弱者を守る国と、変わらない人を守る国は違う
日本では、何かをデジタル化しようとすると、必ず同じような声が出てくる。
高齢者が使えない。
パソコンが苦手な人もいる。
紙の方が安心だ。
急に変えると混乱する。
一見すると、これは優しい意見に見える。誰かを置き去りにしないための配慮に聞こえる。しかし、本当にそうなのだろうか。
私は最近、この言い方にかなり違和感を持つようになった。
もちろん、本当に支援が必要な人はいる。障害がある人、経済的に機器を持てない人、病気や認知機能の問題で操作が難しい人。そういう人を社会が支えるのは当然だと思う。
しかし、日本でよく見られるのは、そうした本当の弱者への支援とは少し違う。
「できない人を助ける」のではなく、「変わらない人に社会全体を合わせる」方向へ行ってしまう。
ここが問題なのだ。
たとえば、手続きのデジタル化を進めるとする。本来なら、オンライン申請を標準にし、どうしても難しい人には窓口やサポートを用意すればいい。紙が必要な人には紙の選択肢を残せばいい。
ところが日本では、最初から紙を標準に残す。FAXも残す。電話確認も残す。ハンコもなかなか消えない。
その理由として「使えない人がいるから」と説明される。
しかし、それは本当に理由なのだろうか。むしろ言い訳ではないのか。
人間は、必要になればかなりのことに適応する。年齢だけで「できる」「できない」が決まるわけではない。高齢でもスマホを使いこなし、ネットで買い物をし、銀行アプリを使い、オンラインで学んでいる人はいくらでもいる。逆に、若くても覚える気がなければ何もできない。
つまり問題は年齢ではない。能力でもない。変われるかどうかだ。
ただ、ここで個人を責めたいのではない。変われるかどうかは、本人の気持ちだけで決まるものではないからだ。学べる場所があるか、教えてくれる人がいるか、変えた先がちゃんと便利になっているか。そうした環境こそが、人の意思を作る。
だからこそ、社会がどちらを標準に置くかが効いてくる。
新しいやり方を標準にすれば、人はそこに合わせて適応していく。古いやり方を標準のまま残せば、適応する理由そのものが消える。
日本の問題は、後者を選び続けていることだ。本人が動く前に、周囲が先回りして古い仕組みを残してしまう。その結果、変われる人まで古い仕組みに付き合わされる。
たとえば、私自身がこんな経験をした。日本で税務申告をしたときのことだ。送られてきた申告書をわざわざ印刷し、手で署名し、それを海の向こうの日本まで郵送しなければならなかった。
アメリカなら、DocuSignのような電子署名がある。署名も提出も、画面の中で終わる。そんな手順は、そもそも踏まない。
同じ「申告する」という行為が、一方では数分で完結し、もう一方では印刷と郵送と時差を挟む。便利だから紙を選んでいるのではない。やめないまま、ここまで来てしまっただけだ。
そして、これは私一人の話ではない。
デジタルで済むはずの手続きに紙が必要になる。
オンラインで完結するはずの作業に郵送が入る。
メールで済む話に電話が挟まる。
データで共有できるものを印刷して保管する。
一つひとつは小さなことに見える。しかし、それが社会全体に積み重なると、膨大な時間と人手の浪費になる。
そして、これはデジタル化だけの話ではない。同じ構造が、社会のあちこちで効いている。雇用では、既得権を持つ層を守るために、しわ寄せが若者や非正規へ回る。企業では、本来退出すべき会社が延命され、そこに人と資本が縛りつけられる。もっと伸びる場所へ動くはずだったものが、動かないまま固定される。守る相手を取り違えるたびに、社会の新陳代謝が止まっていく。デジタル化は、その一番見えやすい入口にすぎない。
もちろん、こう反論する人もいるだろう。日本のデジタル化だって、実際うまくいっていないではないか、と。
たしかに、その通りだ。マイナンバーはその典型だろう。導入のたびに不具合が報じられ、別人の情報が紐づけられたり、保険証との一体化で現場が混乱したりした。これでは慎重になるのも無理はない、という気持ちはよくわかる。
私自身、マイナンバーには別の形で突き当たっている。私は制度が始まる前から海外に住んでいる。だから、そもそも番号を割り振られていない。
2024年に、海外在住者もカードを使えるよう制度が改められた。だが、その対象は2015年10月5日以降に国外へ転出した人に限られる。それより前から海外にいる私のような人間は、いまだに制度の外だ。番号がないのだから、転出すらできない。番号を手にする唯一の道は、いったん日本に帰り、役所で住民票を作り直すことだという。
だが、住民票とは本来、そこに住んでいることを示す記録だ。住んでもいないのに住民票を作るのはおかしい。それでも制度は、そのおかしさの側に人を立たせる。番号ひとつのために、暮らしごと日本へ戻せ、と言っているに等しいからだ。
同じ日本人なのに、ある時期に日本にいなかったというだけで、国の基幹システムから丸ごと抜け落ちる。そして、そこへ戻る入口は、いちばんアナログな「窓口に並ぶこと」しかない。
しかし、この話が示しているのは「デジタル化は危ないからやめろ」ではない。「よく考えずに作ったから、まるごと抜け落ちた人たちがいる」ということだ。現に、転出者向けの仕組みは2024年に作れた。やろうと思えばできる。残りをやっていないだけだ。
雑に作ったことは、紙に戻る理由にはならない。作りが雑だったのなら、ちゃんと作り直せばいい。それを、立ち止まる口実にしてはいけない。
そして今の日本には、その浪費を許す余裕がもうない。
人口は減っている。現役世代も減っている。地方では人手不足が当たり前になり、医療も介護も行政も、すでに人が足りない。
しかも、ここには悪い循環がある。社会が縮むほど、古い仕組みを抱え続ける負担は重くなる。負担が重くなれば、変えるための余力はさらに失われる。「変われない社会」と「人が足りない社会」が、互いを悪化させていく。
そんな中で、いまだに紙を前提にし、対面を前提にし、電話を前提にしていたら、回るはずがない。
これは単なる不便の話ではない。国力の話だ。
社会の標準を新しい方へ移せない国は、生産性を上げられない。生産性が上がらなければ、賃金も上がりにくい。賃金が上がらなければ、若い世代は希望を持てない。
そして、その間に隣はとっくに先へ進んでいた。OECDの平均賃金で韓国が日本を上回ったのは2014年で、2022年には日本のおよそ1.2倍にまでなっている。一人当たりGDPでも、購買力ベースでは台湾も韓国も以前から日本を抜き、近年は円安も重なって名目でも日本を上回った。30年前には考えられなかったことだ。彼らの成長の理由は、半導体や輸出など一つではない。すべてを単一の原因に還元はできない。それでも、日本だけが賃金も仕組みもほぼ据え置いたまま止まっていた、という事実は動かない。
「失われた30年」と呼ばれるものの正体の一つは、たぶんここにある。変えられたはずのものを、変えずに過ごした時間の蓄積だ。
結局、「変わらない人」に社会を合わせ続けるコストは、現役世代と若い世代に回ってくる。
税金として。
社会保険料として。
低賃金として。
長時間労働として。
将来不安として。
ここを曖昧にしてはいけないと思う。
弱者を守ることは大事だ。これは否定しない。
しかし、弱者を守ることと、変わらない人を甘やかすことは違う。
本当に困っている人には支援を出せばいい。教えればいい。窓口を残せばいい。補助をつければいい。
だが、それはあくまで例外措置であるべきだ。社会の標準は、前に進めなければならない。
日本はこの順番を間違えている。
デジタルを標準にして、紙を選択肢にするのではなく、紙を標準にして、デジタルを追加機能のように扱っている。だからいつまでたっても中途半端になる。
これは優しさではない。停滞だ。
しかも、その停滞を「配慮」というきれいな言葉で包んでしまうから、ますます問題が見えにくくなる。
本当に必要なのは、全員を古い場所に留めることではない。前に進む社会の中で、どうしても難しい人を支える仕組みを作ることだ。変われる人まで止める必要はない。
適応しようとする人の足を、適応する気のない人が引っ張る。そんな社会にしてはいけない。
日本が守るべきなのは弱者であって、変化を拒む姿勢そのものではない。
そこを取り違えたまま古い標準にしがみつけば、割を食うのは弱者ではない。いつも、これからを生きる世代である。