働き蟻だと思ったら、シロアリだった。

最近、そんな比喩を聞いた。

最初は少し笑ってしまったが、よく考えると、これはかなり怖い言葉である。職場には、外から見るとよく働いているように見える人がいる。いつも忙しそうにしている。会議にも出る。発言も多い。メールも多い。何か問題が起きると、真っ先に動いているようにも見える。

だから周囲は、最初その人を「働き蟻」だと思う。

組織のために動いている人。現場を支えている人。責任感が強い人。少し口は強いけれど、まあ仕事熱心な人。

しかし、時間が経つにつれて、少しずつ違和感が出てくる。

その人が関わると、人間関係が悪くなる。誰かが萎縮する。本来なら簡単に済む話が、妙に複雑になる。ミスの原因がはっきりしないまま、誰かに責任が押しつけられる。表面上は仕事が進んでいるように見えるのに、職場全体の空気は重くなっていく。

ここで初めて気づく。

この人は働き蟻ではなかったのかもしれない。むしろ、シロアリだったのではないか、と。

シロアリの怖さは、普段その姿が見えないところにある。シロアリは表に出てこない。木材の内部や、壁の中や、床下の見えない場所を動き回る。だから家は、外からは普通に建っているように見える。壁もある。柱もある。外観は崩れていない。ところが、見えないところで土台が少しずつ食い荒らされている。気づいた時には、構造そのものが弱くなっている。

職場も同じなのかもしれない。

組織を壊す人は、必ずしも怠け者とは限らない。むしろ、よく動く人の中にもいる。問題は、動いているかどうかではない。その動きが、組織の信頼を強くしているのか、それとも内側から弱らせているのかである。

たくさん働いているように見えても、その結果として周囲の人が疲弊し、責任を取りたがらなくなり、正直な報告を避けるようになり、誰も本音を言わなくなるなら、それは貢献ではない。むしろ、組織の土台を少しずつ壊している。

しかも、こういう人ほど自分では「自分が一番会社のためにやっている」と思っていることがある。そこがまた厄介である。本人に悪意があるとは限らない。だが、悪意がないから無害だとは言えない。シロアリも、家を壊そうと思っているわけではない。ただ、自分の性質のままに動いているだけで、結果として家を壊してしまう。

職場で本当に大切なのは、忙しく見えることではない。声が大きいことでもない。誰よりも長く働くことでもない。

その人がいることで、周囲が安心して働けるか。問題が起きた時に、事実がきちんと見えるか。人が育つか。信頼が増えるか。職場の土台が少しでも強くなるか。

そこを見なければいけないのだと思う。

働き蟻とシロアリは、遠くから見ると区別がつかないかもしれない。どちらも小さく、姿かたちもよく似ている。だから、しばしば見誤る。だが、していることはまったく違う。

一方は巣を支え、もう一方は柱を食べる。

職場でも、ただ「よく動いている人」を評価するだけでは危ない。大事なのは、その人の動きが何を生んでいるのかを見ることだと思う。

働いているように見えることと、組織に貢献していることは、必ずしも同じではない。

時には、働き蟻に見えた人が、実はシロアリだったということもある。
弱者を守る国と、変わらない人を守る国は違う

日本では、何かをデジタル化しようとすると、必ず同じような声が出てくる。

高齢者が使えない。
パソコンが苦手な人もいる。
紙の方が安心だ。
急に変えると混乱する。

一見すると、これは優しい意見に見える。誰かを置き去りにしないための配慮に聞こえる。しかし、本当にそうなのだろうか。

私は最近、この言い方にかなり違和感を持つようになった。

もちろん、本当に支援が必要な人はいる。障害がある人、経済的に機器を持てない人、病気や認知機能の問題で操作が難しい人。そういう人を社会が支えるのは当然だと思う。

しかし、日本でよく見られるのは、そうした本当の弱者への支援とは少し違う。

「できない人を助ける」のではなく、「変わらない人に社会全体を合わせる」方向へ行ってしまう。

ここが問題なのだ。

たとえば、手続きのデジタル化を進めるとする。本来なら、オンライン申請を標準にし、どうしても難しい人には窓口やサポートを用意すればいい。紙が必要な人には紙の選択肢を残せばいい。

ところが日本では、最初から紙を標準に残す。FAXも残す。電話確認も残す。ハンコもなかなか消えない。

その理由として「使えない人がいるから」と説明される。

しかし、それは本当に理由なのだろうか。むしろ言い訳ではないのか。

人間は、必要になればかなりのことに適応する。年齢だけで「できる」「できない」が決まるわけではない。高齢でもスマホを使いこなし、ネットで買い物をし、銀行アプリを使い、オンラインで学んでいる人はいくらでもいる。逆に、若くても覚える気がなければ何もできない。

つまり問題は年齢ではない。能力でもない。変われるかどうかだ。

ただ、ここで個人を責めたいのではない。変われるかどうかは、本人の気持ちだけで決まるものではないからだ。学べる場所があるか、教えてくれる人がいるか、変えた先がちゃんと便利になっているか。そうした環境こそが、人の意思を作る。

だからこそ、社会がどちらを標準に置くかが効いてくる。

新しいやり方を標準にすれば、人はそこに合わせて適応していく。古いやり方を標準のまま残せば、適応する理由そのものが消える。

日本の問題は、後者を選び続けていることだ。本人が動く前に、周囲が先回りして古い仕組みを残してしまう。その結果、変われる人まで古い仕組みに付き合わされる。

たとえば、私自身がこんな経験をした。日本で税務申告をしたときのことだ。送られてきた申告書をわざわざ印刷し、手で署名し、それを海の向こうの日本まで郵送しなければならなかった。

アメリカなら、DocuSignのような電子署名がある。署名も提出も、画面の中で終わる。そんな手順は、そもそも踏まない。

同じ「申告する」という行為が、一方では数分で完結し、もう一方では印刷と郵送と時差を挟む。便利だから紙を選んでいるのではない。やめないまま、ここまで来てしまっただけだ。

そして、これは私一人の話ではない。

デジタルで済むはずの手続きに紙が必要になる。
オンラインで完結するはずの作業に郵送が入る。
メールで済む話に電話が挟まる。
データで共有できるものを印刷して保管する。

一つひとつは小さなことに見える。しかし、それが社会全体に積み重なると、膨大な時間と人手の浪費になる。

そして、これはデジタル化だけの話ではない。同じ構造が、社会のあちこちで効いている。雇用では、既得権を持つ層を守るために、しわ寄せが若者や非正規へ回る。企業では、本来退出すべき会社が延命され、そこに人と資本が縛りつけられる。もっと伸びる場所へ動くはずだったものが、動かないまま固定される。守る相手を取り違えるたびに、社会の新陳代謝が止まっていく。デジタル化は、その一番見えやすい入口にすぎない。

もちろん、こう反論する人もいるだろう。日本のデジタル化だって、実際うまくいっていないではないか、と。

たしかに、その通りだ。マイナンバーはその典型だろう。導入のたびに不具合が報じられ、別人の情報が紐づけられたり、保険証との一体化で現場が混乱したりした。これでは慎重になるのも無理はない、という気持ちはよくわかる。

私自身、マイナンバーには別の形で突き当たっている。私は制度が始まる前から海外に住んでいる。だから、そもそも番号を割り振られていない。

2024年に、海外在住者もカードを使えるよう制度が改められた。だが、その対象は2015年10月5日以降に国外へ転出した人に限られる。それより前から海外にいる私のような人間は、いまだに制度の外だ。番号がないのだから、転出すらできない。番号を手にする唯一の道は、いったん日本に帰り、役所で住民票を作り直すことだという。

だが、住民票とは本来、そこに住んでいることを示す記録だ。住んでもいないのに住民票を作るのはおかしい。それでも制度は、そのおかしさの側に人を立たせる。番号ひとつのために、暮らしごと日本へ戻せ、と言っているに等しいからだ。

同じ日本人なのに、ある時期に日本にいなかったというだけで、国の基幹システムから丸ごと抜け落ちる。そして、そこへ戻る入口は、いちばんアナログな「窓口に並ぶこと」しかない。

しかし、この話が示しているのは「デジタル化は危ないからやめろ」ではない。「よく考えずに作ったから、まるごと抜け落ちた人たちがいる」ということだ。現に、転出者向けの仕組みは2024年に作れた。やろうと思えばできる。残りをやっていないだけだ。

雑に作ったことは、紙に戻る理由にはならない。作りが雑だったのなら、ちゃんと作り直せばいい。それを、立ち止まる口実にしてはいけない。

そして今の日本には、その浪費を許す余裕がもうない。

人口は減っている。現役世代も減っている。地方では人手不足が当たり前になり、医療も介護も行政も、すでに人が足りない。

しかも、ここには悪い循環がある。社会が縮むほど、古い仕組みを抱え続ける負担は重くなる。負担が重くなれば、変えるための余力はさらに失われる。「変われない社会」と「人が足りない社会」が、互いを悪化させていく。

そんな中で、いまだに紙を前提にし、対面を前提にし、電話を前提にしていたら、回るはずがない。

これは単なる不便の話ではない。国力の話だ。

社会の標準を新しい方へ移せない国は、生産性を上げられない。生産性が上がらなければ、賃金も上がりにくい。賃金が上がらなければ、若い世代は希望を持てない。

そして、その間に隣はとっくに先へ進んでいた。OECDの平均賃金で韓国が日本を上回ったのは2014年で、2022年には日本のおよそ1.2倍にまでなっている。一人当たりGDPでも、購買力ベースでは台湾も韓国も以前から日本を抜き、近年は円安も重なって名目でも日本を上回った。30年前には考えられなかったことだ。彼らの成長の理由は、半導体や輸出など一つではない。すべてを単一の原因に還元はできない。それでも、日本だけが賃金も仕組みもほぼ据え置いたまま止まっていた、という事実は動かない。

「失われた30年」と呼ばれるものの正体の一つは、たぶんここにある。変えられたはずのものを、変えずに過ごした時間の蓄積だ。

結局、「変わらない人」に社会を合わせ続けるコストは、現役世代と若い世代に回ってくる。

税金として。
社会保険料として。
低賃金として。
長時間労働として。
将来不安として。

ここを曖昧にしてはいけないと思う。

弱者を守ることは大事だ。これは否定しない。

しかし、弱者を守ることと、変わらない人を甘やかすことは違う。

本当に困っている人には支援を出せばいい。教えればいい。窓口を残せばいい。補助をつければいい。

だが、それはあくまで例外措置であるべきだ。社会の標準は、前に進めなければならない。

日本はこの順番を間違えている。

デジタルを標準にして、紙を選択肢にするのではなく、紙を標準にして、デジタルを追加機能のように扱っている。だからいつまでたっても中途半端になる。

これは優しさではない。停滞だ。

しかも、その停滞を「配慮」というきれいな言葉で包んでしまうから、ますます問題が見えにくくなる。

本当に必要なのは、全員を古い場所に留めることではない。前に進む社会の中で、どうしても難しい人を支える仕組みを作ることだ。変われる人まで止める必要はない。

適応しようとする人の足を、適応する気のない人が引っ張る。そんな社会にしてはいけない。

日本が守るべきなのは弱者であって、変化を拒む姿勢そのものではない。

そこを取り違えたまま古い標準にしがみつけば、割を食うのは弱者ではない。いつも、これからを生きる世代である。
きれいすぎる食卓

日本に帰るたび、少し戸惑うことがある。

コンビニに並ぶ食べ物が、どれも綺麗すぎるのだ。

パンはふわふわで、弁当は色鮮やか。スイーツは数日経っても形が崩れず、飲み物は驚くほど鮮やかな色をしている。

もちろん、日本のコンビニ文化そのものを否定するつもりはない。24時間、どこでも、一定品質の食べ物が手に入る社会は、世界的に見てもかなり特殊で便利だと思う。

ただ、私は原材料表示を見るたび、少し身構えてしまう。

カタカナで並ぶ添加物名。保存料、乳化剤、着色料、香料、pH調整剤。

私は専門家ではないので、「危険だ」と断定するつもりはない。日本では使用できる添加物は許可制であり、基準も存在している。

それでも、なぜかアメリカの方が食べ物を安心して選べる感覚がある。

最初は不思議だった。アメリカの方がジャンクフードの国というイメージがあるからだ。

だが、最近になって気づいた。違いは、「食品そのもの」より、「表示文化」にあるのではないかと。

アメリカのスーパーでは、商品にこうした言葉が並ぶ。

"No Artificial Colors"
"No Preservatives"
"Organic"
"Non-GMO"
"Minimally Processed"

つまり、「何を避けたいか」を消費者自身が選びやすい。

だが、ここに少し皮肉な事実がある。日本は「添加物大国」というイメージがあるが、それは必ずしも正確ではない。認可されている添加物の品目数でいえば、アメリカは日本のおよそ2倍に上るという調査もある。ただし各国で定義や分類の仕方が異なるため、単純な数字だけで優劣を語ることは難しい。

アメリカの食品が添加物の面で日本より「安全」だから選びやすいわけではない。違いは添加物の量ではなく、消費者への見せ方にある。

アメリカには、健康や原材料を気にする消費者向けの商品がわかりやすく棚に並んでいる。「これは避けよう」「これは比較的安心そうだ」と、自分で判断しやすい売り場がある。

一方、日本は少し違う。「国が許可したものだから安心」という前提が強い社会だと思う。そのためか、「何が入っていないか」を積極的に示す文化が、アメリカほど強くない。

たとえば、「保存料不使用」と書かれていても、別の添加物で品質維持をしているケースもある。法律上問題はない。だが消費者側からすると、「結局どこまで自然なのか」が見えにくい。

添加物だけではない。

2013年には、阪急阪神ホテルズをはじめ多くの有名ホテルや百貨店のレストランで、メニューに記載した食材と実際に使った食材が異なっていたことが次々と発覚した。そして2022年には、「熊本産」として市場に流通していたアサリのうち、農林水産省のDNA鑑定で97%が外国産の可能性が高いと判明した事件が大きく報道された。中国産や韓国産のアサリを短期間だけ日本の干潟で蓄養し、国産として出荷するという手口が、長年にわたって繰り返されていたのだ。

氷山の一角だという声もある。

ここで私が感じる違和感の正体が、少し見えてくる気がする。

日本には「透明性」の文化があるというより、「清潔感」の文化があるのではないかと思う。だが、中身はまるで違う。清潔感は見た目の話だ。整然としていて、丁寧で、エラーが少ない。日本はここが圧倒的に優れている。しかし透明性とは、内部で何が起きているかをオープンにすることだ。「国が許可しているから安心」という前提は、そのシステム自体が透明でなければ、信頼の根拠にはならない。

私は時々、日本のコンビニで外国人観光客が色鮮やかな飲み物や加工食品を楽しそうに買っている姿を見ると、少し複雑な気持ちになる。おそらく多くの人は、「日本の食品だから安心」と思っている。日本には「清潔」「安全」というイメージがあるからだ。そのイメージは完全に間違いではない。しかし、表示と実態の間に生じてきた数々の乖離を知ると、手放しには頷けない。

問題は、「危険か安全か」を白黒で決めることではない。

本当に必要なのは、「選ぶための透明性」なのだと思う。

健康を気にする人。添加物を避けたい人。子どもにできるだけ自然なものを食べさせたい人。そういう人たちが、一目で判断できる表示が、日本にはまだ少ないように感じる。

便利さ。価格。味。

日本の食品は、そのどれも世界トップレベルだと思う。

だからこそ次の段階として、「何を避けたい人向けなのか」がもっと見える社会になれば、日本の食品文化はさらに信頼されるのではないだろうか。
もったいないの国で、なぜ食べ残しを持ち帰らないのか

日本のレストランで食事をしていて、料理が少し残ることがある。

そのとき、いつも少し不思議に思う。日本には「もったいない」という言葉がある。食べ物を粗末にしない、出されたものはできるだけ残さない。そういう感覚は、かなり深く根づいているはずである。

それなのに、レストランで食べ残した料理を持ち帰るという習慣は、あまり広がっていない。

数字で見ると、その深刻さがよくわかる。2023年度のデータによれば、外食産業から発生する食品ロスは年間66万トンにのぼる。そのうち約半分は、客の食べ残しによるものとされている。家庭での「もったいない」意識がいかに強くても、外食の場ではその意識が行動につながっていない。

アメリカでは、これはかなり普通のことである。食べきれなければ箱に入れて持ち帰る。もちろん食べ放題の店では禁止されることが多いが、普通のレストランでは特別なことではない。

では、他の国はどうなのか。

フランスでは、食べ残しの持ち帰りはすでに「制度」の段階を超えている。2021年7月、EGALIM法(反廃棄物法)によって、飲食店は顧客が希望した場合に持ち帰り用の容器を無料で提供することが法律で義務付けられた。スペインでも同様の法律が整備され、2026年4月に完全施行された。全レストランとカフェに対して、顧客の求めに応じて無料の容器を提供することが法的に求められている。イタリアでも、かつては恥ずかしいという感覚があったようだが、食品ロス対策として考え方が変わりつつある。

つまり、ヨーロッパでは食べ残しの持ち帰りは「行儀の悪いこと」ではなく、「食品ロスを減らす行動」として法律の対象になるまでに再定義されている。

ここで重要なのは、「言葉の再定義」という点だと思う。

フランスでは、"doggy bag"という響きが「ケチ」や「みっともない」という印象を与えるとして、業界団体が"le gourmet bag(グルメバッグ)"という名称を推奨した。言葉を変えることで、行動の心理的なハードルを下げようとした試みである。日本でも、環境省が「mottECO(もってこ)」という名称をコンテストで選んだのは、同じ発想に基づいている。「もっとエコ」「持って帰ろう」というメッセージを込めた、日本語として自然な言葉である。持ち帰りの文化を広めるには、制度だけでなく、言葉から変えていく必要があるということだ。

日本でも、国が何もしていないわけではない。

環境省のmottECOに加え、2024年12月には消費者庁と厚生労働省が「食べ残し持ち帰り促進ガイドライン」を策定している。環境省は2026年4月に、外食事業者や自治体向けの「mottECO導入の手引き」も公表している。

この手引きでは、事業者側には衛生面の注意喚起、清潔な容器や器具の提供、持ち帰りに適した食品かどうかの判断などが求められている。重要なのは「適した食品かどうか」という部分で、生魚や加熱が不十分なもの、長時間常温に置かれたものは持ち帰りの対象外とするのが原則だ。何でも持ち帰ってよいわけではない、という線引きが明示されたことは、店側にとっても「断る理由」が明確になったという意味で前進だと思う。持ち帰った後の食品管理は基本的に消費者側にある、という考え方も示されている。

方向性としては、かなり現実的だと思う。

ただ、問題はその考え方が国民に十分浸透していないことではないか。

ある民間企業の調査では、持ち帰り用の容器が用意されている場合に「利用したい」と答えた人は全体の約8割にのぼった。一方、飲食店側に持ち帰りサービスを実施していない理由を聞くと、「衛生上の懸念」が8割超を占めた。客側には意欲があり、店側には不安がある。この構造は、フランスで調査された「75%の人がドギーバッグに賛成しているのに、70%は一度も使ったことがない」という結果と重なる。意識と行動の間にある溝は、日本だけの問題ではない。

では、なぜ「もったいない」の感覚が外食の場では止まってしまうのか。

理由の一つは、日本の外食文化に根ざした「店への遠慮」だと思う。料理は店が出すもの、という受け身の意識が強く、食べ残した料理を自分で持ち帰ることに、なんとなく「図々しい」感覚がある。特に会席料理や懐石など格式のある店では、料理を持ち出すこと自体が失礼にあたるという慣習もある。さらに、持ち帰った後に食中毒になることへの漠然とした不安も、客側の行動を抑えている。店の責任への不安と客の遠慮が、互いに引き合って、文化が動かない状態になっているのだ。

国がもっと強く伝えるべきなのは、単に「持ち帰りましょう」ではないと思う。まず食べきれる量を注文することが前提で、それでも残った場合に自己責任で持ち帰る。持ち帰ったものは早く食べる。店は衛生上問題があるものは断ってよく、客はそれを当然のこととして受け入れる。この流れを国がもっとわかりやすく示せば、店も客も動きやすくなる。

そのためには、持ち帰り用の箱を有料にするのも一つの方法だと思う。

無料で箱を出すと、人は無意識に「残しても持ち帰ればいい」と考えやすい。でも、箱が有料であれば、まず食べきれる量を注文しようと考える。それでも残った場合だけ、数十円を払って持ち帰る。この仕組みなら、持ち帰りは「残してもよい」という甘えではなく、食品ロスを減らすための最後の選択肢になる。

日本には「もったいない」という言葉がある。ただ、その言葉は家庭の中では強く働くのに、外食の場面ではなぜか止まってしまう。

国が本気で食品ロスを減らしたいなら、mottECOを単なるキャンペーンで終わらせるのではなく、もっと日常の言葉にしていく必要がある。

「食べきることが基本。残ったら、自己責任で持ち帰る。」

この考え方が普通になれば、日本の「もったいない」は、もう少し現実の行動に近づくのではないかと思う。
韓国ドラマの主人公は、なぜ「現代の顔」になったのか

私は韓国ドラマを熱心に見ているわけではない。Netflixなどで流れてくる予告編を数秒見る。その程度である。だから、韓国ドラマ全体を語るつもりはない。

ただ、その数秒の予告だけでも、以前とは少し空気が変わったように感じることがある。

昔の韓国ドラマには、いかにも「ドラマの中の人」という主人公が多かった。髪型、服装、表情、立ち居振る舞いまで作り込まれていた。財閥、御曹司、完璧な恋人、運命の再会。そういう世界では、登場人物もまた、現実から少し離れた理想像であることが求められた。

ところが最近の予告では、主人公の印象が少し違う。鑑賞されるために磨き込まれた人物というより、今の社会のどこかに実際にいそうな人が前に出ている。疲れている人、追い詰められている人、仕事や家族やお金の問題を抱えている人。顔立ちそのものよりも、その人が背負っているものの方が先に見える。

これは、韓国人の美意識が変わったという話ではない。韓国社会では今も、美容、ファッション、アイドル的な完成度への関心は強い。その圧力はむしろ残り続けている。変わったのは、ドラマが主人公に求める役割の方である。

かつての韓国ドラマは、韓国的な理想を外へ見せる力が強かった。整った恋愛、整った人物、整った世界観。それはそれで一つの様式だった。だが、配信サービスによって、韓国ドラマは国内テレビの枠を大きく超えた。日本、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア、南米の視聴者が、同じ作品を同時に見るようになる。

そこで強くなったのは、理想化された人物よりも、物語の中で本当に生きているように見える人物だった。

ただし、これはNetflixが突然もたらした変化ではない。韓国の国内ドラマには、それ以前から会社員の閉塞感や、格差、孤独、社会不信を正面から描く作品があった。配信が世界へ広げたのは、もともと国内にあったその流れの方だった。

その象徴が『イカゲーム』である。2021年に世界的な現象となり、2025年に完結したこの作品は、韓国ドラマが恋愛や美男美女の世界でなくても世界市場で勝てることを、誰の目にもわかる形で示した。

あの作品にあったのは、きれいな恋愛ではない。借金、格差、競争、家族、そして敗者復活のなさである。登場人物たちは、憧れの対象というより、現代社会の不安を背負った人間として立っていた。

そこが世界に届いた。

ここから見えてくるのは、主役像の変化である。昔は、主人公が視聴者の憧れる人物であることが重要だった。今は、その人物の置かれた状況を視聴者が信じられるかどうかが重要になっている。

貧困を描くなら、生活の匂いがいる。会社員の疲れを描くなら、顔や姿勢に少し重さがあった方がいい。地方、受験、就職難、老い、格差を描くのに、あまりに完璧に整った人物ばかりでは、かえって物語が軽く見えてしまう。

つまり最近の韓国ドラマは、主人公を「きれいに見せる」よりも、「その社会の中で本当に生きているように見せる」方へ動いている。

これは美意識の後退ではない。ドラマが扱うテーマが広がった結果である。恋愛だけでなく、労働、家族、孤独、格差、暴力、競争社会を描くようになれば、主人公に求められるものも変わる。完成された美しさではなく、その人物の人生がにじむこと。そちらが先に立つ。

もちろん、韓国ドラマがすべてそうなったわけではない。恋愛ドラマやアイドル色の強い作品では、今でも従来型の華やかな主人公が前面に出る。だから、数秒の予告だけで大きく断定はできない。

それでも、世界的に注目される韓国ドラマの中心が、かつての「理想化された恋愛」から、「現代社会を映す物語」へ移ってきたことは感じられる。

昔の韓国ドラマは、現実から少し離れた場所にあった。

今の韓国ドラマは、もう少し現実の方へ近づいている。

その変化が、予告編を数秒見ただけでも伝わってくるのかもしれない。