

時には彼らの言う事にも耳を傾けた有能な王ビレンドラこそが彼らの最大の敵だと気がついたとしたら。

都市部の集団心理を手中にするために暗黒王として幼少よりラナ家に飼いならされたであろうギャネンドラを選出したとしたら。

真相は闇の中だが、結果的にビレンドラが王でいる限りはテロ組織にすぎなかったマオイストは、ギャネンドラという暴君が横暴を振るったことにより今まで支持を得る事ができなかった都市部や政界と連携することが可能になった。

その結果、いまやネパールの第一党となり、王制そのものを廃止に追い込み政治の仕組みを根底から覆すことをも可能にしたのだ。

武力闘争を是とする共産組織が都市部の知識層にこれほどスムーズに受け入れられたことがあっただろうか。


僕は正義とか悪には関心がないが、嘘と芝居にはやたらと敏感だ。

そして結果には誰よりもこだわる。

彼らが何者でどこに向かって行くのか。何をもたらし何を破壊していくのか。今後の激動の中央アジアで何を演じていくのか、注意深く見極めていきたいと思う。




話を戻します。

1990年代後半に勢力を拡大したマオイストたちは2001年に人民解放軍を正式に発足し、中央人民政府を名乗る。

しかし、農村部、山間部の貧民の支持は得たものの、彼らは都市部での支持は得られなかった。

なぜなら、現政府はまがいなりにも1990年の民主化運動で樹立した選挙に寄る民主的な政権であり、国王ビレンドラは父親の路線を覆し絶対君主制に終止符を打った有能な王だったから。

その結果として成立した政権が能無しでも、再び汚職にまみれた貴族政治がはびころうとも、民衆のために自らの利権をなげうった王を批判できるものは、今日を生きるのにも苦労する農村部の貧民以外にはいなかった。

そんな中、ある事件が起きる。

2001年6月1日。

王族の晩餐会で銃の乱射事件がおき、ビレンドラ国王夫妻と王の妹や弟ら9人が射殺される。

事件をおこしたとされるビレンドラ王の息子ディペンドラ王太子は、事件後自殺したと発表されているが、その弾丸は背中から打ち込まれている。

また、王族が全員出席したその晩餐会で、ビレンドラ王の弟のギャネンドラだけが欠席しており、事件後、王位継承者がことごとく死んだため、一人生き残ったギャネンドラが王位につくこととなる。

出席していた王族の中でも、ギャネンドラの息子パラスは無傷、ギャネンドラの妻も足を負傷したのみであった。

公式の発表では、ビレンドラ王の王妃はラナ家と敵対関係にある家系の出身であり、ディペンドラ王太子は交際相手であったデブヤニ・ラナとの結婚を反対されたために乱心したということになっている。

また、晩餐会の周辺を警備していたはずの国軍はその物音に気がつかなかったという。なんじゃそりゃ。

この限りなく黒に近いというか完全に真っ黒な事件の後、王位についた暗黒王ギャネンドラは矢継ぎ早に前世紀的な政策をとる。

まず実権を掌握する国軍を操り内線を拡大、その結果国土は政府支配地域とマオイスト支配地域に分断される。

2002年、マオイストの制圧が進まないことを理由に議会を停止。非常事態宣言を発令して親しい人間による内閣を組閣。父マヘンドラに見習い再び国王によるクーデターをおこす。

2004年に元の首相デウパを任命するものの、2005年には再び議会・内閣を停止。絶対君主制を導入し戒厳令を敷く。

これらの横暴を目の当たりにした議会派は連合し、2005年末、マオイストと和解しギャネンドラ国王に対する共闘を始める。

これにより2006年4月には、ギャネンドラ王が直接統治の断念と議会の復活を発表。この事実上の敗北宣言により再び民主政権が誕生しマオイストのテロ指定が解除される。

その後5月には王室の権威を後押しするヒンドゥー教の国教廃止。政教を分離。

2007年1月には暫定憲法発布。国連を受け入れ12月には連邦共和制になる旨の憲法改正案を承認。

2008年5月、連邦民主共和制の国家として、240年間続いた王制を廃止。ギャネンドラ国王退位。

この7月には正式名称をネパール連邦民主共和国に改めている。





と、長い前置きはここまで。

1991年には30年ぶりの選挙が行われ、新首相には30年前にクーデターによりその座を追われたB.P.コイララの弟、ギリジャ・プラサド・コイララが就任した。

この民主化により、ビレンドラ王は国民の厚い信頼を得る事となる。

が、その一方で、民主化の後も改善される事の無い貧民の鬱積は、新しい動きへと繋がって行く。

どこの国でも左派政権が誕生するとしばらくしてから極左勢力が勢いづくのは、左派政治家には能無しが多いからそれに絶望した民衆が暴力的解決手段に走るというロジックで、これは万国共通かつ不動ですね。

1996年になるとネパール共産党毛沢東主義派と呼ばれる一派が、山間部、農村部を中心にネパール各地でゲリラ戦を始める。いわゆるネパール内戦である。


ところで毛沢東主義って何でしょうか。英語だとマオイズムとかマオイストとか。

超簡潔かつテキトーに説明すると、マルクス主義をその地域の特性に合わせたやり方で押し進めることらしい。

個人的には、実績を伴わない玉虫色の理想とスパイス的な扇情文句で大衆を踊らせながらその裏で恐怖政治的な権力維持機構を機能させて強固な独裁体制を作り上げることを繰り返すことで永久に自身を批判させない保身の仕組みをつくる事だと思ってますが。

。。毛沢東がやったことってそういう事ですよね。あー、つまり中国の特性に合わせた結果そうなったという理論なんですかね。

黄河文明史上3人目の平民から皇帝に登り詰めた男の人物批評はともあれ、そういう曖昧な自己肯定的な主義主張なので大抵悪い方に転がって実践される。

典型的な例はカンボジアのポル・ポトやペルーのセンデロ・ルミノソとかですね。

僕は結果から物事を判断する事が多いので、この考え方は暴力的な組織が自己を肯定するというか開き直るのに便利な思想らしいとしか認識していなかったんだけど、ネパールにおいてはちょっと事情が違ったみたいです。

カースト制が生活習慣に根強く残り、男尊女卑の気質も強いこの地域において、男女と身分の平等という民主主義の基本を本気で実践したのはマオイストだけだったらしい。






第二次世界大戦後、アジア地域の独立・民主化の気運の中で、第8代国王のトリブバン王は1950年にインドに亡命。翌1951年に帰国し復位すると立憲君主制を宣言。これにより104年に渡るラナ家の独裁統治が終わる。

トリブバン王は子や孫を引き連れて亡命したが、この空白の1年間、ラナ家は残された孫のギャネンドラを傀儡として国王に即位させようとした。この事は後の事件の布石となっている。

1955年にトリブバン王が死去すると第9代国王に長男のマヘンドラが即位する。マヘンドラ王は1959年に憲法を公布して総選挙を実施するが、左派政党のネパール会議派が政権につく。

急進的な改革を押し進めようとする左派内閣に対して、100年に渡るラナ家の呪縛からようやく手にした権力を維持したいマヘンドラ王は1960年、憲法を停止して議会を解散、政党指導者らを逮捕するという、国王によるクーデターをおこす。

クーデターにより専制君主となったマヘンドラ王は1962年、政党の禁止やパンチャヤット制度と呼ばれる複雑な間接民主制を盛り込んだ新憲法を公布。これにより、自らの政治権力を揺るぎないものとする。

1972年にマヘンドラ王は死去。新しく国王となった長男の第10代国王ビレンドラ王は1990年、国外の民主化運動に刺激をうけたジャナ・アンドランと呼ばれる民主化運動の高まりをうけ、複数政党による議会政治を認める立憲君主制の新憲法を公布する。