タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -185ページ目

ゆるせない?! Ⅱ

(承前)今回は、被害者というあり方が如何に当人にダメージをもたらすものであっても依然としてそれを捨てない人が多いのは何故か、ということについて述べましょう。初めに再確認しておきますが、ここでいう「被害者というあり方」は、事件や事故などで被害者という立場になってしまった人のことではなく、自分に生じたネガティブな感情を全て自分以外の何かのせいにする人、のことです。実際に何をされたか、ではなくあくまで感情的な部分に関わることなのです。

こういう姿勢を捨てない理由としては、まず「自分のことを正しい人だと思っていたいから」というものが挙げられます。先にも述べたように「被害者の姿勢」をとっている人々は不可避的に自己正当化の傾向が非常に強いのです。「私はこんなにひどい目に、不当な目にあっている」という考え方を捨てることはイコール相手が間違っているわけではない、悪いわけではないと認めることになりそれが許せない、悔しい!と思ってしまうのです。

しかし、「ひどい目にあった」と感情的にーここが、つまり「鏡現象」で説明したのと同様に相手に対して感情的批判が生じるかどうかがポイントですー怒りや不満を覚えるのは、実は相手に本当に非があるかどうかとは無関係なのです。そのように感じるのはもっぱら「受け手」のほうであるということをよくよく認識してください。自分に生じた感情は全て自己責任であるとわかっていればたとえ相手が本当によくないことをしたとしてもそのことに関して別の捉え方ができるようになります。つまり、本当に実害を被ったとしてもあまり感情的にならずに済むのです。

また、相手を責めたり批判したりする気持を無くすことがイコール相手を利することになるとも限りません。別に相手に向かって機嫌をとれとか頭を下げろとか言っているわけではないのです。ただ、自分の心の中から「相手のせいにして非難する」気持を無くせばそれで済むことです。それで相手が「得をする」わけでもないし相手の正しさが証明されるわけでもありません。このあたりは冷静に考えればすぐわかることなのですが、感情的になるとどうしても混乱してしまうのです。例えば、本当に実害を被った場合なら泣き寝入りをする必要はなく、それなりの措置をしなくてはなりませんがそういう時でも感情的にならずに行なうことは十分可能なのです。しかし、ひどい場合になると例えば単に足を踏まれたとか何かのことで叱責されたというだけで相手の人間性まで否定するような批判のしかたをする人もいます。

単純に「ひどいことをされた」と決め付ける前によく見てみましょう。たまたま相手がしたことがたまたま貴方にとって面白くないことだった、というだけの話も結構ありますし、或いは相手が自分の利害で動いた結果が貴方の利益を損なう結果になったのであったとしても貴方は貴方の利害で動いているわけですから、時と場合によっては関係が逆転したかもしれないのです。

いずれにしろ「自分を正しい人だと思っていたい」のは自由ですが、その場合貴方は必ず自分の幸せを犠牲にすることになるでしょう。

被害者という姿勢を捨てられないもう一つの理由として挙げられるのは「自分の真実を見るのが怖いから」というものです。といってもこれは一番目の理由と内容的にはほぼ同じことです。私はひょっとして正しくなかったのではないか、自分の捉え方が間違っていたのではないか、と考えてまさにその通りだったらそれは「自分を否定する」ことになってしまう、それが怖いのです。

しかしこれは完全に転倒している。何故ならここで否定されるのは「正しくなかった・捉え方を間違っていた」今までの自分であって、それは否定されて然るべきものである。そしてその過ちが否定されることによってのみ新たな見方ができる自分が現れるのですから、むしろ喜ぶべきことに相違ないはずなのです。

ここで敢えて挙げれば第三の理由として「自分を変えたくない」というのがありますが、これは第一第二と全く地続きです。だって自分のことを正しいと思っていたい人ならばその「正しい自分」を変えたいわけがないでしょう。自分の真実を見てしまったら自分を変えざるを得なくなるかもしれないのだから、つまり慣れ親しんだ生き方を捨てるわけだから、それは怖いに決まっているでしょう。

ところで、「在り方が被害者」の人は当然のことながら常に不平不満があり人生を嘆いていて「どうして私の人生はこんななの?もっと幸せになりたい、人生を変えたい」ともうこれは必ずそう思っています。なのに、こうして見てみると本当は「変わりたくない」のです!貴方はこう反論するかもしれません。

「どうして私が変わらなければならないの?私は正しいんだから、変わるべきは間違っているあの人(たち)、間違っている世界の方よ!」

でもでも前回の「信じるか」で述べたように貴方の現実は貴方の信念によって作られている以上、他人も世界も「貴方にとってそうである」と信じられているものに他なりません。確かに「あの人たち」にも「世界」にも間違ったところはあり変わるべきなのかもしれませんが、それは先方の問題であって貴方が関与すべき問題ではないのです。大体、他人や世界が貴方の思い通りの姿になるまで貴方が不幸であり続ける、なんてバカバカしいことではないですか?きっと、いや絶対に一生かかってもそれは実現されないでしょう。(この項続く)

ゆるせない!? Ⅰ

貴方の経験する現実すなわち人生や貴方にとっての世界というものが実は貴方が何を信じているか、どういうものの見方や在り方をしているかによって決定されるという事実―これこそ私がこの連載コラムでしつこく論じ来たったことであり、いくら繰り返しても足りないくらい重要なポイントなのです。

今回は、貴方が貴方自身の人生にダメージを与える信念=意識の刻印=在り方の中でもかなり重要で尚且つ良くあるいくつかのパターンについて徹底的に検証してみることにします。

このうちの一つが「自分を被害者にしてしまう」というものです。ここでいう「被害者」とはあくまでも「在り方」のことを指しているのであって、例えば実際に事件や事故などで「被害者」という立場に立っているという意味ではありません。事件や事故などの被害者になってしまった人でも「在り方」は被害者になっていない場合がいくらでもあるのです。ここを混同しないように注意していて下さい。

また、この「被害者」は「犠牲者」と似て非なるものです。両者の違いは後述いたしますが、とりあえずここではこの両者が別個のものだとだけ認識しておいてください。

「被害者という在り方」というのはものすごく簡単に言ってしまえば「自分の身に起こるあれこれ、自分が経験するあれこれを全て自分以外の何かのせいにしてしまう人」ということです。誰か他人であれ、家族や社会や時代であれ同じことです。人によっては自分の運命や前世のせいにしたりする場合すらあります。ここで「まっ仕方ないか」と思えてしまえる人は「被害者」にはなりません。何故ならそこに感情的批判や執着がないからです。

「在り方としての被害者」という場合、そこに常に自分が何かによって力を奪われている・邪魔されている」「いくら頑張ってもうまく行かない・報われない」という感覚や無力感・不平不満・感情的批判・怒り・復讐心・不安感などなどのネガティブな感情が付きまといます。「あの人があんなことをしなければ、家族がもっと自分のことを大事にしてくれれば、上司がもっと評価してくれれば、部下がもっと有能だったら、こんな世の中じゃなければ、私はこんな目に遭わずに済むのに」とか「私はこんなに頑張っているのに周囲が自分の邪魔をするからうまく行かないんだ」「私はこんなに不当な目にあっている」と常に感じているケースも極めて頻繁に見られます。

そして、自分自身の落ち度や非というものに関しては非常に鈍感というか寛容なのも特徴です。私は間違ってない!私が何をしたというの?正しいことをしているのに、こんなに頑張っているのに!!そこはゆるがないのです。というか譲らない頑固さがあると言えます。

実は上記のような見方・考え方こそがその人の落ち度であり非でもあるのですが、彼らはあくまでも自分が「正しい人」でありたいのでそれを認めることができません。そしていつのまにか自分は被害者である、という信念をーそのように意識してはいなくてもー持つに至るのです。(これが激化して病的になると「被害妄想」になりますが、本当の病気でなくても「きっとこう思われているんだ」とか「邪魔されているんだ」などの妄想を抱くに至るケースも多くみられます)

こうなると自分の不幸(だと思い込んでいること)の原因が全て自分の外側にあることになってしまうので自分ではどうすることもできなくなります。つまり自分自身を非常に無力な存在に貶めてしまうことになるのです。一旦こういう在り方が身についてしまうと、人生に起きる全てのことにそういう姿勢で立ち向かうことになり、結果として常に世界は貴方の思い通りにならない、それどころか常に貴方を落胆させるものや貴方に敵対するものになるという経験ばかりすることになるのです。どんな人を相手にしても環境を変えても同じ経験ばかりするという方はこのパターンに陥っている可能性が高いはずです。

このような人は常に自分以外の何者かによって自分の運命を支配されていると思い込んでいるとも言えるし、もっと言えば常に自分以外のものに「依存している」と見ることもできます。

また、被害者の姿勢で生きている人は往々にして攻撃的になりがちです。相手が自分にひどいことをしている!と思い込んでしまうので当人はそれに対して当然の反応をしているつもりで攻撃的な態度をとるわけです。もちろんここからトラブルが生じることも少なくありません。傍から見れば当人が仕掛けているのですが、当人は夢にもそうは思っていないのです。

こんな姿勢・在り方のままでいくら願望の現実化などを試みても絶対にうまく行くわけがない。神社などに願掛けをしてそれが叶わなかったときに「あの神様はダメだ」と文句を言うのが関の山でしょう。

こうして見てみると「被害者という在り方」には全く良いところなどないし当然の帰結として本人自身常に不幸でいる羽目になるのですが、それでも多くの人々がこのような信念・在り方を選択し更にそれを手放せないでいるのです。それは何故か?何故自分に不幸をもたらしているその姿勢を手放せないのか?(この項続く)

信じるか?それとも・・・番外編

前回までの文章で、自分の経験する現実は自分の姿勢=何を信じるかということによって決まるのだから経験する現実を変えたければ自分の信念を見直して変える必要がある、と述べました。この場合の「信念」とは世界観や宇宙観なども当然含まれるのですが(というかそちらのほうが断然重要ですが)、まず個人的な事象に関心のある方が多いでしょうからこちらの観点から少々の補足をしておきましょう。

巷間出回っている「ポジティブシンキング」や「成功哲学」の本には大抵「自信を持て」とか「既になりたい姿になっているつもりで振舞え」などと書いてありますね。

これらは決して間違いではありません。自信がないよりはあったほうが良いに決まっているし「こうありたい自分」を意識の中で先取りして現実化する、という方法は確かに有効なこともあります。

しかし、現実問題として自信が全くない人がいきなり「自信を持て」といわれて持てるものでしょうか?そういえば私にはこういうところもああいうところもあったじゃないか!と自分が既に持っている良いところを見出してそれを評価して自信が持てればーこれは一種の気づきであり、信念の変化でもありますーとりあえずはOKなのですが、本当に自信のない人というのはいくら自他共に認める素晴らしい要素を持っていてもそれはそれ、根本的な部分で自信を持てないものなのです。

こういう人が無理やり「自信を持たなくては」と思ってしまうとそれがプレッシャーになり緊張を生みますので全然うまくいかないのです。だったらいっそ自信がない自分、というのを認め肯定してしまえば却ってリラックスできます。

というのも例えば自信がなくてうまく行かない人、というのはその「自信のなさ」をきちんと見つめているわけではなくただただいつも「ああ~あ、やっぱりダメかも」などとグチャグチャ思っているだけなので、その「思い」と自分が一体になっておりそれに自分がひきずられてしまうのです。しっかり認めることによりその「一体化」からは逃れられるでしょう。

大体においてAという自分に都合の悪い信念を持っている人がAの対極にあるBという信念に変更しようとする、というやり方自体があまり良いものではないのです。こんなふうにただ右から左に平行移動するようなやり方は本当の変化ではなく、ましてや変容などにはなりえません。立っている地面が全く変わっていないからです。すると、ものごとがそこそこうまくいっているうちは良いほうの信念をキープできても嫌なことが立て続けに起きたりした場合たちまち元に戻ってしまう・・・この繰り返しになる可能性が高いのです。

「自信がない=ダメ、自信がある=良い」というのも一つの信念です。ここで自信がない事実を肯定するということはその信念自体にメスを入れるということでもありますので、その結果「そんなことどっちだっていいじゃない」という気持ちになれる、つまりそのことにこだわらなくなるわけですね。すると逆説的ですがここに一種の自信のようなものが生まれるのです。

ですから、自分にとってダメージになる信念が見つかったのにそれをどうしようもできないという場合には以上の方法を試してみるのも、少なくとも変化の端緒としては良いと思います。

また「なりたい自分になりきって」云々というのは、うまく行けばそれによって自分の視点が変わり今までとは違ったものの見方・考え方ができるようになり結果的に信念も変わることにつながるので有効なのです。つまり「型から入る」という方法です。

さて、自分にダメージを与える信念とそれがもたらす姿勢の中でも非常に重要でかつ多くの人に見られるのが「自分が被害者である」というものです。別に犯罪や事件事故の被害者ということではありません。日常の人間関係でごく普通に起きる事態であり、少し考えれば思い当たる人は沢山いらっしゃるはずです。

卑近な例ですが、恋愛などで相手から期待通りの反応が得られないなどということだけでもいつのまにか自分を被害者の立場においてしまっていたりするのです!どうして私がこんな目に?一生懸命やっているのにひどいじゃない。許せない!

ここに見られるのはまず相手に対する怒りや不満ですが、もっと重要なポイントは「自己正当化」なのです。

要するに、自分を被害者に仕立て上げることと自己正当化とは全く表裏一体の関係にある。これがある限り貴方はどういう風にも自分を「変える」ことができなくなってしまいます。そうなのです。「私は間違ってない」という立場に固執する人は絶対に自分を変えることができません。何故なら自分を変えるということは、今までの自分は間違っていたのだと認めることに他ならないからです。

このあたりは以前のコラム「誰の問題?」をお読みいただければ「あれ、本当は違ったのかも。私にこそ問題があったのかも」と気づくきっかけを掴めるかもしれませんが、次回からのシリーズでより突っ込んだアプローチをいたします。

つまり、たとえ貴方が全く正しい場合であっても自分を被害者にしてはいけない、というお話です。では、お楽しみに!

信じるか、それとも・・・Ⅱ

(承前)直接知ることも理解することもできないが真実である、と受け容れること=信じる、だと前回述べました。つまり、「信じている」というのは極端にいえば「自分にとっては真実だが本当のところはどうかわからない」という常に担保付きの状態でもあるのです。主観か客観か、といえば明らかに主観のほうに属します。ある人が普遍的理解に近ければ近いほどその人の「主観的現実」も普遍に近づくわけですが、そうでなければ「信じる」が「ただの思い込み」であることだって大いにあり得ます。

世界は神が6日間で作り7日目に休み人類の祖先はアダムとイブである、と「信じて」いる人だって存在するらしいのですが、それがいかに思い込みに見えようと彼らにとってはそういう「在り方」なのです。そもそも「信じる」その対象が真実味のないものの場合には「信じる」の代わりに「思い込む」という言葉が使われているのでしょう。

そして、この「信じる」ことが一つの在り方・姿勢になるほど強固であればそれは一つの「現実」を作り出します。これが前回にもまたずっと以前にも述べた「信じたことが現実になる」からくりでもあるのですが、同時に怖しい事態が生ずる可能性もあります。

わかりやすい例を挙げれば、どこかの国が自国民に虚偽の情報を与えて「信じ」こませてしまえば彼らにとってそれは「現実」になる。信じている、という自覚すらなくそういう現実を当たり前のものとして生きているわけです。

思い込みが高じて盲信になったような場合においては、それがもともと「主観」だということがすっかり忘れられ、「確固たる客観的事実」だ、とこれもまた思い込まれているようなのです。国レベルでもそういうことはあったし日常の個人レベルでもよく見かけます。本来、不合理だからこそ「信じる」が可能になるのですがこういう場合になると人は自分がそれを「信じている」とすら思わない。ただ「事実だ、真実だ、間違いない」と思い込むのです。そうなればこれはまさにその人にとっての「現実」です。

このからくりはどういう方向にも使えるものなのです。ついでに言えば何かを盲信している人ほど自分が「盲信している」などとは夢にも思わないわけですよね。これこそが間違いのない現実・真実だ!と疑いなく確信しているのです。

他人事だと思ってはいけません。先ほど述べたようにこういう現象は集団レベルだけでなく個人レベルでも非常に多く起きているのです。もっとハッキリ言ってしまえば、貴方にとっての様々な現実―つまりあなたが「現実だ」と思って或いは認識していることーは貴方が「そうだと信じていること」に全く他ならないのです!更に言えば、いくら「客観的事実」といっても客観とはそれを「客観である」と思うところの主観に過ぎないのです。自分が「そうである」と認めていることがその人にとっての現実である。それがいくら不合理なものであっても「信じてしまえば」現実になるのですね。

これが、巷間よく言われる「信念が現実を作る」というものなのです。この場合の「信念」というのは乱暴に言えば「思い込み」と同じです。信ずれば叶う、というのはこれを応用したものであり、この法則=現象の一つのヴァージョンに過ぎません。

以前から「意識における刻印」ということを述べてきていますが、それと殆ど同義です。「これはこうである」という信念が意識に刻印されれば、その人の現実はそれを反映するものになる。自分の「信念」を再確認するような経験ばかりをする、というわけです。

上述したように、盲信しているときは「私は盲信しています」などと絶対に考えもしない、つまり無意識です。これが「潜在意識に刻印された信念」ということにもなるのです。もちろん、情報操作などにより集団レベルで「思い込まされている」という場合なら「実は全然違いました」という事実が発覚すれば盲信=一種のマインドコントロールも解けるのでしょう(一部の人は断固としてそれを認めなかったり、受け容れられずに発狂したりします)が、これが個人の内面というレベルになるとこれはもうその人が自分自身で気づくしかないわけです。

ではどうしたらいいのか?こういうものに決定的な「マニュアル」は存在しませんが、是非試していただきたいのは次のような「実験」というかワークです。

貴方が「現実だ、真実だ」としている・してきたものは絶対確実に普遍的真理・事実なのか?よく考えれば「本当はどうかわからないけど自分はこう思っていた、というだけだった」というものもかなり含まれているはずなのです。日常生活の中で片っ端からこれをやってみて下さい。今まで当たり前のこととして疑いもしなかったさまざまな価値観やものの見方を片っ端から疑ってみるわけですね。その際、「誰が問題?」の鏡現象を初めとする過去のコラムの内容が参考になるかもしれません。これは短期間で終わるようなものではないので習慣にすることをお勧めします。昨年見えなかったことに今年気づく、などということも当然ですが多いのです。

このワークをする際の注意点は「安易にジャッジしないこと」。例えば「「私は正しいのか、間違っているのか」という視点を中心に据えないことです。下手にこれをやってしまうとエゴの邪魔が入りやすいからです。誰だって自分が「正しくない」とは思いたくありません。それと「他人を介在させないこと」。これは例えば「この考え方はおかしくないわよね、だって他の人もみんなそうだもの。」「あの人だってこうしているじゃない」などなどのエゴの囁きです。エゴであるところの自分を守るためにいろいろな屁理屈を設けて自分を正当化してはなりません。

この作業を続けていくと徐々に或いは突如として「私はこういう信念を持っていたのか!」ということがクリアになってきます。貴方が繰り返し経験してきたことの裏には「こんな信念があった!」だからこういう現実を経験したのか、ということも見えてくるものなのです。

その後どうするか?まずはそれを認めて受け容れることだけで十分です。

思い出して下さい。そもそも「理解できないことでも信じることはできる」のでしたね。裏を返せば、もしも本当に「理解して」或いは「本当はこうだったのだ」と「知って」しまえば信じることはできなくなる、という道理なのです。もっとも運がよければ「わかった」時点で「なあああんだ、バカバカしい。」と瞬時に悟り同時にそれらを捨てられる場合もありますが、全員がそうではありません。しかし「この信念を何とかしよう、変えよう」と焦ってはいけません。これらは変えたり克服したりすべきものではなく、「自分にとっては無意味であり間違った思い込みだった」と本当に分かれば自然に消えていくもの、消えていかざるを得ないものです。それらを認めて受け容れていれば何か嫌なことが起きてもそれを他人・周囲のせいにはしないで済むようになります。すると、「こんなことを自ら招いているなんて本当にバカバカしい」と実存的にわかるときがくるはず。その時、貴方にダメージを与えるような信念は消失するでしょう。

信じるか、それとも・・・Ⅰ

「自分を信じて頑張ります」

「あの人を信じてたのに!」「あの人を信じていいのかしら」

「きっと~できると信じて努力するわ」

「神を・前世を・運命を・~教を信じています」

などなど、「信じる」という言葉は日常生活でもわりと普通に多用されています。しかし、これは案外とんでもない言葉なのではないか、そんなに簡単に使えてしまう言葉ではないのではないか?と私はここ10年くらい「疑って」或いは「信じて」いるのです。

単に「信用する」というのであればそんなに問題にはなりません。これは、何かが「本物或いは本当であると保証する」くらいの意味であって、例えば「あの店は信用できる」ならば「そこで買い物や食事をしてもおかしなものは出されない」とか、「あの人は信用できる」ならば「約束したことは必ず守る人物だ」「嘘をつかない誠実な人だ」とか言い換えることも可能です。或いは契約書や誓約書や保証書などによって十分裏書できるものでもあります。

ところが、冒頭に挙げたいくつかの文章における「信じる」という言葉を「信用する」に置き換えることができるでしょうか?「自分を信用して頑張る」とか「神を信用する」とか、何だかおかしくありませんか?それに「あの人を信じてるの!」などの「信じる」は、「信用する」とはどこか意味合いや重さが違うものだと感じるのではありませんか?

まず、「信用する」なら「裏切られる」ことも可能だが、「信じる」場合にはそれが破綻しても「裏切られる」という言葉は不適当であると明言してもよいと思います。何故なら、「信じる」際には普通、何の保証も確約も与えられないものだからです。

ということはつまり、恋愛の現場などでよく使われる「信じてたのに裏切られた、ひどい!」などというのは、一応言葉などで「保証・約束」を与えられていたのにそれを守られなかったのですから実際には「信用してたのに」といったほうが正しいような感じですが、まあこれはどうでもよろしい。

「信じる」というのはどういうことか?「何かが確かに間違いないと強く思うこと」とも言えるかもしれませんが、もっと端的に言うと「証明したり理解したりできなくてもそれが真実であると受け容れること」になるのではないでしょうか。

埴谷雄高という作家の著書のタイトルにもなった「不合理ゆえに我信ず」というのはもともとティルトリアヌスの言葉だそうですが、昔はこれが今ひとつよく分かりませんでした。何で不合理なものを信じられるの?などと思っていたのです。

しかし!!よくよく考えて見ればこれは極めて当たり前のことであって、合理的なものであれば通常の理性による理解が可能である。つまりわざわざ「信じる」必要はないのです。だってそうでしょう。123、だとか2x36だとかいうのは実際にやってみればそうなるわけだから別に123だ、と「信じる」必要はありませんね。その他、やってみればそうなること、アタマで考えればわかることなどについては「知る」「理解する」だけで済むのです。神や前世などに対しても、それを実際に体感して知っている人ならばわざわざ「前世を信じます」とは言いません。疑う余地のないものに対しては敢えて「信じる」などと言う必要がないのです。

ところが、そうでないものーつまり「直接知ることもできず立証もできないことだが、自分の理性では理解できないことだが私にとっては重要なことなので肯定したい」ならばこれは「信じる」という姿勢をとるしかなくなります。不合理だからこそ「信じる」ということが可能になるのです。

科学的に正しいとされていることだって実際にはまだ「仮説である」ものが多いわけですから、「科学で証明されているから真実なのだ!」」というのもまた「そう信じている」だけだということになります。だって貴方が自分で証明したの?実際に見たことあるの?

とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、明日もまた世界が存在するであろう、というのもそれが絶対確実だ!という保証はないことなのですから皆それを「信じている」に過ぎないわけですね。そんなこといちいち疑っていたらやっていかれないでしょう。

実を言うと私は「明日もまた世界が存在する」こともよく考えれば信じられないし、ひょっとして世界は今朝から始まったのではないか、それを私たちは「太古の昔から」と錯覚しているだけではないか、などと考えてしまう癖がありまた考えると面白くて止まらなくなるので仕方なく「世界は太古の昔からあったし明日も在るであろう」と、とりあえずそういうことにして済ませています。しかし、「これは自分の手である」とか「この身体の心臓が動いている」などについては信じるまでもない事実ですよね。

ともかく私の感覚では、「信じる」という言葉とそれによって表される事態はその人の存在全体に関わるような、或いはその人が何を基盤として生きているかを示すような深さと大きさがあります。そう簡単に使えないような言葉なのではないか、と感じられます。

(従って、「僕を信じて」などと簡単に言ってしまえる男は信用できないのではないか?まあ、これもどうでもよろしいが)

先ほど「信じる」という姿勢をとるしかない、と書きましたがまさにそれは一つの姿勢であり前回に述べたところの「在り方」でもあるのです。「信じる」ということはただの動作ではなくもっと全的な「在り方」を表しています。

だからこそ、「信じれば実現する」などということも可能になるわけです。信じて頑張ったのにダメだった、というとき貴方のその「信じる」は一つの姿勢にまでなっていたでしょうか?また、逆説的ではありますが何かを「信じて」それが在り方全体にまでなっている場合には人はいちいち「信じ(てい)る」などとは言わなくなります。その人にとってそれが「よく考えれば不合理だが自分にとっては真実だ」という状態になるからです。(この項続く)