タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -188ページ目

明るい絶望 Ⅲ

(承前)絶望だの「救いがない」だの少々極端な言い方をしてしまいましたが、例えば「あるがままに生きる」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などと根底で通じていることだと思います。ということはつまり特別なことではなくて、古来から理法とか心得として受け継がれ行われてきたことでもあるのです。

以前から述べていた「希望を持ち続けてポジティブに生きる、前向きな信念を持つ」ことと矛盾するように見えますが、この二つはアプローチの仕方が逆なだけであって実は全く同じ状態を表しているのです。

両方とも、「期待しない」「執着がない」=「エゴが無い」ために中心が定まって全的にリラックスした状態です。単なる虚脱感ではありません。

ということは、絶望が極まった状態にある人、その境地を知るに至った人は却っていろいろなことができてしまったりすることもあるわけです。これは非常に逆説的で面白いところです。

一つの例ですが、戦争でそれこそ「奇跡的に生き残ってしまった」ような人が、自分の人生はあそこで一回終わったのだ、そこからは死んでもともとの人生、おまけの人生なのだからもう怖いものは無い、失うことを怖れない!という境地で生きて立派な仕事を成し遂げた。そういう人々が沢山います。その一方で戦争に負けたことで信じていたもの全てを失ったことに耐えられずその場で自殺したり自暴自棄の生き方を選んだりした人もいたわけですから、同じ境遇が同じ経験をもたらすとも限らないのです。

このような転換的気づきというのは努力によって、というか能動的に得られるものではない、というところが難しい。自分が空っぽになってこそ、そのスペースに「入ってくる」かの如くに得られるものです。気づきとか理解というのはおしなべて受動的なものなのです。そのためにできるのは自分という器を空にする日々の努力くらいでしょう。

ゆえに、「全的な絶望をすればいいことがあるのならやってみようかな」などということは不可能なのです。何故なら「いいことがある」「より良くなる」という目的が介在してしまっては完全な手放しの絶望にはなりえないからです。

どん底の状態、茫然自失の状態にある人が「この経験にもきっと意味があるはずだ、挫けずに頑張ろう」というのは正当なことですし私もクライアントに対してそのように申し上げ、更にその「意味」の内容までリーディングすることもあります。しかし、ここで述べている「全的な絶望」とは、そんな「意味」すら崩壊する極限状態です。この事態、この経験には何か意味や学びがあるのかもしれない、そんなものは全く無いのかもしれない、どっちだっていいのだ。あろうとなかろうと今はこれを受け容れるしかない。そういう感じです。意味や学びを「期待」してしまっているうちはどうしても堕ちるところまで堕ち切れない、陰が極まるところまでいかれないのです。

「期待」が無いのであれば、それらの意味や学びを信じて踏ん張ろう!という姿勢は正しい。ただ、期待でなくても「何故こうなるの?この経験の意味は何?何を学んでいるの?」ということにこだわりすぎ、それら理由や意味がわかるまでは前にも後ろにも身動きが取れない、というのなら、そんなものはさっさと手放してしまいなさい、忘れてしまいなさいと言いたい。今すぐわからなくたっていいではありませんか。先ほど述べたように、それらが「わかる」という一種の気づきは向こうからやってくるかの如くに得られるのですから、自分の準備ができれば悩まなくたってイヤでもわかるようになっているのです。先の「奇跡的に生き残ってしまった人たち」も「何故自分だけが?一体どういう意味があるのか」と初めは悩んだことでしょう。そして「わからない」という事態をそのまま受け容れて生きたのだと思います。「意味」は後からついてきたのでしょう。一方、スピリチュアルを標榜している方々の中には、辛い経験をしているときそれに無理やり自分勝手な意味づけをして自己満足に、それも下手するとエゴの満足に陥っている現象も見受けられます。こういう方々は間違っても「もうじたばたしても考えても無駄だよ、諦めるしかない」とは言えない、そんなのはスピリチュアルな考え方に反する!と思っているので誰かに言われても受け容れられない。その「諦め」こそ彼らが究極目的としているところの「エゴの手放し」につながるのに!こうして下手に意味を固定してしまったために今度は本当の大きな気づきを取り逃がすのです。ああ、なんて絶望的な人たちでしょう。

ここで述べた類の絶望が起こるきっかけはいろいろありますが、基本は「理解できない・認めたくない現実を認めて受け容れる」ということです。やってしまえば実に爽快!私が保証します。

明るい絶望 Ⅱ

(承前)前回、「救いなどは無いと知れ、諦めろ、絶望しろ」みたいな過激なことで終わってしまいましたが、ここからその詳細な説明を致します。

救いがない、それを求める必要が無い、のならば救いを求めるための努力もまた必要がなくなるわけです。というか無いものに向かって努力はできませんね。

一般的に言えば「努力」というのはとても重要で価値あることなのですが、これにもいろいろな種類があります。どんな状況であれ自分はこうするのだという自律的倫理性―これは簡単に言うなら、例えば「悪い」とされていることを「してはいけないから」しないのではなくて「したくないから」しない、というようなもの。抑圧がない状態です。故に他人にそれを強制する気持も起こりませんーに従って日々努力する、というこれは私から見るとより本質的な類のものです。何があろうがなかろうが日々精進、みたいなことですね。

もう一つの「努力」、こちらのほうが現代では普通のことだと思いますが、いわゆる何か「目標を達成するための努力」です。何かしら「達成すべき目標」がなければ成立しないものです。乱暴に言えば「その必要があるから、或いは頑張ればよいことがあると思うから頑張る」みたいなことです。じゃあ必要性や良いことがないのだったら、つまり報われないのだったら頑張らないのか?つまり自律的なものではあり得ないのです。

「救いを求めるための努力」というのは明らかに後者のほうですね。これがもはや必要なくなるわけです。前回の最後で「下手に絶望・諦めをやると危険」だと書いたのは、こういう類の「努力」がもはや不要になってしまったとき自分が今までしてきたことの全てが無駄だった、これからどうして生きていったら良いのか!?という心境になりーこれが通常の意味で「絶望」と呼ばれるものですーそのことに耐え切れずおかしくなる場合があるということです。

今までの全てが無駄であったとしてもそれが何だというのか?その事実すらも受け容れるくらいに「救いのなさ」「絶望」が徹底されていないとダメなのです。前回述べたように「陰」が極まらないと「陽転」しないからです。

たとえば・・自分の全人生をあげて心血を注いで神を信仰してきた、ところが「神は死んだ」とか「そんなもの初めからいなかったのだ」とわかってしまった。これは神でなくても、実現したい夢でもキャリアでもパートナー・ソウルメイトでも何でも当てはまるのですが、ここで人がとる姿勢は大体3つです。(1)「きかなかったことにして」以前と同様な生活を送る、(2)錯乱発狂するか自堕落になるーこれは「信仰すれば救われる」と、救いのためにつまり目標のために信仰努力をしてきたからこそですー(3)もう一つは「そういうことなら仕方ない」と受け容れる。無駄な抵抗をしない。というより、もはや抵抗することも、落ち込むことすらできないのだ、という認識に至ってしまうのですね。落ち込んではいけない、というのではありません。落ち込む余地すら残されていないのです。

すると、どうなるか。たとえ貴方の信じてきたもの全てが水泡に帰したとしても、依然として世界は存在し貴方は存在するではないか。日々の進行というものは相も変わらず続いているのです。ああ、こういうことだったのか!と、ここに深い驚きを覚えずにはいられません。

この「絶望が極まった状態」というのは、わからない人にとってはとんでもなく不自由なものに感じられるかもしれませんが、事実は正反対です。ある意味では自分を束縛するものがきれいさっぱりなくなってしまったのですから、ここにこそ「絶対自由」があるのです。

また、そんな「救いがない」ことがわかってしまえばさぞかし人は落ち込んで自暴自棄になって堕落するだろうと思うかもしれません。これも逆です。もし「落ち込ん」だり「自堕落」になるのなら、それはまだ諦めが悪い!絶望が足らん!ということなのです。

この「絶対自由」の状態にあれば自律的な倫理性というものがおのずから生じることになっているので堕落しようがないわけです。冒頭で一つ目の努力、として挙げた努力を自然にやるようになるのです。

陽に転じるほど陰を極められるか、そのことに耐えられるか、というのは結局その人がエゴを手放せるか、ということと殆ど同義なのだと思います。特に自分に関することで「意味が無い、価値が無い」という事実に耐えられないのは即ちエゴの作用なのです。

いずれにしろ、意識が「陰極」に至ってしまえばスッカラカンの青空みたいな清々しく力強い感覚が生まれます。この手の「絶望」「諦め」は断じて妥協などではありません。もっとトータルな何かです。それによってこれまでとは全く異質の世界、姿の違う世界が開けてくることは確かです。貴方も世界も依然として存在している、しかしその「在り方」が変容するのです。(この項続く)

明るい絶望 Ⅰ

これまでのコラムでは、あなた自身がより良く生きるためにはできる限りポジティブに前向きに物事を捉えて希望を持ち続けることが大切だと書いてきました。今回は一見それらとは矛盾することを述べます。

「どんなことがあっても希望を捨てないで」とか「救いがあると信じる」のは確かに大切なことである、というかそれが完璧にできるなら非常に望ましい姿勢であることは間違いありません。しかし、人が何故悩み苦しむかというとそういう希望やら救いやらを「信じ切れない」からなのです。誰でも思い当たることがあると思います。神頼みでも自分頼みでもポジティブ思考のアファメーションでも何でもよい、「こうなりたい、絶対に大丈夫だ」と思いたい、しかしその側から「でも本当に大丈夫だろうか」という疑問・不安が頭をもたげる。また、個々の問題についてではなくもっと大きな次元のこと、例えば自分の人生全体などを考えたときにも同じです。人が宗教やスピリチュアルなあれこれに興味を持ったりハマったりするのは「より良くなりたい」からですが、それもミもフタもない言い方をしてしまえば要するに「救われたい」からでしょう。「救い」という言葉が適切かどうかわかりません。「希望」とか「うまく行く方法」でも良いのですが、大体「成功哲学」でも「覚醒を求める」でも、これをやれば今までのいろいろな苦労から解放されるという発想からなされていることが殆どなので、ここはやはり「救い」と言ってしまいましょう。そういうあれこれは全て、どこまでも「救いがある」と信じているからこそ始めるものですね。そしてその反面、もしも救いがなかったらどうしよう、という不安が大なり小なり背中合わせに存在したりするわけです。そして現になかなか思い通りに行かないと「この宗教、このマスター、このワークではダメなのだ」と判断して別のものに行ったりすることも少なくありません。病気治療中の人が次々に病院や治療法を変えていくのと同じ構造です。

ここでない別のどこかに行けば、別の何かをすれば効果が出て救われる、どこかに何か自分を救ってくれるものがあるはずだ!これが本当に強固な信念になっている人はまだ良い。そこにこそ希望を持ちそれを心から信じて日々たゆまぬ努力ができるなら、いつか自分の外側の何かによってではない形で大きな気づきをー「ああ、そういことだったのか!」という気づきを得られる可能性が高いからです。しかし、初めから自分が何を求めているのかも良くわからないままにただ自分の精神の不安定さに突き動かされて何かに「おすがり」するような姿勢ならば多分どこに行っても何をしても大して変わらないでしょう。人間というものは何らかの信念或いは覚悟が固まらないと全的にリラックスした状態にはなれないからです。

ともかくも、救いがあるはずだと思うからこそそれが得られないときに悩み苦しむのならば、そこから抜ける方法は二つしかありません。一つは今まで述べてきたこと、つまり「自分は救われるのだと確固たる信念を持つ」、信じきるということです。もう一つは、「救いがあるはず」という発想を捨ててしまうこと。そんなものはどこにもないのだ、救いも希望も「無い」のだ、「無かった」のだ。「無い」ものは求めることもできない。言い換えれば「求める必要が無い」のです、だって「無い」んだから!「無い」ものを「あるかも」と思うから苦しいんでしょう。本気で「無いのだ」と認められるか。これは「一歩の違い」のようですが、とんでもなく大きな違いです。

これはつまり良い意味で「諦める」「完全に絶望する」ということでもあります。一見すると非常に暗~いどん底でネガティブな感じがするでしょうが、ネガティブの極致であれば「陰極まって陽となる」です。全然暗くない、実はこれほど明るく晴れ晴れした状態はないのです。これはもっとも大きな気づきの一つでしょう。その代わり下手にやると錯乱発狂の危険があるかもしれません。本来こういうことは意志してできることではなく、また実際に体感として「わかる」人にしかわからないものなので今これを読んで全然ぴんと来ない方々は「そういうこともあるのか」くらいの気持ちで捉えておいて下さい。わからなくても覚えておいて損はないことです。(この項続く)

幸せになりたい!番外編

幸せである、ということはそこに不安がないことである、とは誰にでも納得できることだと思います。今回はその「不安」にフォーカスしてみましょう。

さて、前に成立条件を満たすことによって得られた幸せは絶対的なものではないと述べました。「絶対的」というのは別に「永遠に壊れることなく存続する」という意味ではありません。自分ひとりで何の条件にもよらず感じる「満ち足りた状態」の幸せとて、所有できないものである限りにおいて「固定され存続する」ものではない、このことにも既に触れました。

この場合の「絶対的ではない」というのは、言うならば「幸せの中にも不幸の影が差しやすい」或いは「同時に不安も生じる確率が高い」のような意味です。つまり「満ち足りて十全」になりにくいということです。

あなたが何かしら恵まれた境遇に身をおくことになり、なんてラッキー!幸せなんだろうと思うとき、同時に「こんなに幸せでいいのかしら」「いつまで続くのかしら」などの不安を感じることがあるのではないですか?得たことによって今度は失うことが怖くなるわけです。得られたものが大きければ大きいほど、失うことの不安や怖れも大きいものになってしまうでしょう。更に、人によっては求めていたはずなのにその「幸福」という状態に耐えられず、前項の最後で触れたように「なじんだ不幸・不安定な状態」を求めてしまうこともあります。

その人がもともと不安を感じやすいー意識の根底に不安があるーならば、どんな状態になってもやっぱり不安なのです。「不安な人」がお金持ちになっても恋人ができても意識が変わらない限りやっぱり「不安」なままなのは少し考えてみれば自明のことです。

「お金がないから」「恋人がいないから」不安定、だったものが今度は「お金があるから」「恋人がいるから」不安定になる、それだけのことなのです。


常に不安を感じてしまう人、意識の根底に不安がある人というのは換言すれば意識の根底に「私は求めるものを得られない」もしくは「その価値がない」がある、要するに自己評価が低いわけです。幸運にも求めているものを得たことにより自信がついてこれが変わればメデタシなのですが、そうならない人も結構います。こういう場合、まず間違いなく「自分自身に問題がある」。自分自身が「不安」という存在のしかたをしているのです。

結果としてこのような人々はどうやら安定を求める気持ちが異様に強くなるように見受けられます。何事に対しても「こうなることは絶対に確実だと知って安心したい」のです。そしてここが肝要なのですが、これらの人々の「安心したい」とは、基盤にある「不安」から生じている、ということです。不安から逃れたいだけなのです。ここが以前述べた「確実だと思って安心していればそれは叶うだろう」という、つまり「基盤に安心がある」こととの決定的な違いです。根底の不安が去らない限り何をやっても何を言われても穴が開いたバケツのごとく安心できないのですから、どんな状態になろうがそれで「十全に幸せ」になれる道理もありません。

加えて、「自分の将来が絶対確実にこうでなくては」と執着することで流れに身を任せることができなくなり、自然にしていればうまくいくであろうことを自ら潰してしまったりもするのです。

もしあなたがそのようなタイプであるなら、不安が生じたときにそれから逃れようとしてありもしない、また所詮信じきることもできない「絶対確実な安定」を求めたりしてはいけません。むしろ、ただその不安をそれとして受け止め眺めていれば良いのです。そうしている時、そのことにおいて貴方はなんと安定しているのです!これなら執着も生じません。


こうしてみると、幸せとは不安のない状態であるというよりもまず「執着のない状態である」と言う方がより正確な感じがします。

更に言うならば、幸せを求めることに執着すればそれによって不幸になる、となります。案外、こういうところに嵌ってしまう人もいるようです。

何にせよ、幸せとはどこまで行っても自分の中の問題なのです。


幸せになりたい!Ⅳ

(承前)何も起こってないのに今ここでいきなり幸せになることができる。幸せというものを、何かを経ることなく直接経験することができる。では、どうすればよいのでしょうか?

何らかの薬物を摂取すればそれなりに幸福感・多幸感を味わいハイな気分になることはできるでしょう。しかし、これら快楽の感覚はその人の存在の根底とはつながっていないのです。しかも、そのような薬物なしに幸せを味わうことができないのであれば、今度は幸せが薬物という「条件」によらなくては成立しないものに、つまりはそれらに依存したものに過ぎなくなってしまいます。

「今ここでいきなり幸せ」になるためのテクニックやマニュアルはありません。しかし、誰でもそうしようと思えばできることでもあります。とにかく試してみて下さい。というより、おそらく貴方も無意識のうちにそういう状態になっていることが既にあるはずなのです。よく見てみて下さい。それに気がつけばきっと貴方は驚くでしょう。

だいたい、「私の幸せは今ここじゃない遠くにある、あれとこれがうまく行くまでは幸せじゃない」と考えるような人は、そのような「何もなくても満ち足りている」瞬間を、もう必ずといっていいほど見逃しているものなのです。それどころか、ちょっといいことがあっても「まだまだこんなんじゃ幸せとは言えないわ」とその喜びを味わうことを否定する人さえいます。そういう人々は「見えない、味わえない」というただそのことにおいて不幸である、ということもできるくらいです。

自由自在に満ち足りた状態になれるようになったら、その上であれやこれやを改めて追い求めてみたって良いわけです。そのとき、貴方の求めるあれこれは既に「幸せになるために必要な条件」という枠から解放されているのです。

もちろん、自分で勝手に「なる」幸せだって継続的で固定しているものではありません。なぜなら、どういう種類のものにせよ「幸せ」は個人が「所有」するものではないからです。保管したりすることはできないのです。それに、何も一年中一日の休みもなくずーっと幸せであり続ける必要もないのです。

ここにまたひとつの落とし穴があります。幸せというのが何か「手に入れる」すなわち「所有できる」ようなものだと思い込んでいるならば、おそらくその人はずっと不満を持ち続けることになるでしょう。もしもその人が幸せを快楽と混同しているなら、ますます悲惨なことになるはずです。快楽もまた所有できるものでも継続的なものでもないからです。

幸せとは、何というか宇宙に遍く存在するような「満ち足りた状態」に自分がアクセスするとか溶け込むとか、そんなものであると私には感じられます。何かをしていたり誰かと一緒にいたりするときに「至福の時」を味わうことがありますが、これは求める努力によって得られるようなものではなくて自然に「生じる」とか「起こる」という感じがふさわしいものです。勝手に起こって過ぎ去っていくもの・・・慈雨のようなものだと感じられます。これをつなぎとめておくことはできないし、できないからこそ貴重で美しいのかもしれません。

幸せになりたい、というのはその内容は人それぞれであるにしても、実に実にシンプルな願望であり、その基本は「不安や苦しみがない状態」なのだと思います。そしてそれら不安や苦しみは自分の意識が作り出しているものだとすれば、幸せもまた自分の意識次第ということになります。更に、ある状態を幸せと名づけるのも不幸と名づけるのも、或いは初めから名づけないのも、前述したように本人次第です。

最後に少し怖いお話。「運と意識」で述べたことに関係していますが、幸せを求めているつもりで実は不幸を求めてしまっている人というのも存在します。或いは、せっかく目の前に求めていた幸せがあるというのに、それが自分にとって未知のものであるために却って不安になってしまい、それよりも「慣れ親しんだ不幸な状態」を選んでしまうのです。未知の幸せよりなじんだ不幸。こんなことに陥らないためには、やはり常日頃から「今ここで幸せになる」状態を体験しておくことが大切であると思います。