HIDE

HIDE

アメリカ サンフランシスコ在住。ベースボールとサッカー好き。誰が何と言おうとOakland A'sとSan Jose Earthquakesの大ファン。趣味:走ること、自転車、美味しいものを食べること。特にラーメンが大好き。乙女座B型。やはりちょっと変わっている....らしい。

家を持つことが豊かさだった時代の終わり

先日、ニュースを聴いていて興味深い話があった。アメリカのシニア層の中で、家を所有し続けるのではなく、売却して賃貸やシニア向け住宅に移る人が増えているという。

最初は意外に思った。アメリカでは、家を持つことは長く成功の象徴だった。広い家、庭、ガレージ、住宅ローンを払い終えた安心感。それは、いわばアメリカンドリームの象徴でもあった。

しかし、その家が年齢とともに重くなる。

屋根が傷めば修理が必要になる。芝生は刈らなければならない。冬の地域なら雪かきもある。固定資産税、住宅保険、修繕費、光熱費もかかる。住宅ローンを払い終えていても、家は決して無料にはならない。

家は資産である。同時に、管理し続けなければならない装置でもある。

若いころは、その装置を持つことが豊かさだった。だが高齢になると、同じ装置が自由を奪うことがある。広すぎる家、使わない部屋、手入れの必要な庭、突然発生する修理費。そう考えると、賃貸に移ることは「持ち家をあきらめる」というより、「身軽さを買う」選択に近い。

もっとも、賃貸に移るシニアはまだ少数派である。アメリカでも高齢者の持ち家率は8割近く、その多くはローンを払い終え、住み慣れた家にとどまり続けている。だからこそ、あえて家を手放す人たちが少しずつ増えている事実の方が、私には興味深く見えた。

ただし、ここで大事なのは、持ち家か賃貸かという形式だけではない。年を取るほど重要になるのは、どこに住むかである。

若いころなら、スーパーまで車で15分、病院まで20分、駅まで30分でも何とかなる。むしろ広い家や庭の方に価値を感じる人も多い。だが70代、80代になれば、車を運転し続けられるとは限らない。その時に、買い物、通院、銀行、役所、駅までの移動が重くのしかかってくる。

私は、年を取るほど便利な場所に住む方がいいと思っている。

徒歩圏にスーパーがある。病院に行きやすい。駅まで平坦に歩ける。バスに頼らなくても生活できる。こうした条件は、若いころには地味に見えるかもしれない。しかし老後には、住まいの広さ以上に生活の質を左右する。

家そのものの価値より、立地の価値が大きくなる。これは老後の住まいを考えるうえで、かなり重要な視点だと思う。

これは車にも似ている。

かつて車を持つことは自由の象徴だった。だが実際には、車は一日の大半を駐車場で眠っている。保険、税金、修理、ガソリン、駐車場代がかかる。必要な時だけ使えればいい、という発想が出てくるのは自然だ。

住宅も同じ方向に少しずつ動いているのではないか。

所有することそのものが目的だった時代から、必要な機能を必要な期間だけ使う時代へ。車、家、音楽、映画、ソフトウェア。多くのものが「買って持つ」から「使う」へと移ってきた。車がたどった道を、音楽やソフトウェアもすでに歩いている。そして今、住宅にも同じ流れが届こうとしているように見える。

もちろん、賃貸にも課題はある。家賃は上がるかもしれない。老後に住まいが不安定になるリスクもある。アメリカでは高齢の賃貸世帯の住宅費負担も重く、収入の多くを家賃に取られる世帯は少なくない。だから、持ち家か賃貸かという単純な勝ち負けの話ではない。

私が興味深いと思ったのは、住まいそのものより、その背景にある考え方の変化だった。

昔は、所有しているものが多いほど豊かに見えた。大きな家、大きな車、多くの家具、多くの荷物。しかしこれからは、管理しなければならないものが少ないほど自由だ、と考える人が増えていくのかもしれない。

老後に本当に必要なのは、広い家ではなく、動きやすさかもしれない。資産を抱え込むことより、必要な時に移れる柔軟性の方が効いてくるのかもしれない。

そしてここで、私は日本の郊外を思い浮かべる。

アメリカのシニアが立地の価値に気づき始めている一方で、日本はむしろ逆の方向に街を作り続けてきた。幹線道路沿いの大型ショッピングセンター、広い駐車場、車でしか行けない郊外型モール。そこには確かに、今の現役世代が求める便利さがある。週末にまとめ買いをし、子どもを乗せて出かける。車があるうちは、これほど快適な仕組みはない。

だが、その快適さには期限がある。

郊外型モールは、客が全員、自分で運転できることを前提に設計されている。その前提は、現役世代が老いた瞬間に崩れる。今モールに通っている世代も、いずれ運転をやめる日が来る。その時、徒歩では行けない場所に置かれた店は、生活の場ではなくなる。

同じ郊外の大型店でも、生き残る店と沈む店を分けるのは、駅につながっているかどうかだと思う。たとえば越谷レイクタウンは、それ自体は巨大なイオンモールだが、武蔵野線の駅と一体で造られ、住宅と駅と店が一つの街として設計されている。運転をやめても、電車で行けて、歩いて帰れる。一方、幹線道路沿いのイオンモールやコストコには、その出口がない。とりわけコストコは、車で来て大量に買い、自分で運ぶことが前提の店だ。会員制の倉庫に並ぶ特大の商品は、車がなければそもそも持ち帰れない。ネットで頼む手はあるが、店より割高で、寿司やロティサリーチキンといった看板の総菜は届かず、代行サービス自体も現れては消える。車という前提が外れた瞬間に、コストコはコストコでなくなる。

ただし、駅さえあれば安泰というほど単純でもない。サンフランシスコのダウンタウンにあったサンフランシスコ・センターは、地下鉄パウエル駅と直結する一等地にありながら、2026年に閉館した。リモートワークと観光の落ち込みで人通りが枯れ、百貨店の核店舗が抜けて、駅の上にあっても死んだのだ。理由ははっきりしている。この店を支えていたのは、その街に住む人ではなく、外から通ってくるオフィス客と観光客だった。駅は、住民が年老いて運転をやめる事態は防げても、客そのものが来なくなる事態は防げない。

だから立地とは、駅があるかどうかという以上に、その場所が生活者の日常に編み込まれているかどうかなのだと思う。同じサンフランシスコでも、州立大学と住宅地を背負い、スーパーや日用品を核にしたストーンズタウンは生き延び、駐車場を住宅に変えて街へと作り替えられつつある。死にかけた駅前モールに用意された処方箋が、どれも「人を住まわせること」だったのは示唆的だ。買い物客が通う目的地を、人が暮らす街に戻す。結局そこに行き着く。

これはもう、起きている。農林水産省の研究機関の推計では、店舗まで500m以上あり、車を使えない65歳以上――いわゆる買い物難民は、2020年時点で約904万人。高齢者のおよそ4人に1人にあたり、初めて900万人を超えた。2015年の約824万人から、さらに増えている。

しかも増えているのは、山あいの集落ではない。三大都市圏や、かつて若い家族が一斉に入居した団地やベッドタウンで、特に速く増えている。郊外に最適化した暮らしは、その住人が老いた時に行き止まりになる。

では、次の世代が受け継いでくれればいいのか。子が親を車で連れて行き、公共交通が穴を埋めてくれればいいのか。だが少子化が続く以上、その期待はかなり心もとない。送り迎えをする若い世代は減り、採算の取れない郊外路線は先細る。

対策がないわけではない。移動販売、ネットスーパー、宅配、自動運転、ドローン配送。行政も企業も、買い物難民対策としてこうした手段を並べている。しかし、そのどれもが「車で大型店に行く」前提が壊れた後を継ぎ当てるものであって、車に依存した街の構造そのものを直すわけではない。便利さを優先して郊外に広げた街の宿題を、テクノロジーという蓋で先送りしているようにも見える。

人が歩いて行けなくなった郊外モールは、長期的には客を失う。店が抜ければ雇用も税収も減り、その商圏を当てにしてきた地域経済も一緒に沈んでいく。郊外に巨大な箱を建てた時、誰もその箱が老いることまでは考えていなかった。

豊かさとは、たくさん持つことではなく、必要なものを必要なだけ使い、自分の時間と自由を増やすこと。その価値観が、住宅にも、街にも、これから問われていくのだと思う。

そして、私が暮らすコロラドに目を移すと、話はもう一段ねじれる。

ここでは今も、空き地が造成され、似たような戸建てが並んでいく光景を目にする。住宅が足りないのだから、増えること自体はおかしくない。だが私は、それを見るたびに小さな違和感を覚える。

コロラドは半乾燥地帯である。州の水の約9割は農業が使い、都市が使うのは1割に満たない。それでも、フロントレンジ――私の住む一帯――の都市用水のおよそ半分は、山を越えてコロラド川から運ばれてくる。そのコロラド川は20年以上の大干ばつのただ中にあり、貯水池は3分の2が空になっている。しかもこの川は、実際に流れる水の量を超える取水権がすでに各地に配られており、はじめから「ない水」をあてにした仕組みになっている。その中でフロントレンジが引いている水利権の多くは新しく、深刻な渇水になれば真っ先に削られる側にある。

その心もとない水の上に、新しい家が建っていく。乾いた西部では、家庭で使う水のおよそ半分が芝生にまかれる。郊外に一区画増えるたびに、最も不安定な水源へ、何十年分もの芝のための水を新しく結びつけていることになる。足りないのは家だが、もっと足りないのは水かもしれない。これが、私の日々の違和感である。

ただ、現実は皮肉な形で動いている。少子化と流入の鈍化で、コロラドの住宅着工はすでに頭打ちになり、北部フロントレンジでは2025年に水の取引価格がむしろ下がった。家が建たなくなったから、水の需要も緩んだのだ。私が建てすぎを案じているそばで、市場はもう静かに減速し始めている。

だとすれば、供給過剰で家が値崩れするという私の心配も、おそらく一様には起きない。先に落ちるのは、車がなければ暮らせず、芝生に水を撒き続けなければならない遠郊外の家だろう。歩いて用が足り、水も多くを要さない立地は、買い手が老いて立地に敏感になるほど、底堅く残る。家の価値も、街の寿命も、そして水の重さも、結局は同じ一点――どこに建てるか――に行き着く。

アメリカのシニアが家を手放して便利な場所へ移るのは、資産を減らす行為ではない。老いても自分の足で暮らせる場所を確保する行為である。

日本がこれから問われるのは、家を持つか借りるかではない。年を取っても歩いて暮らせる街を、どれだけ残せるかである。

今年の1月に日本のVPN接続という技を覚えてから、アメリカに居ながら日本のテレビ番組をTVerを通じて観れるようになりました。海外からの日本のテレビ番組はかなり需要があると思うんですが、どこかで聞いたんですが、日本のCMは海外向けではないということで、海外からの視聴はブロックしてるみたいです。知らんけど。


ということで、1週間最低でも50番組視聴というか、聞き流ししてます。でも、TVerでは最高で1.75倍速で流せるので、全て倍速です。日本の情報収集が目的ですので、情感とか間とかそれはどうでもいいです。それでも日本のテレビは面白いですね。ドラマも何本か観てますが、このクールで特に面白いなぁと思うのは2本あります。「六本木クラス」と「ユニコーンに乗って」です。起業という観点で見るとなるほどなぁと思いながら毎週、観てます。本家の梨泰院クラスを観ずに六本木クラスを観たんですが、全く違和感はないですね。面白いです。


日本のテレビを見始めてからの変化。日本のユーチューブはほとんど観なくなりました。日本のテレビはスポンサーからの要望などで規制があるかもしれませんが、それでもやっぱりプロですね。規制がある中で最大限の表現をしてます。アマチュア投稿とは全然違うなと思いました。と思うようになったら、ユーチューブって将来性あるのかなと考えるようにもなりました。いずれ成熟期、衰退期のカーブを近い将来たどるのかもしれません。



お久しぶりぶりです。前回、書いたのはいつでしょうか。コロラドに移ってから11ヶ月が過ぎたところです。もちろん、カリフォルニアにはなかった雪も経験し、今は猛暑の真っ只中です。それにしても暑いですねぇ。コロナの影響でここ2年以上思ったようなトレーニングができない状況が続いていますが、それプラス、コロラドは高地。最初は息をするのも苦しかったですが、慣れたなぁとやっと思えたのは、7ヶ月過ぎた辺りでしょうか。デンバーで唯一のフルマラソンのトレーニングをしてる最中でしたね。ウルトラはまだできてませんが、直近のレースは次の写真ですね。


Colfax Marathon



ロードのフルマラソンは出る予定なかったのですが、友達に一緒にやろうと誘われて、急遽、参加することに。その友達は結局出られなかったのですが、まぁ、デンバーで有名な大会に出られてよかったです。


Mt Evans Ascent




これはかなりきつかったです。距離はハーフよりちょっと長いぐらいですが、4,300メートル級の山をひたすら登るレース。そこまで高い高地は経験したことがなかったので、息ができないし頭も痛くなってくる。6月下旬にもかかわらず、山頂に近づくほど、雪降ってるしね。その後、5日ほど頭の痛みが取れなかったので、軽度の高山病になったのかもしれませんね。今は大丈夫ですけどね。


以上、近況です。まだ、報告したいこともあるんですが、それは次回に。



ご存知の人も多いとは思いますが、私はアメリカ在住です。もう、かれこれ29年になります。でも、国籍は日本です。永住権(グリーンカード)保持としてアメリカにいます。どうして国籍を変えないのか。1番大きな理由は、自分が日本人であることに誇りがあること。また、アメリカにいるのは、日本でレールから外れたキャリア構築をしてしまったため、働く目的という割り切った理由ということです。いずれは日本に帰る。そう思ってきました。

私がアメリカにいる間、日本もかなり様変わりしました。私が日本にいた時はバブルに翳りが出始めそうだった時。なので、バブルが弾けた日本を知りません。そんな中、NHKのクールジャパンとかアメリカで観る機会があり、日本ってなんてすごいんだと番組では締めくくってますよね。私は日本はすごい国、みんなが憧れる国だという先入観が知らず知らずにこういうメディアから植え付けられました。だから、海外から日本に人が押し寄せ、特に中国人の爆買いとかもそのせいだろうなと思ってたんです。でも、最近それは違うのではないかと思うようになりました。

まず、自分が日本に旅行で行ったとき思ったのは、アメリカに比べて物価が安い。それも驚くほど。特に食べ物。日本の給料が安いのは有名ですが、この安さだったら、低給料で生活できるのも納得です。この自分の感覚を踏まえると、海外から日本に行くのは、もしかしたら私が感じたことを他の外国人も感じているのでは…中国人が爆買いするのも、旅費をかけても元が取れ、安く買えるから、そのために日本に行っているのでは…という思いが私の頭によぎりました。それを前提に考えると、日本人も海外に出ないので、海外の現状に疎く、自国のことを勘違いしているのではと思うようになりました。それこそ、海外から来る人は、日本のことがすごいというのではなく、ましてやおもてなしに感動ということもなく(私個人としてはおもてなしは良かれと思ってやっているとは思いますが、うざいと思うことが多い)、物価が安いからというただその理由で行くのでは…そう思うことが自分の会社でも感じました。日本からお土産を持っていっても、ほとんど感動はないです。ただ、台湾人を除いては…親日国ということもあり、日本からのお土産は本当に嬉しそうでした。それだけは例外。あとは、冷めた目でした。

なので、日本という国は日本人が思っているほど自国はすごくない。おもてなしというオブラートを取り外し、それを現実として受け止めた上で今後の対策を考えた方がいいと思います。

いずれ日本に帰る。昔は母国に帰るという思いが強かったのですが、今は違います。誤解のないように言いますが、日本人である誇りはありますよ。それは外せませんが、今の理由は、日本の物価が安く、社会保障もしっかりしてる。なので、アメリカで稼いで、日本で余裕をもって暮らす。それが1番の理由です。私からすると日本はコスパがいいんですよ。でも、日本は私にとって老後生活の1つの選択肢にすぎません。もし、同じ条件で、もっと快適に暮らせる国があるようでしたら、日本というこだわりはありません。

私がこのように考えるということは、他の人、特に日本人以外の人で私と同じ生活水準でしたら、同じことを考えているかもしれません。そのうち日本での外国人の定住者が今以上に増えるかも…
ポモドーロ・タイマーって知ってます?トマトの形をしたキッチン用のタイマーです。ポモドーロってイタリア語でトマトの意味です。



自分が望む望まないに関わらず、現在、アメリカで、大手の大企業で働いています。生活は安定していますが、どうしてもいつも同じルーティンの仕事ばかりで、いつのまにか何も考えずに仕事をしてる日々…頭を使わない危機感から、このままではダメだと思い、勉強しようと思ったんですが、頭がすでに固く融通が効かない状態だったので、まず、それをほぐすことから始める必要があると思っていた矢先、super learnerの講座に出会い、それを今、毎日1時間トレーニングしてます。

その講座の中で紹介してたのが、ポモドーロ・テクニック。

簡単に言えば、メリハリをつけて集中力を上げるテクニックです。

やり方はいたって簡単。タイマーを使いながら、25分働いて5分休憩。このサイクルを4回やり、4サイクル目の休憩を5分でなく15〜30分にする。そして、またこのルーティンを繰り返す。これだけです。

ただ、私の場合、自分で補足していることもあります。同じく講座の中で言ってたんですが、座って勉強すると眠くなり、頭がフルに働かないとのこと。ですので、勉強・仕事を問わず、25分間は立って集中してやり、5分の休憩のときは(4サイクル目は15分)、座って何も考えず遠くを見て、目を休めるようにしてます。

これが思ったよりもよかった。この組み合わせでメリハリがついて、やること全てにメリハリがつくようになりました。

騙されたと思って、試してみてはいかが?