タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -186ページ目

何をしていても・・・Ⅲ

(承前)この原稿を書いている間に今回のテーマにピッタリの文章を見つけました。要約すると以下の通りです。

親切(kindness)というのは表面的な行為なので本心がどうであっても誰にでもできることであり、つまり相手の歓心を買うためとか利用するためにすることだってある。しかもわかりやすい。それに対して「慈悲(compassion)」というのは存在の質であり、為されるものではなくそういう在り方をしている人に生じるものである。しかも表面的には極めて不親切な様相を示すことも多い。

この「慈悲」にあたるもの、すなわち一見あなたにダメージを与えるような事柄が実はあなたのためだった、という現象について前回述べましたが、現象の裏にある本質というのは普通の目にはなかなか見えないものです。すると、その「見えない」のを良いことに相手を操作するのも可能になってしまいます。

乱暴に言ってしまえば、本質がエゴであるような人物が「真のマスター」のふりをするようなものです。

また、そういうのにコロッと騙される人というのはまず例外なく自分に欲があります。別に金銭欲や名声欲とは限らない。病気を治したいとか、或いは悟りを開きたいとか覚醒したいという「スピリチュアル」な欲もありますね。そこで「これをすればそうなれるよ」と言われるとかなり無茶なことでもしてしまうか、「そんなことできません」と言えば「それは貴方の中の抵抗です。自分の殻を破らなくてはいけません」と来るのでやはり逆らえないのです。

これだってもちろん「本当にその通り」という場合もあるわけで、それこそ「表面的な言動」では判断できないから難しい、そして判断できないからこそ巧みに悪用されうるのですね。

そのような言動をする本人が、自分の損得とかエゴの満足のためにやっているのかどうかということが判断の分かれ目になります。単に「利益を得る」というケースだけでなく、自分を偉くみせたい、感謝されたい、好かれたいなどというのは全てエゴの満足です。それを見分けるには、まず自分のエゴが消失していなくてはならないのです。そうなるとかなりの精度で「分かる」ようになります。たとえ同じ人であっても、平静な時には正しく見分けられるのに自分が何かで焦っていたりすれば「早く何とかしたい、わらにもすがりたい」という気持ちが出るので直感的判断力も鈍ってしまいます。

「表面的な言動では本質がわからない」というのは裏を返せば「根本的に本質をつかんでいる人ならば相手の表面的な言動がどんなであってもその人の本質が分かってしまう」ということにもなります。代表的な例が禅の公案です。

禅師は、弟子がどんな答えをしようともその本質的姿勢つまり「在り方」を見抜く力があるので彼らが本当に「わかって」いるかどうかが分かるわけです。夏目漱石が禅の修行みたいなことをしていた時、与えられた公案に対して「何一つ間違ってはいないような」もっともらしい内容の答えを述べたら師に一蹴されたというのは有名な話です。反対に、「分かったっ!!」と一言叫び、或いは何も言わずにバーッと立ち上がってしまっただけで「よろしい」と認められたという話もよくあります。「分かって」ない人がこの行為を真似ただけでは全然ダメだということは言うまでもありません。

更に怖ろしいのは、実はちっともわかっちゃいないのにこういう禅師の真似をするような輩がいる、ということ。また、一見「悟り」とは相反するようなーあくまで自分自身のものさしで見てー行為をしている禅師に対して「この人は悟ってなんかいない」と決め付けてしまう弟子もいるということです。このあたりは本当に微妙でマニュアルなど存在しようもありません。

「在り方」というのはくれぐれも「行為」「言動」ではなく、ましてや「表面的な結果」とは関係がないのです。

読んだ話ですが、面白い例があります。ある教えを受けた人が師のもとにやってきて感謝を述べた。「おかげさまで仕事も成功し健康になりました」。師は怒り「今まで一体何を聞いてきたんだ!」と一喝します。一方、また別のお弟子が感謝を述べにやってきました。この人は「相変わらず大変なこともあるし時には病気もしますが、おかげさまでそんなことがあっても落ち込んだり心配したりすることなく落ち着いて明るく過ごせるようになりました」。こちらに対しては、師は「貴方は本当にわかってくれたね」と言ったそうです。

前者の場合、つまり今はいいけれどもしもまた仕事や健康で問題が起これば落ち込んだり焦ったり、と元の木阿弥かもしれないからです。ひょっとすると「あの先生はダメだ、結局またこんなになっちゃったんだからあの教えは間違っていた」などと言い出すかもしれないのです。

もちろん、長期間にわたって何の変化も見られないならば「教え」か「やり方」のどちらかが間違っているのでしょう。しかし、「在り方=本質における変容」というのはインスタントな効果にとどまるようなチャチなものではありません。以前と同じ状況に見舞われても感じ方が全く違ってしまうのです。ということは対処の仕方もそれに続く結果も当然別のものになるわけです。或いは、以前と同じことをしていてもそこに流れているエネルギーのようなものが全然違ってくるのです。

いろいろなものを読んだり聞いたりして「なるほど、そうか」と分かった気になることはよくありますが、もしも「本当に」=「身体全体で実存的に」わかったならその時にこういう「在り方の変容」が起こります。これは教えられるものではありません。

このあたりのプロセスは、以前ブログでご紹介したオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」(「禅と弓道」)に詳しく書かれていますのでご興味のある方は是非読んでみて下さい。

何をしていても・・・Ⅱ

(承前)前回述べた「在り方」というのは言い換えればその人の本質の部分なのです。そして、その人の言動を表面的に捉えたのではなかなか本質を見ることができません。身近なことで言えば、相手に優しくしているのは「嫌われたくないから」という損得からなのか、それとも「愛」という在り方から自然に流出した行為なのか、表面的言動は同じでも内容は全く違います。極端な例をいくつか挙げてみましょう。

いくつかの宗教では「禁欲」を説いていますが、よくよく見ればこれは本来セックスにまつわること=悪、というのではなく、そういうものに関わっているとエゴまみれの執着になりやすくこれが覚醒・悟りを得ることの妨げになるから警戒しろというのであって、逆に言えば性的なことに関わっていてもそれが全く執着にならないのなら、まあ変な話いくらやったって構わないわけです。しかし普通の人はこの手のことがやはり執着になってしまう。だったら元を断つのが一番早くて確実だ、ということになったのでしょう。一切異性と関わるな、触るな、見るな。

これらの決まりごとを守っていたとしてもその人の頭の中が常に性的妄想でいっぱいだったりしたらどうでしょうか?表面的現象としては「異性に触れてもいない、できるだけ見ないようにしている」ことで禁欲がなされていても中身は煩悩と執着でいっぱいなのです。しかしながら、覚醒だの悟りだのというのは専ら内的・霊的な問題ですからいくら外面的に「禁欲」的生活を送ってみたところで内的に「煩悩まみれ」であればどうなるか?果たしてその人は清浄と言えるのか?

性だけではなく富も同様です。お金や裕福さそのものが悪なのでは決してないのですが、そのような現世的なものに「囚われ執着する」のが良くない。しかし、もっていればついつい余計な欲も出る。だったら全部手放してしまえ、という風になった部分もあるでしょう。財産を手放しさえすれば覚醒できる、などという考えから無一文になったところでそれは「覚醒したい」という欲から出た行為に過ぎず、本当にどうでもよくなって手放したわけではありませんね。ひどいケースになるとそうやって自分が無一文になったことを「どーだ、すごいだろう」と自慢したりする人もいますが、これではますますエゴを強化しているようなものです。

お金に執着がある、というのは「欲しい欲しい!」という方向だけではありません。「お金に執着してはいけない、欲しがってはいけない!」というのも逆方向の執着です。こういう人たちは何というか無理があり頑なな姿勢をとります。

それに対して、例えば金銭をどうこうするのが自分にはどうも向かない、とか自分にとって金銭は危険であるなどというように「おのれを知っている」からこそ距離をおくというのであればそれはただ自らを律しているだけであって、無理もなく頑なにもなりません。

(余談ですが・・「宝くじなんか絶対買いません」と言う人は欲がないと思いますか?どうせ当たらないのに千円以上も投資するのが勿体ないから買わないだけかもしれません。)

一般的には何らかの主義や美学を貫いた人のほうが「信念を通して立派だ」と言われますが、よく見るとそうとも限らないのです。主義や美学を貫いているところの自分が大事、というのが単なるエゴの執着に堕してしまっている場合もあるし、他人から軟弱者・裏切り者と後ろ指さされることをものともせず状況に応じて変幻自在に動ける人のほうが肝が据わっているのも事実です。「良い人でありたい」というのと「良い人に見られたい」というのは完全に違うことでしょう?

いわゆる「真のマスター」とされている人々は、相手のためになることであれば嘘もついたし一見教えと矛盾するような行為もしているのです。こういう人々は、それで自分が誤解され中傷されることを意に介さない、なぜならエゴが消失しているからです。現象としては「ひどいこと」をされたと感じていても、それが実は相手の深い愛情と思いやりから出ていた、というのは現実にもあるだろうし小説などにもいろいろ出てきますね。「いつかわかってもらえる」などと考えているのならまだまだ甘い!一生誤解されたままでも一向に構わない、くらいの覚悟がないとできないことでしょう。

かくいう私もそこまではとてもできません。クライアントの中には非常に執着やマイナスの思い込みが強い方もいます。こういう人のリーディングで、例えば恋愛問題なら、「これは頑張ればまだ可能性が十分ある」と出たとしてもそれをそのまま伝えるとますます執着が強まり、「可能性がある」と言われたにも拘らず余計に不安の塊になってしまう、可能性があると言われたからこそますます相手の言動に一喜一憂して不安定になるーその結果「頑張れば」うまくいったはずが却ってダメになる、という現象が起きることがあります。本人は「頑張って」いるつもりなのかもしれないが、実際にはただ悩み苦しんでエネルギーを消耗しているだけであり、全然「頑張り」にはなっていないのです。だったらいっそリーディングの結果とは逆のこと、つまり「これはもう絶対ダメでしょう、諦めなさい」と言ったほうが本人のためになるのではないか?そう思うこともあります。

しかし、さすがにそこまではできません。そのあたりはジレンマですね。

ところで、「真のマスターは相手のためを思えば嘘もつくし一見相手にダメージを与えるようなこともする」のは真実ですが、これが見事に悪用されるケースもあります。次回で説明いたします。(この項続く)

何をしていても・・・Ⅰ

前回までのコラムで度々「在り方」という言葉を使いました。よくわからなかった方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はこれに絡んだ話をいたします。

私たちは普段、他人の言動を見てその人を判断しがちです。もちろん、その人の言動にはその人自身が全て現れているとも言えるのですが、それら「言動」のどこをどう見ているか、理解の仕方も全く変わったものになります。

単純な例をあげましょう。毎週教会のミサに通い、毎日朝夕の祈りを欠かさず、慈善活動にも精を出し、まじめな生活を送っている人がいるとします。しかし、もしもこの人の心が恨みや怒りや他人への批判やその他ネガティブなものでいっぱいだったらどうでしょうか。この人は信心深いのか?本当に信仰生活を送っていたならそんなネガティブな要素が入り込むはずがないのであって、つまりこの人はやることなすことに拘らずネガティブな在り方をしている、と言えるのです。

聖書に出てくる「放蕩息子」の話も象徴的ですね。親に逆らわずひたすら良い子で真面目に働いていた兄と放蕩三昧の挙句に何らかの覚醒を得て改心して戻ってきた弟。父親は手放しで弟の帰還を喜び祝福し宴の用意をさせますが、面白くないのはこの兄です。自分は弟と違って今までずーっと真面目にやってきたのにそんなに祝福されたことなど一度もない!不公平じゃないか。と、こういう感じ方をしてしまう「真面目で良い子の兄」とサンザンな生活の果てにいろいろなものを洗い流して漂白されたごとくにスッキリした弟。さて、霊性や精神性が高いのはどちらか?要するに「何をしているか」という行動の表面だけ見ていてはわからないことが多いのです。

これまで何度となく触れてきた「意識を変える」というのはそのままイコール「在り方を変える」ということです。これが「変容」と呼ばれるものです。言ってみれば体質が変わるようなものなので、まず「感じ方」「受け取り方」が変わります。すると必然的にそれに続いて起こる行動やそれによる人間関係も変わってくる。経験全体が変わる、ということですね。

つまり、「在り方」というのがその人の経験することを決定するのであり、「在り方」とは「生き方」に先んじてあるものです。「存在すること」が「生きること」に先んじているのと同じです。

ところで、表面的な言動だけではわからないことが多いと書きましたが、例えば他人に対して何らかの「ふりをする」というのは自覚的に行うのであれば浮世の面倒を逃れられるという利点があります。大っ嫌いな人に対してもとりあえずにこやかに挨拶だけはする、とかいうのもその一つでしょうね。ただ、自分に対して「ふりをする」のがまずいのです。たとえ「ふりをしている」という自覚がなくても、本人の深い部分では「本当は違うんだ」とわかっているので更にそこに蓋をして「見ないことにする」。即ちこれが「抑圧」ですね。と、その人の在り方そのものが「自分に対して=人生に対して不誠実・大切にしていない」ものになってしまいます。こういう在り方が根底にあると理性も感性も鈍磨してしまい、その結果余計な苦労や悩みを抱える羽目にもなります。

他人は誤魔化せても自分は誤魔化せない、と言われますが何らかの信仰を持っている人やいわゆる昔ながらの素朴な常識を持っている人ならば「神さま」なり「お天道様」なりが見ている、という発想になるでしょう。「神様が見ているから良いことをしよう」と思ったとすると、そういう点数稼ぎのような発想も神の目には見抜かれていることになる。全て隠しようが無いのだ、逃げ場もないのだとわかれば却って清々しい気持ちになりませんか?

ああ、だがしかし、いろんな人がいるものです。何か嫌な目にあったときに本当は自分にも非があるにも拘らず「悪いのはあの人だ、私は悪くない。きっと神様は見ているわ」で自己正当化してしまったり・・これも抑圧の一つなのですけれど。

一体どうしてこうなるんだろう?多分、こういう人にとっての「悪いことをしていない」というのは、明らかに悪意を持って何かしたわけじゃないとか一般的に「悪い」と言われている行為―嘘をついたり盗んだり、とかーをしてはいない、という意味なのでしょう。「悪辣な行動」ではなくてもその状況において「不適当なこと」をしてしまったならそれは明らかに自分のミス、であり「是非」で言ったら「非」に分類されるわけです。「非」というのは「良いこと」よりも「悪いこと」に近いでしょう?このあたりは前回の「鏡現象」を参考にしてください。

ここで、例えば一見同じように「神」という視点をおいている人がいるとして、「神様が分かっているからいいのだ」と言ってそのことに執着せず自分の信念を通している人はそういう「在り方」なのだし、「神様が見ているから」と言いつつ内心「「あの人にはいつか天罰が下る」などとグダグダ執着している人はまたそういう「在り方」なのです。前者は他人の目など意に介していないが、後者は「神の目」と言っているわりに実は「他人の目」に左右されています。

いずれ項を改めて述べますが、「愛」というのも実はこの「在り方」の一つであって、「愛」という在り方をしている人ならば何をしようがしまいがそれらは全て「愛の行為」になります。単純だが深い問題です。(この項続く)

誰の問題?誰が問題?番外編

(承前)自分の心に映る他人の姿を自らの鏡として多くを学べるということについて述べてきました。この仕組みはその気になればもっといろいろ応用が利きます。

今回の一番目は、同じ鏡現象ではあるものの少し「変な鏡」です。現在の誰かの言動を過去の誰かと重ね合わせて見てしまうケース、とでも言えばいいのか・・たとえば貴方は昔、上司から苛められていた。今は環境もすっかり変わり別の上司についている。その人は別に貴方に意地悪などしていない。なのに貴方には彼(女)の言動がいちいち「私を非難しているのでは?嫌がらせなのでは?」と見えたり感じたりしてしまう。貴方の持っている鏡には「過去の映像」が貼り付いている。投影も反映も固定されてしまっているのです。これがきょうび俗に「トラウマ」といわれるものなのでしょう。恋愛でも、相手が普通のことをしているのに「はっ、私と別れたがっているんじゃないか」と見えてしまう。簡単に言ってしまえば「目の前の生身の相手が全然見えていない」わけです。貴方は幻影と格闘しているに過ぎない。一人芝居のように過去の経験を繰り返しているに過ぎない。こういう鏡に限り叩き割って然るべきものです。そもそも鏡としての正しい機能すら果たしていない欠陥品なのですから当然でしょう。「意識に刻印された設定」とほぼ同じ意味になりますね。

ところが更に怖ろしいのは、前回の「基本的鏡現象」にこれがミックスされて現れる場合があることです。貴方の前後か左右に複数の鏡があるような感じですね。人間というのは何て複雑なことが平気でできるのでしょう!初めの「感情的反応」は基本的鏡現象であり、ついで起こる発想がこの「映像が貼り付いた鏡」の現象。たとえば・・・本当は貴方の我が儘なのに鏡現象により相手が我が儘だと感じ「ひどい!!何て我が儘なの」と怒りに満ちた批判が生じる。一方、貴方には過去に「自分にひどいことをした相手に謝罪させ自分の主張を通させた」経験がある。誰かに「ひどい」と感じられることをされるときその過去の相手の映像が貼り付いた鏡が登場し、自動的に「謝罪させ言うことを聞かせる」ところまで映ってしまう。すると貴方は、目の前の相手に対しても「そうさせて当然だ」と思い込んでしまう・・などなど。

この「映像つき鏡」は、自分にそれがあると気づいてもすぐには叩き割れないかもしれません。しかし、これまで見てきた通常の鏡現象がわかってしまえば「映像つき鏡」に関してもかなりクリアに認識できるようになりますので、いきなり叩き割るのは無理でも「ちょっとどけて」おくことくらいはできるはずです。

さて、今まで「投影と反映によるさまざまな鏡現象」についてサンザン述べてきましたが、もう一つ書いておかなくてはならないことが残っています。

他人が自分を映す鏡になるのであれば当然その逆、つまり自分が誰かにとっての鏡になることもあるのです。すなわち、貴方を感情的にあれこれ非難する人は実はその人自身についてギャアギャアあるいはつべこべ言っているだけである、という現象です。とっくにこの「逆パターン」に気がついていた方もいらっしゃると思いますが、これを最後まで言わなかったのには理由があります。それは、一般的に人はまず自分のことがわからないと自分以外のことも本当には理解できないからであり、誰かに変なことをされるのは貴方のせいではなく単に貴方がその人の鏡になっているのですよ、と言ってしまうと自分のことを棚にあげて、「いかなる場合も私は悪くない、勝手に相手が私を鏡にしているだけだわ」という固定観念を作り上げ、その結果全く自らを省みず自分のことを知らないままに終わるという危険があるからです。従って、まずは「己を知る」ことを優先して考えてください。

また、相手から身に覚えのないことで意地悪をされたり非難をされたりしたときにそれが本当に「自分が相手にとって鏡の作用をしているだけなのか」あるいは「身に覚えがないと思っていたがやはり自分に何か原因があるのか」見分けるには、まず自分で自分のことをある程度以上理解していないとならないのです。

更に面白い(と言ってはなんですが)ことに、お互いがお互いを鏡にしてしまって感情的に批判しあうという現象も珍しくはないのです。一歩引いて冷静に見ればこれほど滑稽な有様もないのですが、これはお互いに「本当の生身の相手に向き合っていない」のに他なりません。自分のマインドというプロジェクターを通してスクリーンに映った相手の姿=実は自分の投影、に向かっているに過ぎません。

猛暑の折ですが、是非頭を涼しくしてじっくり見てみてください。そしてどんなことが見えても勇気を持ってそれを受け容れてください。人生がずっとシンプルになることでしょう。Keep a cool head!

誰の問題? 誰が問題? Ⅵ

(承前)前回は、鏡現象の具体例として特に恋愛場面において「自分が相手に対して抱く批判がそのまま自分にあてはまってしまう」ものをご紹介しました。これが基本形なのですが、他のヴァリエーションを挙げてみましょう。もちろん前回のものも含めて全て「恋愛以外」においても現れる現象です。

貴方が誰かから不愉快なことをされているとします。この相手との関係だけを見ると貴方は別に相手に対して同じことをしているわけではない。ところが、貴方がされているのと全く同じことをこの相手以外の誰かに対してやっているという場合があります。わかりやすいのは、貴方が自分の親に対して「私のことを全然認めようとしない」と感じているとします。ところがその一方で貴方は自分の子供に対して「どうしてそんなことするの?将来の役にも立たないし無駄だから止めなさい」などと思ったり言ったりしている、などのケースです。あるいは、誰かから手ひどいと思える冷たい仕打ちをされて傷ついたとする。ところが貴方も他の人に対して同じようなことをしている(或いはしていた)、などということもあります。どの場合も、貴方がそこまで不愉快な思いをしている、ということがポイントです。鏡現象でなければそれほど気にはならない、受け流せるものなのです。しかし、自分にもそういう嫌な部分があり、それを抑圧している=認識していない状態だと「たまらなく許せない」気持ちになるのです。ここに気づくと、貴方に不愉快なことをする、或いは過去に不愉快なことをした相手を理解できるように、ひいては「ありのままを受け容れる」こともできるようになりますし、そうすれば感情的な反応も出なくなるのです。これはいわゆる「赦し」と呼ばれるものの一つでしょう。この「赦し」に至ると、感情的反応が出ないばかりか、自分が知らず知らずのうちに同じことを他人にすることからも解放される場合があります。

極端なケースですが、自分の子供に対してついひどいことをしてしまう、頭ではわかっているのだがどうしても感情的になりすぎてしまう人が実は自分も親から同じことをされていたという話をよく聞きますね。こういうとき、自分も同じことをしているんだ!という鏡現象の気づきを得てもまだ自分の子供に対する感情的反応と行動がとまらないならば、それはその人が自分の親を受け容れていない、赦していないからなのです。ここをクリアできれば大抵は解消されていきます。

ここでは、誰かにされたことを全然関係ないほかの誰かにしてしまう、という部分がポイントです。

鏡を反射させる。鏡でもう一方の相手を照らして見る。するとそこにはやっぱり貴方自身が映っているのです。

こういう現象をカルマだとか因果応報だとかいうこともできますが、そのように見てしまうと解消するのがとてつもなく困難に感じられ、それがまた新たな悩みになる可能性があるのです。鏡現象だと捉えれば「わかってしまえばその場で瞬時に解消」ということも多いので私はこちらの見方をお勧めします。

次は、同じ鏡でも「今現在の貴方」が映っているのではなく過去の、それも「思い出したくないくらいダメだった頃の自分」が映るという現象です。いわゆる「昔の自分を見るようでいたたまれない」というものです。どうしてこの人に対してこれほどイライラするのだろう?貴方ってダメな人だ!といってやりたい衝動にかられるのだろう?要するに過去の自分を強く否定していて、その事実を抑圧しているのですね。「恥ずべき自分をなかったことにしたい」あまりに見たくない=否定・抑圧が起こるのです。ああ、私もこうだったのだとハッキリ認識してしまえばこれまた相手を理解できるし余裕を持って見られるようにもなります。もちろんその前に自分自身についてより深く理解できるようになっているのです。ここにおいてその「恥ずべき過去」が本当に「過ぎ去ったもの」という形で確立される、現在と連続しつつも非連続になるー言い換えれば現在に影響を及ぼさないものになります。

これもやはり親子関係において生じることがあります。自分の子供が、子供時代の自分とそっくりである。その頃の自分は辛かったり傷ついたりすることが多かった、などというときそれは「思い出したくない自分」の姿です。それを今頃になって目の当たりにしたら、目の前に「思い出したくない自分」が居てしまったらどうなるか?こういうとき、冷静でオープンな人なら自分の子供を通して子供時代の自分のことも同時に可愛がりそれによって過去の自分を癒していかれるのですが、前に述べたように「ガードが固い、要塞を築いている」タイプの人だと我を忘れてカーッときてしまい、過去の自分も目の前の子供も同時に傷つけるような行動をとることになるわけです。

ともあれ、今回の主題で私が言いたいのは「普通の日常生活からいかに多くのことが学べるか」知ってほしいということです。私は大変シツコイので次回に「番外編」を用意してあります。(この項続く)