北九州の食文化には、五つの顔がある。

最初は単純に、「北九州は餃子が有名なんだな」と思っていた。けれども、調べれば調べるほど、この街の食文化は単なる"ご当地グルメ"では説明できないことに気づく。

北九州は、もともと一つの都市ではない。門司、小倉、八幡、戸畑、若松など、それぞれ異なる歴史を持った街が合わさってできた都市だ。

だから食文化も、一つではない。

むしろ北九州には、少なくとも「五つの食の顔」がある。

一つ目は、八幡・黒崎を中心とした「鉄と労働」の食文化。

鉄なべ餃子は、その象徴だと思う。

熱い鉄なべに、小ぶりの餃子を並べる。最後まで冷めず、酒に合う。そこには、八幡製鉄所の労働者文化が見える。

北九州の餃子は、福岡市の屋台餃子よりも、どこか硬派だ。働いた後に食べる味、酒場で食べる味、明日また働くための味という空気がある。

さらに角打ち文化も、この流れの中にある。酒屋でそのまま酒を飲む文化。工場帰りの人たちが軽く一杯やる。北九州の食文化には、"労働"の匂いが残っている。

若松と戸畑も、この系譜にある。若松は筑豊炭田の石炭を海外へ送り出す積み出し港として栄えた街だ。最盛期には日本一の石炭集積港とも呼ばれた。洞海湾を挟んで向かいに位置する戸畑は、製鉄所が区の面積の半分を占める工業地帯であり、同時に日本水産(ニッスイ)が主要拠点を置いた漁港でもある。炭鉱夫、沖仲仕、製鉄労働者、漁師。両地区に集まった人々の食は、種類こそ違えど、重労働を支えるための飯だという点では変わらない。

二つ目は、門司港の「港と洋食」の文化。

門司港焼きカレーは、北九州の中でも異質だ。

始まりは昭和30年代、栄町銀天街にあった「山田屋」という店だったとされる。余ったカレーを土鍋に注ぎ、グラタン風にオーブンで焼いたまかない料理が、客に出したところ評判を呼んだ。それが今日の焼きカレーの原型だという。山田屋はすでに閉店し、建物も残っていない。

なぜそういう発想が生まれたのか。背景には門司港の歴史がある。明治から昭和初期にかけて国際貿易港として栄えたこの街には、洋食店や喫茶店が軒を連ね、西洋と東洋が混ざり合うハイカラな食文化を育てた。そういう街だったからこそ、生まれた料理だと思う。

鉄なべ餃子が"鉄"なら、焼きカレーは"港"である。

同じ北九州でも、八幡が働く街であるのに対し、門司港は異国の風が入る街だ。その違いが、料理に出ている。

三つ目は、小倉の「交通と旅」の文化。

小倉駅7・8番ホームのかしわうどんは、その象徴かもしれない。

ホームに漂う出汁の匂い。特急ソニックを待つ時間。立ち食いの空気。あれは単なるうどんではなく、"旅の記憶"だと思う。

しかも北九州のかしわうどんは、博多うどんとも少し違う。博多の柔らかいうどんに比べると、少しコシがあり、汁も甘めだと言われる。

私はこの「甘さ」が気になった。

なぜ甘いのか。

もちろん公式に「労働者の疲労回復のため」と説明されているわけではない。しかし北九州や筑豊の歴史を見ると、そこには炭鉱や製鉄、港湾や鉄道といった重労働の文化がある。甘辛い味付けに濃い出汁と炭水化物、短時間でずっしりと満足感を与える味。好みの問題ではなく、"働く人の味"だったのではないかと思う。

さらに小倉は、九州北部で人の流れが交わる街でもある。新幹線に在来線、モノレールに高速バス。人が集まり、人が通過する。焼うどんもその一つだ。終戦直後の食糧難の中、焼そば用のそば玉が手に入らず、干しうどんで代用したのが始まりとされる。「移動する人の食」というより、「その場にあるもので作る食」から生まれた料理が、今も小倉の街に残っている。

四つ目は、関門海峡の「海の文化」。

北九州というと、工場や製鉄所の印象が強い。だが同時に、海峡都市でもある。門司にも小倉にも若松にも、魚市場と港の文化がある。ふぐや寿司、新鮮な海鮮料理の豊かさはそこから来ている。

北九州が「すしの都」を正式に名乗り始めたのは最近のことだ。2024年に官民一体の協議会が立ち上がり、2025年には全国初の「すしの都課」まで新設された。だがこれは、突然始まったものではないと思う。もともと関門海峡には、魚の文化があった。今はそれを、行政が言語化した段階なのかもしれない。

そして、この海の文化にはもう一つ面白いものがある。ぬか炊きの文化だ。

北九州では、ぬか床を家庭で持つ文化が比較的強く残っていた。そしてそれは単なるぬか漬けでは終わらない。代表的なのが「ぬか炊き」である。青魚をぬか床に漬け込んで炊き込む料理で、ぬか床が生み出す深いコクがご飯にも酒にも合う。しかも保存性が高い。港町の暮らしと保存食の知恵が重なるところから生まれた料理であり、北九州という街そのものが、この一品に出ている。

そして五つ目。折尾の「鉄道と駅弁」の文化。

東筑軒のかしわめしは、単なる駅弁ではない。特に有名なのは、ホームでの立ち売りだ。「かしわめしべんとォ〜〜〜!」という独特の節回し。販売員が木箱を肩に掛けながらホームの端から端まで歩き続ける。あれはもう、駅弁という言葉に収まるものではないと思う。

折尾は、筑豊の石炭輸送とも深く関わった鉄道の街だった。石炭と鉄道、労働と駅弁——それらがつながって、「かしわめし」という文化になった。

こうして見ると、北九州の食文化の奥行きがよくわかる。八幡・黒崎には鉄と労働の味が、門司港には港と洋食の味が、小倉には交通と旅の味が、関門海峡には海と発酵の味が、そして折尾には鉄道と駅弁の味が、それぞれ残っている。

福岡市が「一つの巨大都市」として発展したのに対し、北九州は「複数の街の集合体」として発展した。だからこそ、食文化にも、それぞれの街の歴史が残っている。

北九州の料理は、単なる名物ではない。それは、それぞれの街が生きてきた歴史の味なのだ。

存在しないコンビニが、門司港を一番うまく見せていた

 

先日、NHKのドラマ『コンビニ兄弟』を観ていて、思わず画面を止めたくなる場面があった。

 

右側にコンビニがある。正面には海が見える。奥には関門海峡の気配があり、港町らしい抜けた景色が広がっている。あまりに自然だったので、私は「門司港のどこかに店を建てて撮ったのだろう」と、何の疑いもなく思っていた。

 

ところが、あとで調べてみると、どうやらそうではなかった。コンビニ「テンダネス門司港こがね村店」の外観は、門司港ではなく、茨城県つくばみらい市の屋外ロケ施設「ワープステーション江戸」に組まれたセットらしい。路面電車のレールの位置などから割り出した、ロケ地検証の記事が出ている。背後の海も、どうやら合成だという。

 

それを知ったとき、がっかりするより先に、よくできているなと思った。

 

面白いのは、ドラマ全体が作り物だったわけではない、という点だ。『コンビニ兄弟』は、門司港レトロ地区を中心に、実際の街でかなり撮られている。劇中に映るマンションも、調べると門司港に実在する建物だった。映像では左右が反転していて、それがかえって「似ているのに、どこか違う」という妙な感覚を生んでいる。

 

つまり、現実の門司港の風景の中に、現実には存在しないコンビニの建物だけが、そっと差し込まれている。そして、その一点だけが作り物だとは、観ているあいだ少しも気づかなかった。

 

ここが面白い。

 

門司港には、独特の空気がある。海が近く、建物は少し古く、観光地でありながら生活の匂いも残っている。レトロ建築があり、坂があり、海峡を挟んで向こう側にも街が見える。明るいだけの観光地ではなく、どこか湿り気や寂しさもある。

 

その街には、「こういうコンビニがあってもおかしくない」と思わせるだけの土台が、もともとあった。だから、本当はそこにない店を一軒置いても、画面の中では妙に据わりがいい。

 

ここで、もう一つ引っかかることがある。北九州市は、早くから「映画の街」を掲げ、フィルム・コミッションでロケを誘致してきた街だ。今回も「オール北九州ロケ」がうたわれ、画面で見た景色がそのまま現地にある、ということが聖地巡礼の売りになっている。ところが、その「画面=現地」という売りで、肝心のコンビニ――題名にもなっている、物語の中心そのもの――だけが、現地にない。街の売り方のいちばん真ん中に、実在しない店が座っている。

 

昔のドラマなら、ロケ地とは実際にそこにある場所だった。だから観る側も、「あの店はどこか」「あの道はどこか」と探した。聖地巡礼も、映像と現実をぴったり重ねる楽しみ方だった。

 

今回のような作り方になると、少し事情が変わる。コンビニそのものを探しに門司港へ行っても、そこにはない。画面と同じ場所に立つことはできない。

 

けれど、門司港へ行く意味がなくなるわけではない。むしろ行けば、「あの画面がなぜ門司港らしく見えたのか」はわかるはずだ。海の近さ、建物の色、道の狭さ、そして観光地らしからぬ静けさ。そういうものは、実際に街を歩かないとわからない。

 

もちろん、こうも言えるかもしれない。門司港が特別なのではなく、レトロな港町ふうのセットを組んで実景を合成すれば、どこの街でも「それっぽく」見えるだけではないか、と。

 

だが、実際の作り方はそうではなかった。このドラマは、架空の店を汎用の背景に置いたのではなく、門司港レトロで撮った本物の街の映像の中に織り込んでいる。実在するマンションを左右反転させてまで使うほど、現地の素材を細かく拾っている。架空の店は、その本物の映像に支えられて、はじめて本物らしく見えていた。門司港でなければ、あの店はあそこまで自然には立たなかったはずだ。

 

地方都市は、よく「観光資源があるか」「再開発できるか」「人を呼べるか」という言葉で語られる。けれど街の力は、それだけではない。そこに物語を置いたとき、自然に見えるかどうか。架空の店を一軒置いても、本当にありそうに感じられるかどうか。それも、街の魅力のうちだと思う。

 

門司港には、それがあった。

 

あのコンビニは存在しない。でも、あのコンビニが似合う門司港は、たしかに存在する。それが、このドラマを観ていて一番すごいと思ったところだった。

人口減少という誤読

北九州市が90万人を切った。

そして先日のニュースでは、久留米市も30万人を下回った。

こういう数字が出るたびに、日本では「地方衰退」という言葉がすぐに出てくる。

しかし私は、この人口減少という言葉の使い方そのものに、少し違和感を持っている。

本当に見るべきなのは、単純な人口の増減なのだろうか。

たとえば北九州市は、1970年代後半に106万人を超える人口を抱えていた。製鉄業を中心に、人が全国から集まり、家を建て、家庭を持ち、そのまま定住した時代だ。

もし、その時代に定住した世代が現在70代、80代、90代になっているのだとしたら、2026年現在の人口減少のかなりの部分は、「街から人が逃げた」というより、「高齢化による自然減」で説明できる可能性がある。

人口減少には二種類ある。

出生数より死亡数が多い「自然減」。そして、転入より転出が多い「社会減」だ。

実際、現在の北九州市のデータを見ると、2025年の死亡数は約1万3000人で出生数はその半分にも満たない。一方、転入と転出の差はむしろ2年連続でプラスに転じた。つまり、「人が逃げている」という通説とは裏腹に、今の北九州市の人口減少はほぼ自然減によって説明できる。

だから本来見るべきなのは、「人口が何万人減ったか」ではなく、「誰が、どこへ動いているのか」なのだと思う。

たとえば、かつて長年にわたり北九州市から福岡市へ人が流れていたとすれば、なぜ福岡市なのか。

仕事なのか。

大学なのか。

都市イメージなのか。

女性にとって住みやすいのか。

あるいは単純に、"今の時代の空気"が福岡市にあるからなのか。

ここを見ない限り、「人口減少」という言葉だけでは、都市の実態は見えてこない。

しかも興味深いのは、北九州市が何もしていないわけではないことだ。

企業誘致もやっている。IT支援もある。スタートアップ支援もある。子育て支援も進めている。そして実際、社会動態はプラスに転じ始めた。

それでも全体の人口は減り続ける。問題は、単純な政策の有無ではなく、「都市として選ばれるかどうか」だけでもなく、高齢化という時間差の請求書が今まさに届いているということでもある。

ただ、ここで私は別のことも思う。

福岡市は本当にこのまま増え続けるのだろうか。

福岡市は確かに勢いがある。人口も増え、若者も集まり、街も拡張している。しかしその一方で、土地は限界に近づいている。マンション価格は上がり、家賃も上がり、地下鉄も道路も混雑し始めている。

今の福岡市は、「人を集める力」は強いが、「人を受け止める余裕」は徐々に失われ始めているようにも見える。

そして私は最近、もう一つ別の疑問を持つようになった。

そこまでして、人は大都市圏に結びつく必要があるのだろうか。

東京でも大阪でも、多くの人は中心部には住めない。だから郊外や近隣市に住み、毎日30分、60分、時にはそれ以上かけて都心へ通う。それは本当に「都市の便利さ」を享受していると言えるのだろうか。むしろ、「大都市へ行くために時間を差し出している」状態に近いのではないかと思うことがある。しかも通勤や通学が終わった後に残る時間の多くは、オフィスや教室の中で費やされる。都市の恩恵を直接受けられる時間は、思いのほか少ない。

その視点で見ると、北九州市は少し違う。小倉を中心に見れば、戸畑や黒崎からでも比較的短時間で中心部へ出られる。都市の規模は福岡市より小さいかもしれないが、都市機能との距離は近い。

しかも考えてみれば、北九州市から福岡市へは新幹線で15分、在来線特急でも1時間かからない。福岡市の郊外から天神や博多へ毎日通っている人と、所要時間はそれほど変わらない。違うのは、北九州市での日常がはるかに低い移動コストで成り立っているという点だ。

つまり、「福岡市郊外に住みながら天神や博多へ毎日通う」より、「北九州市に住みながら必要なときだけ福岡市へ出る」方が、時間的にも経済的にも実は豊かかもしれない。大都市に住むことと、大都市を使いこなすことは、同じではないのだ。

人口統計には現れないが、この構造は、生活の質にかなり影響する。

結局、これからの都市は、「人口が増えているかどうか」だけでは測れないのだと思う。

自然減なのか、社会減なのか。人はどこへ動いているのか。なぜそこへ行くのか。そして、その都市で人は毎日どれだけ時間を失っているのか。

人口の数字だけでは見えないものが、そこにはある。
路面電車はなぜ過小評価されたのか
 
速さと運賃収入だけでは見えない都市インフラの価値
 
日本では長い間、路面電車は時代遅れの交通機関として扱われてきた。
 
地下鉄や郊外鉄道より遅く、道路上を走るため自動車の邪魔になる。渋滞に巻き込まれて定時運行も難しく、利用者が減れば交通事業者の採算も悪化する。
 
こうした条件だけを並べれば、路面電車を廃止してバスや地下鉄に置き換えた判断は合理的に見える。しかし、当時の議論では、路面電車が街全体にもたらす効果まで十分に計算されていたのだろうか。
 
私は以前、サンフランシスコに住んでいた。中心部のマーケット・ストリートには、地下をBARTとMuni Metroが走っている。それにもかかわらず、市は1980年代に歴史的な路面電車の運行を始め、1995年にはF Marketラインを常設路線として開業させた。2000年にはエンバーカデロを経由してフィッシャーマンズ・ワーフまで延ばしている。
 
これは、昔の交通機関を仕方なく残した例ではない。いったん衰退した地上の路面電車を、別の価値を持つ公共交通として復活させたのである。
 
Fラインでは、米国各都市で使われていたPCC車両や、1928年に製造されたイタリア・ミラノの車両などが走っている。博物館で保存するのではなく、観光客も市民も利用する日常の交通として使っているところが面白い。
 
地下の鉄道と地上の路面電車は、路線が重なっていても仕事は同じではない。地下鉄は目的地まで速く運ぶ。一方、路面電車に乗れば、沿道の店や広場、建物を眺めながら移動できる。途中で気になる場所を見つけ、そこで降りることもできる。
 
マーケット・ストリートからフェリー・ビルディングを通り、海沿いをフィッシャーマンズ・ワーフへ向かうFラインは、ケーブルカーとは別の観光動線を作った。しかも、単なる観光アトラクションではない。感染症流行前には一日2万人を超える利用があったとされ、通常の都市交通としても相当な規模だった。
 
Oracle Park周辺の作り方も参考になる。現在はN Judahが4th & KingのCaltrain駅からKing Streetを通り、球場に隣接する2nd & King、エンバーカデロ方面を結んでいる。T Thirdも4th & King付近に停車する。
 
Caltrainを降りた人が市内交通へ乗り換え、野球場やオフィス地区へ向かえる。平日は通勤者が使い、試合の日には観戦客が使う。観光、通勤、イベント輸送を別々に考えず、同じ交通網を時間帯の異なる利用者が共有している。
 
Mission Bayを走るT Third Streetラインについては、鉄道がバイオテック地区を一から作ったと考えるのは正確ではない。
Mission Bayの再開発計画やUCSFの進出は、Tラインの本格開業より前から進められていた。現在の発展は、大学や医療施設、企業、住宅、商業施設、Chase Center、Caltrain、ライトレールなどを組み合わせた結果である。
 
大切なのは、住宅やオフィスを建てた後で交通問題に対処したのではなく、最初から公共交通を使いやすい地区として開発したことだ。交通が単独で企業を呼び込んだのではないが、企業や大学が集積できる条件の一つになったと考えるのが妥当だろう。
 
サンフランシスコだけなら、観光客の多い特殊な都市の例だと思われるかもしれない。しかし、ヨーロッパでは、いったん廃止した路面電車を都市再生のために復活させた都市がいくつもある。
 
フランスのストラスブールでは、旧来の路面電車が1960年に姿を消した後、1994年に現代型のトラムが復活した。
 
そこで行われたのは、道路の中央に線路を戻すだけの工事ではない。トラムの整備とともに、自動車中心だった街路や広場を作り直し、徒歩や自転車で移動しやすい中心市街地へ変えていった。ストラスブール市自身も、トラムの開業と路線拡張によって都市圏の街づくりが大きく変わったと説明している。
 
ボルドーでも、1958年に廃止された路面電車が2003年に復活した。歴史的な建物が並ぶ中心部では、架線を張らず、線路の間から電気を供給する地表集電方式を採用した。
 
歴史的な街並みを守るために公共交通を諦めたのではない。景観に合う技術を選び、古い都市の中へ新しい交通を入れたのである。
 
ボルドーでは、トラムの経済的な影響についても調査が行われている。
 
ボルドー都市圏共同体と商工会議所は、線路沿いとその周辺150メートル以内を調査区域とし、1999年から2008年まで事業所の変化を追った。2008年時点の対象は5,404事業所で、この9年間に事業所数は純増で994カ所増えている。
 
ただし、この数字をすべてトラムの成果と考えることはできない。景気の変化、再開発、歩道や広場の整備なども関係する。商業系事業所の増加率は9.5%で、ボルドー都市圏全体の9.8%とほぼ同じだった。トラム沿線だけが特別に商業成長したとまでは言えない。
 
工事中の影響も無視できない。1999年から2002年にかけて、工事の影響を直接受けた区域では事業所数が1.7%減少した。ところが、第1期区間の開業後に当たる2002年から2005年には、同じ区域で7.8%増えている。
 
工事中は沿線の店や事業者に負担がかかる。それでも開業後には、アクセスの改善や街路の再整備とともに事業所が戻り始めたことが読み取れる。
 
事業者1,000人へのアンケートでは、81%がトラムはその都市の商業・経済の活力に良い影響を与えたと答えた。66%は、地区の魅力や人通りにも良い影響があったと評価している。顧客や従業員が事業所へ行きやすくなったという回答も66%だった。
 
一方、自分の事業への影響を良いと答えた割合は27%にとどまり、売上が改善したと答えた事業者は23%だった。多くの事業者は、自店の売上には目立った変化がなかったと答えている。
 
この差は重要だと思う。
 
路面電車を整備しても、すべての店の売上が増えるわけではない。しかし、街へ行きやすくなり、人通りが増え、地区全体の印象が改善したと感じる事業者は多い。経済効果は、個々の店の売上だけでなく、都市全体の利便性や魅力に広がって現れる。
 
ドイツのフライブルクでは、昔からの路面電車網を残し、新しい住宅地の開発に合わせて延ばしてきた。
 
ヴォーバン地区は「自動車のない街」と紹介されることがあるが、実際には自動車を完全に排除した地区ではない。住宅地の中で駐車や通過交通を抑え、徒歩、自転車、公共交通を使いやすくした地区である。開発当初からバスが走り、2006年にはトラムが乗り入れた。
 
住宅を先に大量に建て、その後に道路の混雑や駐車場不足へ対応するのではない。住民がどのように市街地へ移動するのかを考え、それに合わせて街の形を決めている。
 
ストラスブール、ボルドー、フライブルクの方法はそれぞれ異なる。それでも、路面電車だけを独立した事業として扱わなかった点は共通している。線路を敷く工事と同時に、道路や広場を作り直し、住宅や店舗を配置し、徒歩や自転車でも移動しやすくしている。
 
路面電車さえ走らせれば、街が自動的に発展するわけではない。
 
自動車と同じ渋滞に巻き込まれ、運行本数も少なく、停留所の周囲に人が集まる場所がなければ、利用は広がらない。信号の優先制御や専用軌道、乗り降りしやすい低床車両、十分な運行頻度も必要になる。
 
この視点で見ると、日本で多くの路面電車が廃止されたことの意味も違って見える。
 
福岡市では、天神、博多、呉服町、西新、貝塚などを結んでいた路面電車が、1970年代に段階的に縮小された。1975年に貫通線・城南線・呉服町線などが廃止され、最後まで残った循環線と貝塚線も1979年2月に廃止されて、市内から路面電車が姿を消した。
 
この廃止には、それなりの理由があった。国や福岡市、西鉄などが加わった交通問題審議会は、市営地下鉄を建設し、路面電車を廃止してバスに切り替える、という方針を答申していた。渋滞の激しい区間では、路面電車が自動車交通と正面からぶつかっていたのも事実である。
 
その後、地下鉄が高速で大量の人を運ぶようになり、福岡市の発展を支えた。地下鉄の整備そのものが間違いだったわけではない。
 
しかし、地下鉄は地上の街を眺めながら人を回遊させる交通ではない。主要地点を速く移動する交通と、市街地を細かく結ぶ地上交通の両方を持つ選択肢もあったはずだ。
 
北九州は、小倉、戸畑、八幡、黒崎などが合併してできた都市である。それぞれに中心があり、一つの核に収れんしない。西鉄北九州線は、その分かれた市街地を一本の軌道で縫い、連続した一つの都市として見せていた。
 
その北九州線は、門司―砂津間が1985年に廃止され、小倉と黒崎を結ぶ砂津―黒崎駅前間も1992年10月に廃止された。その後も黒崎駅前―折尾間は残ったが、2000年11月に廃止され、北九州線は全廃となった。
 
小倉と黒崎を速く移動するだけなら、JR鹿児島本線がある。だが、JRと路面電車は同じ役割ではなかった。
 
JRは主要駅間を速く結ぶ。路面電車は、その間に広がる市街地を細かく拾い、沿道の店や施設を乗客に見せながら走る。どちらか一方があれば、もう一方は不要だったとは言い切れない。
 
もちろん、西鉄北九州線が残っていれば黒崎の衰退を防げたとまでは言えない。人口減少、産業構造の変化、百貨店の撤退、郊外型商業施設の増加など、黒崎の変化には複数の原因がある。路面電車だけがあれば街が守られたと考えるのも、路面電車を廃止したから街が衰えたと考えるのも、どちらも単純すぎる。
 
それでも、小倉、戸畑、八幡、黒崎を一つながりの市街地として見せる交通を失った影響は、もっと検討されてもよい。
 
当時は、路面電車の赤字や速度、道路交通への影響が重視された。一方、その後数十年間にわたって、観光客を街に回遊させる効果や、沿線への投資、街路の再整備に利用できる価値まで計算されたのかは疑問が残る。
 
路面電車には、バスにはない分かりやすさもある。初めて訪れた人でも、線路を見れば進む方向が分かる。開発する側にとっても、線路はその場所に公共交通が長く残ることを示す。
 
もちろん、昔と同じ車両や運行方法をそのまま復元すればよいわけではない。
 
観光客の多い区間ではサンフランシスコのような歴史車両を使い、輸送力が必要な区間では現代型の低床車両を走らせることもできる。速い鉄道と競わせるのではなく、違う役割を持たせればよい。
 
そして、これは海外だけの話ではない。日本でも近年、この発想を取り戻し始めた都市がある。
 
富山市は2006年、赤字だったJR富山港線を低床車両のライトレールに転換した。増発し、駅を増やし、ホームを低くして乗り降りしやすくした結果、利用者は予想を上回って増え、開業初年度は1日平均約4,900人が利用して決算は黒字になった。市はこれを単独の鉄道事業として扱わず、「串と団子」と呼ばれる、拠点を交通で串刺しにする集約型の街づくりの軸に据えた。2020年には富山駅の南北で分断されていた線路をつなぎ、市内の軌道網をようやく一本にまとめている。
 
宇都宮市はさらに踏み込んだ。2023年8月、宇都宮芳賀ライトレール線を開業させた。既存の路線を転換したのではなく、全線を新たに敷いたライトレールとしては日本初である。市街地を南北に貫く既存の鉄道に対し、東西の新しい軸を加える形で、ネットワーク型コンパクトシティという街づくり構想の一部として計画された。
 
富山も宇都宮も、路面電車を懐古的に復元したのではない。街の形をどう作り直すかという問いの中に、軌道交通を位置づけ直したのである。
 
ここで見落とせないのが、高齢社会との相性だ。
 
富山では、開業後に高齢者の利用が大きく増えた。それまで外出を控えていた層を含め、高齢者が利用者の約2割を占めるようになったとされる。低床車両は段差が少なく、地下深くまで階段やエスカレーターで潜る地下鉄よりも、足腰の弱った人にとって乗り降りの負担が小さい。
 
速さで地下鉄や郊外鉄道に劣ることは、長く路面電車の弱点とされてきた。しかし、人口が減り高齢化が進む社会では、評価軸が変わる。速く遠くへ運ぶ力よりも、足腰の弱った人でも気軽に乗れて、街の中を短く何度も移動できることのほうが、生活の質を支える場面が増える。路面電車の「遅さ」は、別の物差しで見れば欠点ではなくなる。
 
日本では、路面電車を遅くて赤字の古い乗り物として評価し、その多くを廃止した。
 
だが、ボルドーの調査が示すように、路面電車の影響は運賃収入や個々の店の売上だけには表れない。街へ行きやすくなったこと、人通りが増えたこと、沿線が投資先として見直されたこと、そして足腰の弱った人でも街へ出られるようになったことにも現れる。
 
富山や宇都宮が示すのは、その価値が過去のものではないということだ。問題は、古い車両を惜しむことではない。路面電車を一本の線として街に残し、観光客と住民を同じ軌道の上で動かし、離れた地区をつなぎ、沿線を何十年もかけて育てていく――その、時間のかかる発想そのものを、日本はいったん手放し、いま少しずつ取り戻そうとしているのではないか。

家を持つことが豊かさだった時代の終わり

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先日、ニュースを聴いていて興味深い話があった。アメリカのシニア層の中で、家を所有し続けるのではなく、売却して賃貸やシニア向け住宅に移る人が増えているという。

最初は意外に思った。アメリカでは、家を持つことは長く成功の象徴だった。広い家、庭、ガレージ、住宅ローンを払い終えた安心感。それは、いわばアメリカンドリームの象徴でもあった。

しかし、その家が年齢とともに重くなる。

屋根が傷めば修理が必要になる。芝生は刈らなければならない。冬の地域なら雪かきもある。固定資産税、住宅保険、修繕費、光熱費もかかる。住宅ローンを払い終えていても、家は決して無料にはならない。

家は資産である。同時に、管理し続けなければならない装置でもある。

若いころは、その装置を持つことが豊かさだった。だが高齢になると、同じ装置が自由を奪うことがある。広すぎる家、使わない部屋、手入れの必要な庭、突然発生する修理費。そう考えると、賃貸に移ることは「持ち家をあきらめる」というより、「身軽さを買う」選択に近い。

もっとも、賃貸に移るシニアはまだ少数派である。アメリカでも高齢者の持ち家率は8割近く、その多くはローンを払い終え、住み慣れた家にとどまり続けている。だからこそ、あえて家を手放す人たちが少しずつ増えている事実の方が、私には興味深く見えた。

ただし、ここで大事なのは、持ち家か賃貸かという形式だけではない。年を取るほど重要になるのは、どこに住むかである。

若いころなら、スーパーまで車で15分、病院まで20分、駅まで30分でも何とかなる。むしろ広い家や庭の方に価値を感じる人も多い。だが70代、80代になれば、車を運転し続けられるとは限らない。その時に、買い物、通院、銀行、役所、駅までの移動が重くのしかかってくる。

私は、年を取るほど便利な場所に住む方がいいと思っている。

徒歩圏にスーパーがある。病院に行きやすい。駅まで平坦に歩ける。バスに頼らなくても生活できる。こうした条件は、若いころには地味に見えるかもしれない。しかし老後には、住まいの広さ以上に生活の質を左右する。

家そのものの価値より、立地の価値が大きくなる。これは老後の住まいを考えるうえで、かなり重要な視点だと思う。

これは車にも似ている。

かつて車を持つことは自由の象徴だった。だが実際には、車は一日の大半を駐車場で眠っている。保険、税金、修理、ガソリン、駐車場代がかかる。必要な時だけ使えればいい、という発想が出てくるのは自然だ。

住宅も同じ方向に少しずつ動いているのではないか。

所有することそのものが目的だった時代から、必要な機能を必要な期間だけ使う時代へ。車、家、音楽、映画、ソフトウェア。多くのものが「買って持つ」から「使う」へと移ってきた。車がたどった道を、音楽やソフトウェアもすでに歩いている。そして今、住宅にも同じ流れが届こうとしているように見える。

もちろん、賃貸にも課題はある。家賃は上がるかもしれない。老後に住まいが不安定になるリスクもある。アメリカでは高齢の賃貸世帯の住宅費負担も重く、収入の多くを家賃に取られる世帯は少なくない。だから、持ち家か賃貸かという単純な勝ち負けの話ではない。

私が興味深いと思ったのは、住まいそのものより、その背景にある考え方の変化だった。

昔は、所有しているものが多いほど豊かに見えた。大きな家、大きな車、多くの家具、多くの荷物。しかしこれからは、管理しなければならないものが少ないほど自由だ、と考える人が増えていくのかもしれない。

老後に本当に必要なのは、広い家ではなく、動きやすさかもしれない。資産を抱え込むことより、必要な時に移れる柔軟性の方が効いてくるのかもしれない。

そしてここで、私は日本の郊外を思い浮かべる。

アメリカのシニアが立地の価値に気づき始めている一方で、日本はむしろ逆の方向に街を作り続けてきた。幹線道路沿いの大型ショッピングセンター、広い駐車場、車でしか行けない郊外型モール。そこには確かに、今の現役世代が求める便利さがある。週末にまとめ買いをし、子どもを乗せて出かける。車があるうちは、これほど快適な仕組みはない。

だが、その快適さには期限がある。

郊外型モールは、客が全員、自分で運転できることを前提に設計されている。その前提は、現役世代が老いた瞬間に崩れる。今モールに通っている世代も、いずれ運転をやめる日が来る。その時、徒歩では行けない場所に置かれた店は、生活の場ではなくなる。

同じ郊外の大型店でも、生き残る店と沈む店を分けるのは、駅につながっているかどうかだと思う。たとえば越谷レイクタウンは、それ自体は巨大なイオンモールだが、武蔵野線の駅と一体で造られ、住宅と駅と店が一つの街として設計されている。運転をやめても、電車で行けて、歩いて帰れる。一方、幹線道路沿いのイオンモールやコストコには、その出口がない。とりわけコストコは、車で来て大量に買い、自分で運ぶことが前提の店だ。会員制の倉庫に並ぶ特大の商品は、車がなければそもそも持ち帰れない。ネットで頼む手はあるが、店より割高で、寿司やロティサリーチキンといった看板の総菜は届かず、代行サービス自体も現れては消える。車という前提が外れた瞬間に、コストコはコストコでなくなる。

ただし、駅さえあれば安泰というほど単純でもない。サンフランシスコのダウンタウンにあったサンフランシスコ・センターは、地下鉄パウエル駅と直結する一等地にありながら、2026年に閉館した。リモートワークと観光の落ち込みで人通りが枯れ、百貨店の核店舗が抜けて、駅の上にあっても死んだのだ。理由ははっきりしている。この店を支えていたのは、その街に住む人ではなく、外から通ってくるオフィス客と観光客だった。駅は、住民が年老いて運転をやめる事態は防げても、客そのものが来なくなる事態は防げない。

だから立地とは、駅があるかどうかという以上に、その場所が生活者の日常に編み込まれているかどうかなのだと思う。同じサンフランシスコでも、州立大学と住宅地を背負い、スーパーや日用品を核にしたストーンズタウンは生き延び、駐車場を住宅に変えて街へと作り替えられつつある。死にかけた駅前モールに用意された処方箋が、どれも「人を住まわせること」だったのは示唆的だ。買い物客が通う目的地を、人が暮らす街に戻す。結局そこに行き着く。

これはもう、起きている。農林水産省の研究機関の推計では、店舗まで500m以上あり、車を使えない65歳以上――いわゆる買い物難民は、2020年時点で約904万人。高齢者のおよそ4人に1人にあたり、初めて900万人を超えた。2015年の約824万人から、さらに増えている。

しかも増えているのは、山あいの集落ではない。三大都市圏や、かつて若い家族が一斉に入居した団地やベッドタウンで、特に速く増えている。郊外に最適化した暮らしは、その住人が老いた時に行き止まりになる。

では、次の世代が受け継いでくれればいいのか。子が親を車で連れて行き、公共交通が穴を埋めてくれればいいのか。だが少子化が続く以上、その期待はかなり心もとない。送り迎えをする若い世代は減り、採算の取れない郊外路線は先細る。

対策がないわけではない。移動販売、ネットスーパー、宅配、自動運転、ドローン配送。行政も企業も、買い物難民対策としてこうした手段を並べている。しかし、そのどれもが「車で大型店に行く」前提が壊れた後を継ぎ当てるものであって、車に依存した街の構造そのものを直すわけではない。便利さを優先して郊外に広げた街の宿題を、テクノロジーという蓋で先送りしているようにも見える。

人が歩いて行けなくなった郊外モールは、長期的には客を失う。店が抜ければ雇用も税収も減り、その商圏を当てにしてきた地域経済も一緒に沈んでいく。郊外に巨大な箱を建てた時、誰もその箱が老いることまでは考えていなかった。

豊かさとは、たくさん持つことではなく、必要なものを必要なだけ使い、自分の時間と自由を増やすこと。その価値観が、住宅にも、街にも、これから問われていくのだと思う。

そして、私が暮らすコロラドに目を移すと、話はもう一段ねじれる。

ここでは今も、空き地が造成され、似たような戸建てが並んでいく光景を目にする。住宅が足りないのだから、増えること自体はおかしくない。だが私は、それを見るたびに小さな違和感を覚える。

コロラドは半乾燥地帯である。州の水の約9割は農業が使い、都市が使うのは1割に満たない。それでも、フロントレンジ――私の住む一帯――の都市用水のおよそ半分は、山を越えてコロラド川から運ばれてくる。そのコロラド川は20年以上の大干ばつのただ中にあり、貯水池は3分の2が空になっている。しかもこの川は、実際に流れる水の量を超える取水権がすでに各地に配られており、はじめから「ない水」をあてにした仕組みになっている。その中でフロントレンジが引いている水利権の多くは新しく、深刻な渇水になれば真っ先に削られる側にある。

その心もとない水の上に、新しい家が建っていく。乾いた西部では、家庭で使う水のおよそ半分が芝生にまかれる。郊外に一区画増えるたびに、最も不安定な水源へ、何十年分もの芝のための水を新しく結びつけていることになる。足りないのは家だが、もっと足りないのは水かもしれない。これが、私の日々の違和感である。

ただ、現実は皮肉な形で動いている。少子化と流入の鈍化で、コロラドの住宅着工はすでに頭打ちになり、北部フロントレンジでは2025年に水の取引価格がむしろ下がった。家が建たなくなったから、水の需要も緩んだのだ。私が建てすぎを案じているそばで、市場はもう静かに減速し始めている。

だとすれば、供給過剰で家が値崩れするという私の心配も、おそらく一様には起きない。先に落ちるのは、車がなければ暮らせず、芝生に水を撒き続けなければならない遠郊外の家だろう。歩いて用が足り、水も多くを要さない立地は、買い手が老いて立地に敏感になるほど、底堅く残る。家の価値も、街の寿命も、そして水の重さも、結局は同じ一点――どこに建てるか――に行き着く。

アメリカのシニアが家を手放して便利な場所へ移るのは、資産を減らす行為ではない。老いても自分の足で暮らせる場所を確保する行為である。

日本がこれから問われるのは、家を持つか借りるかではない。年を取っても歩いて暮らせる街を、どれだけ残せるかである。