日本維新の会の吉村洋文代表の発言を聞いて、妙な引っかかりが残った。

 

今年4月、福岡を訪れた吉村氏は「福岡は副首都にふさわしい」と語り、「大阪、福岡、副首都を目指して連携をして、そして、東京一極集中だけじゃない日本の国家構造を共に作っていきたい」と呼びかけた。副首都は一つである必要はない。大阪と福岡が並んで日本を支える。そう受け取れる発言だった。

 

ところが、福岡県議会の正副議長ポストをめぐる金銭授受疑惑が表面化すると、言葉の温度が一変した。

 

7月、吉村氏は、報道されている内容が事実ならと前提を置いたうえで、議長就任に多額の現金を要求するようなことが行われているのなら、そんなレベルの話をしている地域が日本の副首都を引っ張る存在にはなり得ないのではないか、と述べた。福岡県議会の状況を「はっきり言って異常だ」とも批判している。元副議長から自民党重鎮へ500万円が渡ったとする証言が全国紙で報じられるなど、指摘されている問題は県議会全体を揺るがす重大な事態となっている。

 

もちろん、県議会で指摘されている問題は重大である。複数の証言が食い違っており、早急な事実解明が必要なのは言うまでもない。ただ、それと福岡県全体が副首都に適しているかどうかは、本来分けて考えるべき話ではないだろうか。

 

現在、国会で審議されている副首都法案では、東京圏との同時被災リスクが低いことに加え、国の行政機関の立地、人口と経済の集積、必要な地方行政体制などが指定要件として挙げられている。地方議会で問題が起きていないことが、独立した要件として書かれているわけではない。

 

同じ疑問は、身内であるはずの側からも出ている。福岡県選出の自民党の衆院議員は、県議会の問題と首都機能の代替は全く別次元の話であり、災害に強い地域か、社会機能を営みやすいかどうかで判断すべきだと指摘した。政局と切り離して冷静に論じるべきだ、という趣旨である。

 

にもかかわらず、吉村氏は県議会の疑惑を福岡全体の適格性に結びつけた。しかも発言したのは、福岡と副首都の座を争う大阪府の知事でもある。本来、福岡が副首都にふさわしいかどうかを判断するのは大阪府知事ではなく、法案に基づいて指定を行う国である。

 

そして、ここにもう一つ気になることがある。現在、副首都に指定された地域はまだ一つもない。にもかかわらず、一候補地の代表にすぎない立場から、他の候補に「なれない」と資格を言い渡す。それは、まだ決まっていない選考の結果を先取りし、自らを審査する側に置く物言いである。福岡と対等に指定を目指す立場であることを思えば、この振る舞いは、副首都をめぐる関係の中で、大阪だけが一段高い場所にいるという前提を、無意識のうちに映し出しているのかもしれない。

 

ここに、私が感じた違和感がある。

 

そもそも今回の副首都構想は、大阪が長年進めてきた政策を全国制度へ広げたものだ。大阪府と大阪市は以前から「副首都・大阪」を掲げ、専管組織を置き、制度や都市機能の整備を検討してきた。法案には特定の都市名が書かれておらず、複数の副首都も想定されているが、維新にとって中心にあるのが大阪であることは疑いようがない。

 

一方、「大阪を副首都にするための法案」と見られれば、地域的な利益誘導だという批判を受けやすい。福岡など複数の候補地が参加すれば、東京一極集中を是正する全国的な制度として説明しやすくなる。

 

そう考えると、福岡は副首都を目指す対等な仲間というより、大阪発の構想に全国性を持たせる存在として扱われているのではないか。そんな疑問が浮かぶ。

 

先ほどの、まだ選ばれてもいないのに他の候補に不合格を言い渡す物言いも、この見立てと重なる。主役はあくまで大阪であり、他の候補はその構想に彩りを添える存在だという序列が、無意識のうちに言葉に滲んでいるようにも見える。

 

4月には大阪と福岡で連携しようと持ち上げ、福岡県議会の問題が構想全体に悪影響を与えかねない状況になると、そのような状態では副首都になり得ないと距離を置く。吉村氏の内心は分からないし、福岡を意図的に利用していると断定することもできない。ただ、一連の動きだけを見れば、必要なときには仲間として迎え、都合が悪くなれば候補としての資格に疑問を投げかけるようにも映る。

 

県議会問題を厳しく批判すること自体は間違っていない。だが、個別の疑惑を一つの地域全体の価値にまで広げるのであれば、同じ基準を大阪にも、維新にも、ほかの候補地にも適用しなければならない。現に吉村氏は、大阪では議長や副議長のポストをめぐる金銭のやりとりは聞いたことがない、と大阪の側を先に潔白としている。しかし、その比較の物差しは、本来、競争相手が自ら持ち出して証明するものではない。競争相手の弱点だけを副首都の適格性に結びつければ、それは制度論ではなく政治的な牽制に見えてしまう。

 

福岡が本当に副首都を目指すのであれば、吉村氏や維新から「ふさわしい」と認めてもらう必要はない。大阪発の構想に添えられる第二候補ではなく、災害対応、アジアへの近さ、九州全体との連携、行政機能の分散といった福岡独自の意味を、自分たちの言葉で示すべきだろう。

 

誰かに候補として加えてもらい、誰かの判断で外される。そのような立場にとどまる限り、福岡は副首都構想の主役にはなれない。

 

福岡は大阪の構想を全国制度に見せるための飾りなのか。それとも、本当に日本の新しい国家構造を一緒につくる相手なのか。

 

今回の吉村氏の発言は、その関係を改めて問い直すきっかけになった。

福岡は成長都市のまま、政治だけ昭和でいられるのか

福岡はいま、勢いのある地域として語られることが多い。

福岡市は若い都市として成長し、再開発やスタートアップの動きで全国から注目されている。北九州市も、かつての工業都市から次の都市像を探ろうとしている。空港、港湾、アジアとの距離、食文化、観光、人口の集積。福岡には、他の地方都市にはない強みがいくつもある。

だからこそ、今回の福岡県議会をめぐる一連の問題には、強い違和感がある。

表で語られる福岡は、未来に向かう都市である。

ところが、県政の内側から聞こえてくる言葉は、あまりにも古い。

県議会の正副議長ポストをめぐる金銭授受疑惑では、元議長の吉松源昭県議が、就任前に自民党県議団の幹部から現金を要求され、副議長経験者と合わせて計2750万円を支払ったと証言している。しかも、議長就任には1000万円、副議長就任には500万円を渡すのが長年の慣例だったという。一方で、名指しされた幹部側は「事実無根」と全面的に否定し、逆に県議の側から金の話を持ちかけたと主張している。事実関係はまだ対立したままだ。だから、ここで誰かを犯人のように決めつけることはできない。だが、「議長ポストは金で動くのか」という疑念が県民に生まれた時点で、県議会の信用は大きく傷ついている。

さらに、高島宗一郎福岡市長は、2010年の初出馬時に「ある議員」から5000万円を要求され、断ったと会見で認めている。「まずは家を売ってこい」という表現も、本人の著書『福岡市を経営する』に書かれた内容として、会見で事実だと明言されている。これも今回の県議会疑惑そのものとは別件である。しかし、政治に出ようとした人間に対して、まず金を持ってこいという空気があったのなら、それは単なる昔話では済まない。

県職員の部課長会費が、県議会議長や副議長の政治資金パーティー券購入に使われていた問題もある。部課長会は課長級以上の職員でつくる任意団体で、知事の指揮命令が及ばない親睦団体だとされる。県が6月1日にまとめた中間報告は、これを組織全体の慣例であり、議会への忖度や配慮があったと認めた。まず先行して調べられた総務部では、2016年度から2025年度までの10年分でこの慣例が確認され、報告書は10年以上前から続いてきたとみている。明確な法令違反はないとしつつも、外形的には地方公務員法や政治資金規正法に抵触する恐れがある、と指摘した。県はいま、こうした支出を原則禁止とする通達を全庁に出している。

明確な強制があったかどうかはともかく、議会との関係を考えれば、職員が一人の判断で断るのは難しかったはずだ。これは「違法かどうか」だけで片づけられる話ではない。県職員が、政治家との距離感を自分の判断だけで整理できなかった構造があったのではないか。そこが問われている。

海外視察の問題も、同じ線上に見える。FNNの調査によれば、2024年1月から2026年までに、少なくとも18回、約1億5000万円の公費が海外視察に使われた。ハワイ視察では、県議1人あたりの費用が約300万円。1泊11万円を超えるリゾートホテルに泊まり、航空券はビジネスクラス。

だが、金額よりも問うべきは、その中身だ。ハワイで行われたのは、州知事や州議会議長への表敬訪問、姉妹提携の周年式典への出席、県人会との懇談、物産フェアでのトップセールス——要するに友好交流であって、政策の調査ではない。公表された報告書はわずか2件で、しかもそこには訪問先とのやりとりは書かれていても、帰国後にその成果をどう使ったのかは書かれていない。視察という言葉が、友好旅行を覆い隠している。300万円が高いのではない。300万円かけて県民に示せる中身が、見えないのだ。

そもそも、両地域を結んでいたハワイアン航空の福岡ーホノルル直行便は、需要の低迷を理由に、2025年11月に運休した。数十年の友好交流を掲げ、訪問団を送り続けてきたその足元で、二つの土地を実際につないでいた一本の線は、静かに消えていた。交流とは、いったい何を残したのか。

それでいて、「県議会のドン」とも呼ばれる蔵内勇夫議長の姿勢は、反省とは遠い。会見で「海外旅行は続けます。この考えは一切変わらない」と言い切り、途中で「海外活動」と言い直した。中国の報告書については「あれで十分」と強気を崩さず、高額の契約についても「議会にはまったく権限がない」と述べた。改めるのはごく一部で、大枠は変えない。世論とのズレを、隠そうともしない。

報道への向き合い方も、印象を悪くした。県議会は一時、議会棟での撮影や録音に事前承認を求める取材制限を検討し、「県民の知る権利を侵害しかねない」と批判を浴びて撤回した。議長は不信感を与えたことを陳謝している。

ここまで来ると、単発の不祥事とは見えにくい。

金銭要求疑惑。

初出馬時の高額要求証言。

県職員のパーティー券問題。

海外視察の透明性不足。

取材制限をめぐる混乱。

それぞれは別の問題かもしれない。だが、県民から見れば、同じ匂いがする。すなわち、ポストと金、慣例と忖度が絡み合った古い作法が、福岡県政の奥に残っているのではないか、という疑いである。

これは福岡のイメージにとって、かなり痛い。

福岡は、成長都市として外に向けて発信している。副首都構想のような大きな話もある。アジアの玄関口、スタートアップ都市、観光都市、九州の中心。高島市長自身、今回の疑惑について「副首都を目指す大事な時期に、福岡の印象が悪くなるニュースで残念だ」と述べている。成長都市の表の顔を外に売り込んできた当人が、内側から出てくる昭和の政治に、足を引っ張られている。看板を掲げる一方で、内側から古い地方政治のような話が出てくれば、都市のブランドそのものが揺らぐ。

さらに問題なのは、地元企業にまで疑いの目が向きかねないことだ。

もちろん、福岡の企業がすべて政治と癒着しているなどと言うつもりはない。むしろ、真面目に商売をしている企業、政治と距離を置きながら努力している経営者、現場で汗をかいている人たちの方が圧倒的に多いはずだ。

だが、政治が不透明になると、その真面目な人たちまで巻き添えを食う。

行政に近い企業だけが得をしているのではないか。

パーティー券を買っている企業ほど仕事を取りやすいのではないか。

地元政治との距離が、ビジネスの成否を左右しているのではないか。

そういう疑念が生まれてしまう。

実際にそうであるかどうかではない。そう見えてしまうこと自体が、地域経済にとって損失なのである。政治の不透明さは、政治家だけで終わらない。行政への信頼を傷つけ、地元企業の信用を曇らせ、県外から来る人や企業に「ここは見えない付き合いが必要な土地なのか」と思わせてしまう。

だから、この問題の本質は、福岡県民の性質ではないと思う。福岡という土地が悪いわけでもない。福岡の企業や県民を一括りにして語るべきでもない。

本質は、成長する都市の表の顔と、県政の内側に残る古い作法とのズレにある。

福岡市や北九州市は、少なくとも表向きには、新しい都市像を打ち出そうとしている。高島市長や武内市長のように、メディア発信や都市経営の言葉を持つ首長もいる。一方で、県政の中心には、県議会、自民党県議団、県庁組織、地元団体、後援会文化といった、外からは見えにくい人間関係がある。

その見えにくい場所で、もし古い慣習が温存されていたのなら、ここで断ち切らなければならない。

ただし、この古い作法を前にして、県政の反応は割れている。県庁側の服部知事は、疑念を招いたことを謝罪し、職員数百人への聞き取りを進め、10月をめどに第三者による検証結果を出すとしている。金銭授受の報道には「わが耳と目を疑った」とまで述べた。一方、議会側の蔵内議長は「続ける」「十分だ」「権限がない」と、見直しそのものを拒んでいる。同じ膿を前にして、執行部は開けようとし、議会は閉じようとしている。この非対称こそ、いま福岡県政で起きていることの核心だ。

もっとも、知事の側も無傷ではない。その見直しは、部課長会や契約手続きといった県庁の内側に留まっている。吉松県議は「知事も議会も、過去のことは検証しようとしない」と批判している。開けようとしている、とは言っても、どこまで奥まで開けるのかは、まだ分からない。

その意味で、服部知事の責任は重い。

県議会は知事の部下ではない。地方自治は二元代表制であり、知事が県議会に直接命令できるわけではない。そこは制度上、切り分ける必要がある。

しかし、県職員の部課長会費が政治資金パーティー券購入に使われていた問題がある以上、「議会の問題です」だけでは済まない。服部知事自身、6月1日の会見で、県職員の意識の中に忖度や漠然とした不安が「澱」のように沈んでいた、と認めている。県庁の内側に、議会への過剰な配慮が溜まっていたことを、知事は自分の言葉で認めたのだ。ならば、それを掬い出すのは、知事の仕事だ。

やるべきことは、はっきりしている。

県庁側の慣習を洗うことだ。

誰が会費の使い道を決めたのか。

職員は本当に断れる空気にあったのか。

議会対応の名の下に、どこまで過剰な配慮が行われていたのか。

議員への案内、祝賀会、パーティー券、視察の随行。同じ構造が、別の場所にもなかったのか。

ここを調べなければ、県民の不信は消えない。

服部知事は、派手な政治家ではない。高島市長や武内市長のように、前面に出て都市の物語を語るタイプでもない。むしろ、県庁の中で行政を回してきた人である。

だが、今必要なのは派手さではない。逃げないことだ。

行政を知っているなら、どこに問題が埋まっているかも分かるはずだ。どの慣習が危ういのか。どの関係が県民から見て説明しにくいのか。どこを開ければ、何が出てくるのか。

それを知る人間だからこそ、膿を出し切る覚悟が問われている。

この問題を、誰か一人を処分して終わりにしてはいけない。県民が知りたいのは、単なる犯人探しではない。なぜそんな慣習が続いたのか。誰が利益を得て、誰が断れず、誰が見て見ぬふりをしたのか。そこまで見なければ、信頼は戻らない。

福岡に必要なのは、イメージ回復のための言葉ではない。

県民が見えなかった場所に、光を当てることだ。

成長都市を名乗るなら、政治の作法も成長していなければならない。

福岡が本当に次の段階へ進めるかどうかは、この問題をどこまでクリーンに処理できるかにかかっている。ここで曖昧にすれば、「やはり福岡県政は古い」と見られる。逆に、ここで徹底的に膿を出せれば、福岡は単なる成長都市ではなく、古い政治文化を断ち切った地域として、一段上に進めるかもしれない。

今問われているのは、福岡の勢いではない。

その勢いにふさわしい透明性を、福岡県政が持てるかどうかである。
第3回 日章丸は何を運び、何と戦ったのか

――石油だけではない、封鎖と圧力の海を越えて

日章丸事件の核心は、単に石油を運んだことではありません。
本当に重要なのは、他が手を出しにくかった石油を、出光が実際に船で運び切ろうとしたことにあります。

1953年3月23日、日章丸は神戸を出港した。
出光興産の創業者紹介では、この出航は極秘に進められ、行き先を知る者もごく限られていたとされる。しかも、出光側は航路上の危険地点を慎重に調べ、英国海軍の動きを強く意識していた。これは普通の輸入船の出航ではない。最初から、政治的な緊張を帯びた航海だったのである。

日章丸が積みに行ったのは、もちろんイラン産石油である。
だが実際には、この船が運んでいたのは石油だけではなかった。そこには、英国が押しつけようとした封鎖を破る意味があり、イランにとっては「まだ石油を売れる」という希望があり、日本にとっては「メジャー以外からでも資源を確保できる」という可能性がかかっていた。だからこの航海は、商売であると同時に、最初から強い政治性を帯びていたのである。

日章丸が向かったアバダンは、当時のイラン石油の象徴的な拠点だった。
国有化後のアバダンは、ただの積出港ではない。イランの主権回復の象徴であると同時に、英国の反発が最も濃く表れる場所でもあった。米国務省のFRUSによると、イラン社会では石油国有化が外国支配に対する勝利として受け止められていた。そう考えれば、アバダンは単なる港ではなく、その勝利を目に見える形で示す舞台でもあったのである。そこへ日本の一民間企業のタンカーが入ること自体が、すでに大きな意味を持っていた。

しかも、この航海には現実の危険があった。
出光興産の公式説明では、英国海軍による拿捕を避けるため、慎重な調査と行動が重ねられたことが強調されている。ここで重要なのは、出光が最初の挑戦者だったわけではない、という点である。日章丸以前にも、イラン石油を運び出そうとした試みそのものは存在していた。だが、それらは途中で止められたり、交渉が実際の取引に結びつかなかったりして、多くは実を結ばなかった。つまり、考えるだけなら他にもできた。特別だったのは、本当に船を出し、積み込み、持ち帰り、日本国内で流通まで持ち込もうとした点にあった。

この点を踏まえると、アバダンでの日章丸歓迎の意味も見えてくる。
イランが日本だけを特別扱いしたというより、売れない石油を前にして、実際に買いに来る相手そのものが貴重だったのである。口先で関心を示す相手はいても、本当に船を出し、積み荷を日本へ運び出そうとする相手は多くなかった。だからこそ、日章丸の来航は、単なる一企業の商談以上の意味を持った。イランにとってそれは、「今度こそ本当に外へ出せるかもしれない」という期待を伴う到着だったのである。

そして日章丸は、実際にアバダンへ入り、石油を積み込んだ。
出光の創業者紹介では、この来航は現地に歓迎され、積み込みも成功したとされる。国有化後のイランは、石油を持ちながら売れない状態に置かれていたのだから、実際に買いに来る船が現れた意味は大きかった。日本側にとっては供給ルートの確保であり、イラン側にとっては孤立の突破口でもあった。両者の利害が一致したからこそ、この航海は成立したのである。

だが、本当の意味で事件となるのは、その石油が日本へ戻ってからである。
日章丸は川崎に到着し、歓迎を受けたとされるが、重要なのはその先だった。英国側は、海の上で止めきれなかった貨物を、今度は日本国内で止めようとする。ここで事件は、海の上の緊張から、法廷の争いへと移っていく。つまり日章丸事件は、海運の話で終わらず、所有権と正当性をめぐる法の事件へと姿を変えたのである。

ここで見えてくるのは、日章丸が本当に運んだものは、石油だけではなかったということだ。
それは、欧米メジャーの外側からでも資源調達が可能だという実例であり、イランにとっては「まだ市場とつながれる」という象徴であり、日本にとっては「既存秩序の外にも道がある」という証明だった。日章丸が運んだのは、物資であると同時に、一つの可能性でもあったのである。

言い換えれば、第2回で見た「危険な仕入れ先探し」は、この第3回で初めて現実の形を取る。
英国が封じ込めようとしていたイランの石油に、出光は本当に手を伸ばし、本当に船を出し、本当に日本へ持ち帰ろうとした。だからこそ、この航海は単なる輸送ではなく、事件になったのである。

次回は、英国がなぜわざわざ日本の裁判所で争ったのか、そしてなぜそこでも日章丸を止められなかったのかを見ていきたい。
海の上で始まった事件は、ここで法と主権をめぐる争いへと姿を変える。
第2回 なぜ出光はイランへ向かったのか

――なぜ出光の仕入れ先探しは事件になったのか

出光は、メジャー以外の仕入れ先を探していただけとも言える。
だが、その行き先が英国の封じ込めていたイランだったことで、この話は単なる調達では済まなくなった。

戦後の日本は石油を必要としていた。
だが、その流れの主導権は日本の側にはなかった。石油の供給は欧米メジャーが握っており、日本側の会社は、その枠の中で販売や流通を担う立場に置かれていた。出光もまた、その一社だった。戦後の出光は、主要な石油供給業者の一つとして米国産ナフサや高品質ガソリンを輸入し、日本国内で販売していた。つまり出光は、単なる「卸」というより、日本市場側の販売・供給網を担う石油会社として動いていたのである。

では、なぜそうした日本側の会社が必要だったのか。
戦後直後の日本市場はまだ再編の途中にあり、海外メジャーが最初からすべてを自前で押さえるより、日本国内に足場を持つ会社を通して売るほうが現実的だったからである。だが、その関係は長くは続かなかった。やがて米国の大手石油会社は、日本市場へ直接売ったほうが利益になると判断し、出光のような国内販売会社に油を回す意味は薄れていった。

出光はもともとカリフォルニアから石油を買っていた。
だが、その供給が細ると、同じ米国側の別ルートとしてヒューストンへ動き、さらにそこでも十分な安定が得られないと、今度はベネズエラへと活路を求めた。つまり出光は、売ってくれる相手を次々に探し直していたのである。だが、どこへ移っても、結局はメジャーが握る国際供給網の中にいることは変わらなかった。価格も数量も継続性も、結局は外側の論理に左右される。そこに、出光の弱さがあった。

そのとき出光が行き着いたのが、イランだった。
1951年、モハンマド・モサデク政権の下で、イランは石油産業の国有化を断行する。米国務省のFRUSによると、その背景には、英国が長くイラン石油の主導権を握ってきたことへの強い反発があった。石油はイランの土地から出るのに、その利益と支配の多くは英国側にある。そうした不均衡に対して、「自国の資源は自国で取り戻すべきだ」という国民感情が高まっていたのである。イラン国民にとって石油は、ただの輸出品ではなかった。国家の名誉や独立そのものと結びついた存在だった。

当然、英国は激しく反発した。
英国にとって AIOC(Anglo-Iranian Oil Company、英国系のアングロ・イラニアン石油会社)の権益喪失は、企業の損失にとどまらない。長く築いてきた政治的・経済的影響力の後退そのものでもあった。しかも、ここでイランの国有化を事実上認めてしまえば、「産油国が外国資本の権益を取り戻す」という前例になりかねない。だから英国は、イラン石油を市場から締め出し、国有化を成功例にさせない方向へ動いたのである。米国側の公文書でも、この問題がイラン一国の内政問題ではなく、海外投資の前例や国際石油秩序に関わるものとして見られていたことが示されている。

ここで、出光の事情とイランの事情がつながる。
出光はメジャー以外の仕入れ先を探していた。イランはメジャー支配の外で石油を売れる相手を探していた。この一致だけを見れば、たしかに商売の話である。
だが問題は、その相手が英国が封じ込めようとしていたイランだったことだ。普通なら、そこには近づかない。法的リスクも外交的圧力も、政治的な火薬臭さも強すぎるからである。だから日章丸事件の特異性は、出光が代替の仕入れ先を探したことにあるのではない。他社も考えたかもしれないことを、本当に単独で実行したところにある。

ここで、もう一つ疑問が出てくる。
出光以外にも日本側の会社はあったはずなのに、なぜ出光だけがそこまで踏み込んだのか。なぜ競合と協力してタンカーを出し、リスクを分け合わなかったのか。
少なくとも確認できる範囲では、イラン側は当初、出光を信用していなかった。すでに他国企業との不発な交渉を経験しており、出光も海外ではほとんど無名の中規模会社にすぎなかったからである。にもかかわらず、話をまとめて実行まで持ち込んだのが出光だった。しかも出光は、当時としてはかなり大きな自前タンカー日章丸を持っていた。つまり、共同でリスクを薄めるより、自前で踏み切るだけの設備と意思を持っていたと見るほうが自然である。

もちろん、それは無謀さとも紙一重だった。
イラン産石油を買うということは、そのまま英国の反発、法的リスク、外交的圧力を引き受けることでもあった。だが逆に言えば、そこまでの危険があるからこそ、共同歩調は取りにくい。誰か一社でも怖気づけば話は止まる。そうした中で、出光は単独で踏み切った。だからこの話は、単なる仕入れ先探しでは終わらない。他が手を出しにくい、というより、手を出せない石油に、本当に手を伸ばしたという点にこそ、日章丸事件の強さがある。

ここで大事なのは、出光が最初から「イランこそ理想の相手だ」と考えていたわけではない、ということだ。
むしろ、通常の調達ルートが細り、既存秩序の中で身動きが取れなくなっていく中で、イランが危険だが無視できない相手として浮上してきた、と見るほうが自然である。そこには理念もあったが、同時に切実な事情もあった。理想と現実の両方が重なったところに、日章丸への道が開けたのである。

さらに言えば、この構図は今の世界とも驚くほどよく似ている。
イランが西側と対立し、エネルギー供給と海上輸送が安全保障問題になる。どの航路を通るか、どこが chokepoint か、誰がどの制裁に縛られるかが経済そのものを左右する。日章丸事件が今も現在形で読めるのは、そのためである。もちろん1950年代と現在は同じではない。だが、イランをめぐる対立がエネルギーと海運の問題へ直結するという骨格は、今も変わっていない。

ただ、この段階ではまだ、出光は何も勝ち取っていない。
イランへ向かう決断は大胆だったが、成功が約束されていたわけではない。その先には、実際の航海の危険、英国海軍への警戒、法的対立、日本政府との距離感など、さらに厄介な問題が待っていた。
だが逆に言えば、その危険を承知でなお進んだところに、この話の強さがある。それは、よくある卸売競争ではない。メジャーが支配する石油秩序の外へ、単独で現実に踏み出した試みだったのである。

門司で始まった商いは、この時点で完全に世界の石油地図の上に現れた。
港町の現場感覚から出発した会社が、ついに帝国の残影と資源ナショナリズムの衝突点にまで乗り出したのである。出光がイランへ向かった理由は、理想だけでも、金だけでもなかった。既存の秩序の中では買う側にほとんど自由がない。その現実そのものが、彼らをそこへ向かわせたのである。

次回は、日章丸が実際に何を運び、どんな危険をくぐり抜けて日本へ戻ってきたのかを見ていきたい。
そこでは、この事件が単なる輸入話ではなく、海の上の政治事件だったことが見えてくる。
第1回 門司から始まった石油の物語

――出光佐三と日章丸事件の原点

出光佐三というと「日章丸」が有名ですが、その前に知っておきたい原点があります。
それは、門司という港町と、泥まみれの仕事を避けなかった会社の気質です。

出光佐三という人物を語るとき、よく語られるのが「泥さらい」の話である。
戦後、旧海軍の燃料タンクの底に残った油を回収する仕事を、出光は引き受けた。若い社員たちは、機械では取りきれない残油を手作業でさらい続け、長い時間をかけて大量の油を回収したという。これは単なる苦労話ではない。厄介で、手間がかかり、しかも見栄えのしない仕事を避けない。その会社の気質が、ここにはよく表れている。

出光佐三は、福岡県宗像郡赤間村、現在の宗像市赤間の生まれである。
ただし、出光という事業の原点になったのは門司だった。出光興産の公式沿革でも、1911年に門司で出光商会を創業したことが明記されている。つまり、佐三にとって赤間は生まれた場所であり、門司は事業を始めた場所だったのである。

では、なぜ門司だったのか。
それは、当時の門司が、ただの港町ではなかったからだ。九州北部の石炭が集まり、大陸航路が伸び、海運と商社の動きが重なり合う。港そのものが、物流と産業が交わる場所だった。石油や潤滑油のような産業用資材を扱うには、これ以上ないほど現実的な土地だったのである。門司は地方都市でありながら、同時に外の世界につながる入口でもあった。

しかも、そこで始まった商いは、決して大げさなものではなかった。
出光の創業者紹介をたどると、佐三は大会社の一員として一部分を担う道ではなく、小さな現場で商売全体を見る道を選んでいる。門司で始まった仕事もまた、港と船と燃料に近い、きわめて実務的なものだった。漁船向けの軽油販売、輸送の工夫、供給方法の改善。派手さはないが、そこには現場で考え、現場で動く感覚があった。

この「海と現場に近い」という性格は、後の日章丸事件を考えるうえで非常に大きい。
石油は、ただ仕入れて売れば終わる商品ではない。どこで確保するのか。どう運ぶのか。誰が海を押さえているのか。どの流れに誰が値段をつけているのか。石油を扱うということは、早い段階から物流と国際関係に触れるということでもある。門司で始まった商いは、小さく見えても、最初からそうした世界の入口に立っていたのである。

そして佐三自身も、ただの小売商人のままで終わらなかった。
公式の創業者紹介を追うと、満鉄向けの寒冷地用車軸油、計量装置付きの配給船、朝鮮での高値販売是正など、時代ごとに仕事の形は変わっても、一つの姿勢だけは変わっていない。与えられた流れに従うだけではなく、自分たちで流れそのものをつくろうとする姿勢である。そこに、後の日章丸につながる輪郭が、すでに見えている。

ここで、冒頭の「泥さらい」の話がようやく意味を持ってくる。
泥さらいは、それ自体が主題ではない。重要なのは、そこに表れた行動原理である。整った条件を待つのではなく、残り物でも、泥まみれでも、必要ならそこから立ち上がる。誰かが安全な道を用意してくれるのを待つのではなく、自分たちで道を探す。そういう感覚があったからこそ、後に国際政治のただ中で、常識外れに見える決断が可能になった。日章丸事件は、その延長線上に現れたものだったのである。

1951年にイランが石油産業の国有化を断行すると、英国との対立は急速に深まり、イラン産石油は国際市場から締め出されていく。そうした中で、出光は1953年、自社タンカー日章丸でイラン産石油を直接日本へ運び込んだ。出光の公式沿革は、この出来事を、メジャーに屈せずイランから直接輸入した転換点としてはっきり位置づけている。門司で始まった小さな商いは、この時点で世界の石油秩序そのものとぶつかる場所まで来ていた。

こうして見ると、門司で始まった商いと、イランまで届く行動の間には、一本の線が通っている。
港で始まり、船に近く、供給の流れを自分たちで握ろうとし、厄介な仕事を避けない。そういう会社だったからこそ、世界の石油秩序が揺れたときにも、「では自分たちはどう動くか」と考えることができたのである。これは単なる企業美談ではなく、出光という会社の成り立ちそのものから見えてくる話だ。

しかも、この話は過去の出来事として片づけられない
イラン、海上輸送、海峡、国際圧力、エネルギー安全保障。今のニュースに並ぶ言葉の多くは、すでにこの事件の輪郭の中に見えている。だから日章丸事件は、古い企業史としてではなく、今を読むための前史としても意味を持つのである。

次回は、その門司から育った出光が、なぜわざわざ最も危険な相手の一つだったイランへ向かったのかを見ていきたい。
そこには、理想だけでは片づけられない、戦後日本の石油事情そのものがあった。