タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -190ページ目

願望の現実化Ⅱ 願ったことは叶う、のか

承前)たとえば恋愛のことを願ったはずなのにうまく行くのは仕事ばかりというとき(もちろん心底では「本当は望んでいない」意識が邪魔していることもあり得ますが)その仕事の好調さが自信や魅力、あるいは出会いのチャンスを増大させて思いがけない形で恋がやってくる、というようなケースもあります。人生を大きく好転させたいと念じた途端に病気になって入院した先で自分に転機をもたらす出会いが起きることもあります。何がどうつながっているのか自分では見えないことが多いのです。それをうまくつなげていくためには以前述べた「ポジティブ思考」が必要になりますが、今の流れが良い方向にいっているのかどうかリーディングによってチェックすることももちろん可能です。

とにかく一度何かを願ったならば、不安や焦りを抱かずにリラックスして生活し安心と信頼を持ち続けること。力んで「どうしてもこうなって欲しい!」という姿勢ではうまく行きません。ほかにもいくつか秘訣があるのでご紹介します。

何か実現して欲しいことを願った場合、それに関して今できることを探して進んで実行すること。どんな小さなことでも構いません。初めからうまく意識が変化すればこれは自然に「見つかり、やる気になる」ものです。しかし、さしあたって直接関係ありそうなことがどうしても見つからなければ、ほかのことでもよいから「これも自分の願望実現にどこかでつながっているのだ」という認識のもとに日々のいろいろなことを楽しく一生懸命行うのです。たとえば、自分で事業を起こしたいのだがお金もないし何をしてよいか皆目見当がつかない、という場合にはとりあえず現在の仕事を今まで以上に真剣にやってみる。全然関係ないように見えても「楽しく生き生きと仕事に取り組む」という波動の意識を作ることが効果をもたらすのです。家族どうしの関係改善をしたい、と望んだがあまりにもこじれているのでどこから始めてよいかわからない、というときには毎日の家事を今までにないくらい心をこめて行う、とか。いずれの場合も大事なポイントは「一生懸命、かつ楽しく」やることです。この気持ちが意識の波動を高めて知らず知らずのうちに良い変化をもたらすことにつながるからです。つまり、まだ実際には何も変わっていないのだけれど自分自身は何だか楽しく安心した気分になってきたならば、それはよい方向に行っているというサインだと考えられるのです。そのまま進めていけば、どのようなプロセスを経るかはわかりませんが、次第に望むような現実ができてくるというわけです。

また、何かを願うときに「否定的な言葉」を使うと逆効果になるというのも良く知られていると思います。例えば、「失敗したくない」「振られたくない」だと、まず「失敗」「振られる」という言葉が刻印されるわけです。或いは、それらは根底に「私は失敗するかもしれない」「振られるかも」という怖れ=マイナスの願望があることを示しているので、当然そちらのほうが実現されることになります。「病気を治したい」というのも「病気」という言葉があるため同様の理由で要注意とされています。これは「健康になりたい」あるいはただ「治りたい」というような表現にすれは大丈夫です。

論外なことですが、「あの人の仕事が失敗すればいいのに」「離婚すればいいのに」などと他人について良くないことを願えば、それは自分のこととして現実化してしまいます。すなわち失敗したり別れたりするのは「あの人」ではなくて「あなた」になってしまうのです。逆に他人の幸福を願えばそれは「あなた」のこととして現実化する、とも言えます。

次回も、この「秘訣」の続きをお話します。(続く)

願望の現実化Ⅰ 願えば叶う、のか

潜在意識による願望実現の法則」というのはかなり前から人口に膾炙した感があるのでおそらく皆さんよくご存知でしょう。それでは、本当に「願ったことは叶う」のでしょうか?

これは「願った“つもり”では叶わない」「願わなくてもリアルに思ったことは叶ってしまう」と言えます。このあたりは以前のコラムで似たようなことについて何回か説明していますが、その願望が潜在意識にうまく刻印されるためには焦りや不安があってはならない(ひいては「期待」すらも障害となる)のです。すると焦りや不安の方が刻印されてしまい、効果がないどころか全く逆の結果が生じる場合もあります。潜在意識にとってこれら「焦りや不安をもたらすような出来事」のほうが「リアル」に受け止められるからです。「こうなったらどうしよう」と思っているとまさに「こうなったらどうしよう」という気持ちが更に強化されるような出来事が現実化してしまうというわけです。

何を望もうが、それを自分の潜在意識が「そうしましょう」と認め、許可を与えたことが現実化すると言うこともできます。ですから「願ったことは叶うのだ!」という信念を潜在意識レベルで強く持っている人にとってはそのことが、つまり「願いは叶う」が現実として経験されます。「運と意識」で述べたように「私には願いが叶うような価値がない」と信じている(?)人ならばそのとおりの現象が起こります。

願望の現実化はマジックでも何でもありません。何かに対して強い信念を伴った願望を持つならば、まず意識レベルでの変化が生じます。難しいことではありません。何もなくても何となく楽しくて充実した気分が続いた後に素晴らしい出来事が起きたり、別にいやなこともないのに漠然とした不安感が続いた後にショックなことが起きたり、ということは皆さんもきっと経験したことがあるはずです。ここで敢えて馬鹿げた例を挙げると「痩せたい」という願望が刻印されれば何もしなくても、或いは好き放題な食生活を送っていても自動的に体重が減っていくなどということはあり得ません。意識が変わることによって自然にそちらの方向に導かれていくのです。このプロセスでは全く予想外の出来事に見舞われたりしますが、それは願望の現実化に必要なものが次々と引き寄せられてくるからであって、後で振り返ってみるとそれらが見事につながって結実してきたことがわかるのです。

このことがわかっていないと、ちょっと望んですぐに効果が表れないから諦めてしまったり不安や焦りに見舞われてしまったりしてその「不安や焦り」のほうが自分にとってリアルになるためにうまく行かなくなり、「あんなの嘘よ」ということになる。ストレートにやってくるとは限らない、ということをお忘れなく。(この項続く)

なぜ生きる???Ⅱ

(承前)「なんのために生きるのか」「生きる意味とは」「生きがい」などについて人々が求める或いは期待する答えとしては、「魂を成長させる」「カルマを解消する」「幸せになる」「宇宙との一体化」「愛の実現」(→いわゆるアガペーであって「恋愛の実現』では断じてありません、念のため)「エゴを捨てて真我に至る」などが巷間出回っており、これらはみな大体同一のことを意味しています。まあそんなようなものだろう、と私も感じています。

ところが、上記の問いが個人的なものに、つまり「私は何のために生きるのか」「私の生きる意味とは」となった途端にそれらの「答え」もより個別的具体的内容になり、しかも大体何らかの物語性を帯びたものになるのです。

例えば何らかの能力によって世のために役立つとか何かを創造・表現するとか伝えるとか子供を育てるとか、もう本当にいろいろあるのです。もちろんこれらはリーディングの対象でもあり、そういうものは確かにそれなりの正当性があるので、クライアントがそれを知って役に立ったり救われたりすることも多く、従って私も依頼されれば喜んで応じてはいます。

しかし、生きていくためにこれらの答えを予め知っておこう、知っておかなくては不安で毎日の生活に支障をきたす、というのでは何だかあべこべのような感じがします。生きる意味や理由や目的がわからないからといって自暴自棄・自堕落な毎日を送ってしまう、というのはもう短絡的というより怠慢に近いことです。大体どうして「意味が見出せない」ことが投げやりにつながるのか、よく考えてみれば何の正当性もないわけです。前項で述べたように、本当は「意味」などなかったりわからなかったりするのかもしれない。その「わからなさ」を抱えて腹を括って生きることも可能であり、更に「わからないのに生きている!」というのを一種の神秘と捉えることもできるわけで、神秘なら畏怖の念が湧いたりもします。そうすれば自然と生きる姿勢や態度は決まってくるのではないでしょうか?


多分、人々が「生きる意味」を問う裏には自分が生きることの価値、というか「よりよく生きたい」という気持ちがあるのでしょう。この問いは、「よりよく生きるためにはどうしたらよいか」という倫理的なことを言っているのであって生存あるいは存在の意味を問うような実存的なものではないのかもしれません。これが前項で「半分は瓦解する」と書いたことのもう半分なのでしょう。

「だったら初めからそういえばいいのに、なんて面倒くさい書き方をするのだ」と思われるかもしれませんが、「よりよく生きる」を考えるに際して前項で述べたような、つまり「存在」や「生存そのもの」に果たして意味などあるのかどうかという理解が基盤にないとどうしても安直・上滑りになったり過剰に「自分の物語」つまり「自分探し」「前世探し」みたいなものを求めたりしがちなのです。自分という人間の意味だ価値だというものをやたらに強調する危険に陥ることもあります。これは、特にスピリチュアル方面の人々に見られる傾向です。これまで本当にどうしようもない生き方をしていた人が突如目覚めて「まともに生きよう」と決心するのだって、そのような基盤があるかないかで全然違った方向に行ってしまうこともあるのです。


「よりよく生きる」と一口に言うけれど、「よい」というのはどういうことなのか?今回冒頭に挙げた「よくある答え」には、真摯に取り組むならばこれらの検討や精査がおのづから含まれています。より良く生きるとはどういうことなのか、を考えつつ、また日常のさまざまなことから気付きを得つつ過ごしていく生き方を表しているとも言えるでしょう。

なぜ生きる???

先日、電車の中で前の座席の人の新聞に「なぜ生きる?」という本の広告が載っているのを見かけて少し気になりました。

「なぜ生きる」とは「何のために生きるのか」「生きる意味とは何か」つまり生きることにどんな理由・目的があるのかということでしょうね。今日この手のタイトルは非常によく見かけるものです。

私にはこれが明快であるようでかなり曖昧な問いであると感じられます。どちらかというと「なぜ生きる、と問うのはどういうことか」のほうが先だと思うのです。

まず、先進国・文明国の殆どの人々にとって「生きる」というのは「生活する」こととイコールに捉えられているはずで、それもその「生活」というものがかなり「何でもあり」状態なわけです。しかし、「生きる」という普遍的な現象・言葉をそのまま捉えるならば「何故生きる」という問いも普遍的なものでなければならないのであって、そうなると古今東西、現代でも世界には「生きる」ということがただ「生存する」でしかないような人生を送っている人々も当然いるわけですから、そこまで包含してより根源的なものとして考えなくてはいけないことになります。つまり、件の問いは「なぜ生存する?」になってしまうのです。

食べて寝て排泄して子供を作って、という本能だけの日々しかない、医療を含めた文明もなく或いは戦禍や貧困によって明日の命もわからず、などと先進国の人々からすれば「これなら生まれてこないほうが良かったのでは」と思えるかもしれない一生を過ごす人々も少なからず存在している。こういう人々、おそらく本能によって「なるべく死なないように日々頑張っている」ような人々にとって「なぜ生きる」或いは「なぜ生存する」という問いはどんな意味があるのでしょうか?


そもそも人は「意志によって」生きている=生存しているのか?細胞やら潜在意識に組み込まれた生存の意志というものならあるでしょうが、これは普通日々意識することなく過ごしているはずです。通常、人が「さあ今日も生きよう」とアタマ(mind)で決定していちいち充電だのネジを巻くだのなどの作業を行い・・ということはあり得ない。余命いくばくもない重病人にしたって「生存するため」というよりはむしろ「死なないため」にあれこれ治療努力をしているといったほうが正しいと思います。自殺したいと考えている人が「やっぱり今日も生きよう」というのも「死ぬのは止めておこう」なのであって、普通にしていれば人間、寿命が尽きるまでは特別意志しなくても生きているのです。

意志しなくても生きられて(生存できて)しまう以上、「なぜ生きる」という問いは半分瓦解する、意味をなさなくなります。何故生きるかわからない、生きる意味がわからないから自殺する、というのは論外です。「何故生きるか」もわからない以上「何故死ぬか」をわかるわけがない、つまりは生の何たるかがわからないのにそれが尽きるところの死がわかるわけもなく、それならば自分が全然わかってない「死」に向かえる理由など更にないからです。加えて、「自殺」という文化或いは概念を持たない社会も確かに存在することを考えても、この発想に普遍性はありません。


単に「生存」ということであれば、そこに意味などない或いは意味などわからないと言ってしまっても良いのでしょうが、「意味がない」から「虚しい、生きるに値しない」というのは先に述べたとおりあまりにも短絡的な発想です。

よく見かける「何のために生きるのか」「生きる意味」「生きがい」云々などということは、そう考えればかなりの文化を持ったところにしか生じない問いであり概念だとも言えるでしょう。逆から言えば、人間ある程度以上の文明文化が発達すれば大体こういうことを考えるに至るのでしょう。(この項続く)

ソウルメイトⅢ

(承前)またまた夢を打ち砕くどころようなことを言います。「ソウルメイト=幸せをもたらす相手」とは限らないと述べましたが、同じ「運命の糸の相手」であってもそれが「負のソウルメイト」とも言うべきケースが確かにあるのです。ある相手との関係でそれこそ魂レベル・霊的レベルに響くような辛い経験を、これでもか、これでもかというくらいの長く苦しい経験をする。「腐れ縁の相手」とも言えるでしょうが、これも自分に変容をもたらすきっかけとしてそれらの苦しい経験をしているのだという見地からすればやはり「重要な影響力を持つ相手」=一種のソウルメイトとなってしまう。つまり苦しければ苦しいほどその後の変容が大きいものになる。こういう場合、自分と相手との双方が一緒に変化してその後は良い関係になることもあれば、変化したとたんにお互いの役割が終わってしまい同時にその関係も終わるか変質することもあり、片方だけが目覚めてしまって相手を残して立ち去ることもある。これもどれが正しいとは決められない難しい問題です。


リーディングでこういうことに遭遇した場合、「さっさと断ち切るべき」と出ることもある一方で「苦しいけれど貴方にはどうしても必要なことだから頑張って続けてください、いついつ頃になればブレイクできるでしょう」と出ることもあります。ここには以前「運と意識」で述べたメカニズムも作用しているので、「意識を変えなさい、これはあなたにとってはもう不必要な苦しみです」なら「断ち切るべき」になるが、逆に「意識を変えるためにはこの経験を通過しなくてはならない」「今ここで中途半端に止めてしまうと、次もまた同じような経験を繰り返すでしょう」なら後者になる。人によりニュアンスが微妙に異なった形で現れます。もしもあなたがどうしてもこういう経験を避けたいなら、あらゆる機会を利用してまず自分の意識を見直し作り変える、という作業をしておくことです。


そのためには例えば、初めに挙げた(2)と(3)のケースを考えてみて下さい。これは、裏から見れば「出会う全ての人、関わる全ての人を自分にとってのソウルメイトにしてしまうこともできる」となります。つまり、どんな相手であってもたとえ短い間の関係であってもその人を「自分を変容させてくれる影響力を持つ、自分にとっての学びの教材」にしようと思えば、それは自分の姿勢しだいでできるのです。そういうつもりで日頃から人間関係を捉え自分を見直していくようにすれば、その後の大きな出会いがかなり良い方向に修正されてくるはずです。


最後に、「この人はソウルメイトかどうか」などと悩むのは全くのナンセンスです。そんなことを考える暇があったらまずとにかく自分をオープンにして誠実に相手と関わってみること。つまり相手や、相手との関係を自分の思い通りにしようという「操作」manipulationをしないで関わってみること。そうすればおのずとわかるでしょう。先に知っておく必要などありませんし、ましてや「出会い方」のマニュアルなど(出回っているようですが)あり得ようがないのです。