何をしていても・・・Ⅲ | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

何をしていても・・・Ⅲ

(承前)この原稿を書いている間に今回のテーマにピッタリの文章を見つけました。要約すると以下の通りです。

親切(kindness)というのは表面的な行為なので本心がどうであっても誰にでもできることであり、つまり相手の歓心を買うためとか利用するためにすることだってある。しかもわかりやすい。それに対して「慈悲(compassion)」というのは存在の質であり、為されるものではなくそういう在り方をしている人に生じるものである。しかも表面的には極めて不親切な様相を示すことも多い。

この「慈悲」にあたるもの、すなわち一見あなたにダメージを与えるような事柄が実はあなたのためだった、という現象について前回述べましたが、現象の裏にある本質というのは普通の目にはなかなか見えないものです。すると、その「見えない」のを良いことに相手を操作するのも可能になってしまいます。

乱暴に言ってしまえば、本質がエゴであるような人物が「真のマスター」のふりをするようなものです。

また、そういうのにコロッと騙される人というのはまず例外なく自分に欲があります。別に金銭欲や名声欲とは限らない。病気を治したいとか、或いは悟りを開きたいとか覚醒したいという「スピリチュアル」な欲もありますね。そこで「これをすればそうなれるよ」と言われるとかなり無茶なことでもしてしまうか、「そんなことできません」と言えば「それは貴方の中の抵抗です。自分の殻を破らなくてはいけません」と来るのでやはり逆らえないのです。

これだってもちろん「本当にその通り」という場合もあるわけで、それこそ「表面的な言動」では判断できないから難しい、そして判断できないからこそ巧みに悪用されうるのですね。

そのような言動をする本人が、自分の損得とかエゴの満足のためにやっているのかどうかということが判断の分かれ目になります。単に「利益を得る」というケースだけでなく、自分を偉くみせたい、感謝されたい、好かれたいなどというのは全てエゴの満足です。それを見分けるには、まず自分のエゴが消失していなくてはならないのです。そうなるとかなりの精度で「分かる」ようになります。たとえ同じ人であっても、平静な時には正しく見分けられるのに自分が何かで焦っていたりすれば「早く何とかしたい、わらにもすがりたい」という気持ちが出るので直感的判断力も鈍ってしまいます。

「表面的な言動では本質がわからない」というのは裏を返せば「根本的に本質をつかんでいる人ならば相手の表面的な言動がどんなであってもその人の本質が分かってしまう」ということにもなります。代表的な例が禅の公案です。

禅師は、弟子がどんな答えをしようともその本質的姿勢つまり「在り方」を見抜く力があるので彼らが本当に「わかって」いるかどうかが分かるわけです。夏目漱石が禅の修行みたいなことをしていた時、与えられた公案に対して「何一つ間違ってはいないような」もっともらしい内容の答えを述べたら師に一蹴されたというのは有名な話です。反対に、「分かったっ!!」と一言叫び、或いは何も言わずにバーッと立ち上がってしまっただけで「よろしい」と認められたという話もよくあります。「分かって」ない人がこの行為を真似ただけでは全然ダメだということは言うまでもありません。

更に怖ろしいのは、実はちっともわかっちゃいないのにこういう禅師の真似をするような輩がいる、ということ。また、一見「悟り」とは相反するようなーあくまで自分自身のものさしで見てー行為をしている禅師に対して「この人は悟ってなんかいない」と決め付けてしまう弟子もいるということです。このあたりは本当に微妙でマニュアルなど存在しようもありません。

「在り方」というのはくれぐれも「行為」「言動」ではなく、ましてや「表面的な結果」とは関係がないのです。

読んだ話ですが、面白い例があります。ある教えを受けた人が師のもとにやってきて感謝を述べた。「おかげさまで仕事も成功し健康になりました」。師は怒り「今まで一体何を聞いてきたんだ!」と一喝します。一方、また別のお弟子が感謝を述べにやってきました。この人は「相変わらず大変なこともあるし時には病気もしますが、おかげさまでそんなことがあっても落ち込んだり心配したりすることなく落ち着いて明るく過ごせるようになりました」。こちらに対しては、師は「貴方は本当にわかってくれたね」と言ったそうです。

前者の場合、つまり今はいいけれどもしもまた仕事や健康で問題が起これば落ち込んだり焦ったり、と元の木阿弥かもしれないからです。ひょっとすると「あの先生はダメだ、結局またこんなになっちゃったんだからあの教えは間違っていた」などと言い出すかもしれないのです。

もちろん、長期間にわたって何の変化も見られないならば「教え」か「やり方」のどちらかが間違っているのでしょう。しかし、「在り方=本質における変容」というのはインスタントな効果にとどまるようなチャチなものではありません。以前と同じ状況に見舞われても感じ方が全く違ってしまうのです。ということは対処の仕方もそれに続く結果も当然別のものになるわけです。或いは、以前と同じことをしていてもそこに流れているエネルギーのようなものが全然違ってくるのです。

いろいろなものを読んだり聞いたりして「なるほど、そうか」と分かった気になることはよくありますが、もしも「本当に」=「身体全体で実存的に」わかったならその時にこういう「在り方の変容」が起こります。これは教えられるものではありません。

このあたりのプロセスは、以前ブログでご紹介したオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」(「禅と弓道」)に詳しく書かれていますのでご興味のある方は是非読んでみて下さい。