タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -184ページ目

ゆるせない?! PartⅡ-3

(承前)貴方が普段どんなことを望んだり望まなかったりしていようとも、実現してしまうのは常に貴方の意識の奥深くに刻印された「望み」です。それがたとえ貴方にとってマイナスになったり不幸をもたらしたりするものであっても、貴方が深い部分で自分にとっての現実であると信じていることを常に経験することになるのです。

意識の刻印=自分にとっての信念=あり方、というふうに表現できますが、要するにこの部分がいわゆる「ネガティブ」になってしまっていることがあらゆる不幸の始まりであり諸悪の根源だと言えましょう。

「ネガティブな思い込み」にはいろいろなヴァリエーションが可能ですが、根本はただ一つです。即ち「私はダメな人間だ」「価値のない人間だ」という自己否定です。殆ど全てはここに集約されます。

私は素晴らしい人間だが何故かいつも邪魔が入ってうまく行かない、と思うことも可能ですが、これも言い換えれば「私にはうまく行く資格がない」と思っているのと同じことなのです。

我が強くて攻撃的なタイプの人は自分の非を認めたくありませんから「被害者という姿勢」をとって自分に起きるあれこれの挫折を自分以外のもののせいにしますが、これだって「本当は自分に非があるのではないか、自分がダメなのではないか」という深い疑念が覆い隠されているだけなのであって基本的には上記のパターンと同じです。

「私は素晴らしいのだが、前世が悪かったから」と、この自分のせいではない前世のせいにすることもやはり自己否定になります。貴方の前世であった人物と今の貴方はもちろん別の肉体を持った別人格なのですが、前世の影響が今生に作用しているとするならばそれらは意識体としては連続していることになります。また、そのように考えないとそもそも「前世の情報を知る」ことの意味が成立しません。

「私が前世でどんなことをしたか知らないけど、そんなの今の私には一切関係ありません」と思える人ならば初めから前世を知ろうなどとは考えないし、よもや今生の不運を前世のせいにはしないでしょう。それに本当に一切関係ないのなら影響力を持つわけもないのですから「前世のせい」にできるということ自体がそれら過去の自分と現在の自分を「つながっているもの、同じもの」と捉えている証左になります。となると、それがいくら「過去の自分」であっても「現在に繋がるダメな自分」だということになってしまうのです。

つまり、原因はどうあれ、どんな形で表面化するのであれ「私はいやな目にあうのがふさわしい人間だ」即ち「ダメな人間だ」というのが貴方の行く手を阻む基本的な信念であると言うことができます。

どんなことでもより深く突っ込んでみなくてはなりません。たとえば「傷つくのが怖い」と思うなら、それはその更なる奥部に「私は傷つけられる」という信念があるのです。そんなものが一切ない人にはそれに対する恐怖感も存在しないからです。

さて、これら「価値のないダメな私」というのは端的に言えば「私が悪い」ということになりますね。前回でも述べましたがこれはいわゆる犯罪人のような「悪人」という意味ではありません。

貴方が自分のことを「魅力がない」と思っているとします。その上でもしも「魅力がない」ことに何ら悪い意味づけをしていなければ、つまり「私の血液型はAです」とか「4月生まれです」などと同じ程度の属性としか捉えていなければ「魅力がない」という信念を持っているからといって別にそれによる悪いことは起きないのです。

しかし、大半の人は「魅力がない」=「悪いこと」だと捉え認識しているはずです。するとこうなります。

「私には魅力がない」(「頭が悪い」「声が大きい」でも何でも良い)

「魅力がない」etc=「悪いこと」→「私は悪い」

こんな乱暴な三段論法が実は平気でまかり通っているのです!

ちなみにこういうのもあります。

「お金持ちは悪いことをしている」「私は良い人だ(と思いたい)」→「私はお金持ちになれない」

この場合、実は「私は本当は良い人じゃないのではないか」というのが奥に隠されています。だからこそ、そこにこだわりが生じるのです。

話を少し戻します。「私はダメな、価値のない悪い人間です」という信念が根底にある、刻印されている人であれば大抵その後はそれにふさわしく「だから愛されない、大切に扱われない」などという信念が続いて生じます。

しかし、これも良く考えれば次のようなことも可能ではないのか?―即ち「私はダメな、悪い人間だけど愛され大切に扱われています」。

そういうことも不可能ではありません。但しこれが成立するためにはその人が自らを「ダメで価値がなくて悪くて」としたうえで更にそれらに悪い意味を一切付与しない、というまあ普通ではなかなかあり得ないことができているか、或いは「そうかもしれないが、たとえそうであってもそういう自分を認めて受け入れている」つまり「ゆるせている」かどちらかです。

前者は「言語と意味」の関係を考えると通常不可能ですから無視してよいでしょう。ここで問題になるのは後者のみです。(この項続く)

ゆるせない?! Part2 Ⅱ

(承前)今回の考察を進めていく前にいくつか確認しておくべきことがあります。「被害者という在り方」同様、しつこいようですが「犠牲者という在り方」もまたあくまでその人の「姿勢」です。

よく、頼まれたわけでもないのに何かをやっては「どうしていつも私ばかりが・・・」とか「貴方(たち)が何もしないから私がみんなやってあげてるの!」などの不満を抱く人がいますが、わざわざそんなことを引き受けない人もいるし、たとえ同じ事をしていてもそういう不満を持たない人もいるわけですから、結局これらは全て本人が「私はそういう立場におかれてしまっているのだ、やむを得ないのだ」と信じていることによるものです。また、「犠牲者」は「被害者というあり方」とは似て非なるものとはいえ全く別々に現れるとは限りません。自分以外の何者かによって自分の人生が左右されていると思い込んでいるという点では全く同じです。しかし、「犠牲者」という人々は自分以外のものに対する攻撃性が、つまりそれらを露骨に責めたり怒りを表したりという部分が普段はあまり表面に出てこないのです。(ある日突然、臨界点を越えて爆発することはあります)

その代わり、前回の最後で述べたように「こんな自分なんか・・・」「どうせ逆らえないんだから・・・」などという無力感や自己卑下が目立って現れるのです。但し、この「無力感」というのは自己卑下の中に含まれるものです。

「被害者」である人々も「自分以外の何かによって常にダメージを受けている」と思い込んでしまうという点そのものがまさに「自己卑下」以外の何ものでもないのですが、これは彼らの攻撃性の下に隠されてしまっています。こういう人々を世間ではいわゆる「プライドの高い人」と呼びますが、上記の理由により実は彼らは非常に自尊心の低い人々であるということがわかりますね。言うまでもありませんが、「自己卑下」と「自尊」は全く正反対のものだからです。

それに比べて「犠牲者」の人々は一見謙虚な印象さえ与えるし、周囲からは「いい人だ」と見られていることも少なくありません。「どうしてあんないい人がいつもあんな目にあっているのかしら」。そして本人も「私は何も悪いことをしていないのに・・・生まれつき運が悪いのかしら?前世が悪かったのかしら?」などと思ったりするのです。

さて、この「何も悪いことをしていないのに」という点が曲者なのです。

「因果応報」というか、良いことをすれば良いことが返ってくるし逆もまた真なりという法則が正しければ、自分が特別「悪いこと」をした覚えもなくそれどころかいつも他人のために自分を犠牲にしてあれこれしてあげて・・・という「良いこと」すらしているのに全く報われないのは何故なのでしょう。運命だから、或いは前世の報いだから仕方がないのか?

前世の捉え方についてはいずれ詳しく述べるつもりですが、とにかく「犠牲者」の人々が「良いことをしているのに報われていない」のは前世のせいでも運命のせいでもありません。それらに見放されているからではありません。

この「良いこと」「悪いこと」というのが更に曲者なのです!簡単に言いますと、これらが単なる「行為」を示しているだけであれば実は「因果の法則」にとっては何の関係もないことになってしまうのです。

以前のコラムで「行為ではなく姿勢・在り方が重要だ」と述べたことを思い出してください。

そうです、まさにこれなのです。いわゆる「因果の法則」の支配を受けるのは「行為」ではなくて「あり方」、外側に出ているものではなくて貴方の内側にあるものです。

いくら他人に“自ら進んで、しかもニコヤカな態度で”親切な「行為」をしていても、内心「あ~あ面倒くさいなあ、どうして私がやらなきゃいけないの」とか「本当はイヤだけどこうしていれば見返りがあるかも」などと思っているならば、それらはいくら「親切な行為」に見えたとしても意識レベルでは「良いこと」とはいえないのです。

或いは、誰か大事な人のことを心配してそれがストレスになった・・・という場合などであっても結局自分ダメージを与えているという点では同じ作用を及ぼしてしまいます。そしてこれを「あの人が心配させるからそのせいでこうなった」というのならそれは立派な「被害者」「犠牲者」としてのあり方になってしまいます。

いわゆる善悪という問題とは別に、貴方が「内心はイヤなこと」を自分に課しているのであればそれは貴方が「自分に対して嫌なことをしている」のと同じになってしまいます。すると因果の法則が働いて「嫌なこと」が返ってきてしまうのです。

また、ここに「私は人の悪口を言ったこともないし迷惑をかけるようなこともしていない、そればかりか心の中でさえ他人のことを悪く思ったり非難したりしていない」のにどうにもパッとしないという人がいるとしましょう。この場合はどんな原因が考えられるでしょうか?

おそらく、というか絶対確実にこの人は自分に対する評価が低かったり自信がなかったりするはずなのです。言い換えれば「自己卑下」ですね。これは即ち「自分で自分にダメージを与えている」ことに他なりません。自分で自分を殴っているようなものですね。つまり自分に対して「良くないこと」をしてしまっているわけです。

他人を悪くいうのならともかく自分が自分のことを貶めたとしても何ら他人には迷惑をかけないのですから、一般的にはこれは「悪いこと」だと認定されません。しかし潜在意識に自他の区別はありませんから、他人を非難したり攻撃したりした場合であれ、それが自分に向かった場合であれ結局「良くないことをした報い」を受ける、というかその自己評価にふさわしい現実を経験するのは全て自分ということになります。

これが更なる「落とし穴」です。一見謙虚な良い人が内心では自分のことを貶めたり無力感に囚われたりしていれば当然の結果として「貶められ無力感に囚われる」ような現実を経験する羽目になります。

さて、これが「犠牲者」と言えるでしょうか?こうして見てみれば「犠牲」でも何でもない、そもそも全て自分が自分にもたらしたことなのではないでしょうか?

このような事情を正しく認識していない限り、彼らは常に「身に覚えのない不幸に見舞われる」と感じてしまうでしょう。

更に、これら「犠牲者」の人々は露骨に他人を批判していないだけでやはり深い部分には抑圧された怒りや恨みなどがある、どこかに「ゆるせない!」という思いがあるわけです。それも当然彼らの経験する現実に反映されてしまいます。

この「ゆるせない」という感情が自分に向かうときそれは「自己卑下」のような形をとるのです。「こんなダメな自分はとても認められない」

実は、これこそが諸悪の根源なのです。次回はこのことについて詳しく考察いたします。(この項続く)

ゆるせない?! part2 Ⅰ

前回までの「被害者という在り方」に続き今回からは「犠牲者という在り方」が意識に刻印されてしまっているケースについて考察してみます。

「犠牲者」これも「被害者」同様、本当に何かの事件や事故の犠牲者であるということではなくひたすら「在り方」を示します。具体的に言えば、いつも自分ばかりが損をしている、とかこんなに頑張っているのに認められない・報われない、とか自分は運命や過去世の「犠牲」になっているので何をしても幸せにはなれないなどと思っている人々です。ちょっと見には「被害者というあり方」と似ていますが、「被害者」の人々は被害者と言うだけあって「攻撃されている、奪われている」という認識が強いのに対して「犠牲者」の人々は攻撃されているというよりひたすら失望を味わったり無力感に囚われたりすることが両者の相違点として挙げられるでしょう。

「犠牲者」である人々は、自分の面白くない役回りや生き方に不満を持っているに決まっているのでありそれならさっさとそんなものに見切りをつけて方向転換すれば良いのに何故か自分の姿勢を変えません。「自分を変えない」という点は「被害者」のケースと同じです。

また、「どうせ私は一生こうなんだ」と諦めている場合と「私は良いこと正しいことをしているのだからきっといつか報われるはず」というはかない期待を捨てずにいる場合がありますが、たいていはこの二つが人により異なった比率で混在しています。前者の場合はこのコラムで以前述べた「明るい絶望」のような達観はあまり見られず、むしろ自己憐憫に陥っているケースが殆どです。つまり、本当にこれで私はいいんだ、と清々しく受け容れているのではなく「本当はイヤなんだけどどうせ変わらないんだからしょうがない」と投げやりになりつつそんな自分を憐れんでいる感じでしょうか。完全に希望を捨てているわけではないのです。というのもこのような人々は、例えば損な役回りを引き受けるなど周囲から見ればこれまでと同じ結果を生むとわかりきっていることを何度も繰り返しやってしまうのです。つまり、このようなことをすれば以前に何度も味わったのと同じ失望をまた味わう、とかなりハッキリ予想できることを懲りもせずにやり、同じように嘆く結果になるわけです。

後者の場合は、「自分は正しい」という観念を絶対に捨てないという点において「被害者」の人々と同じ、ということになりますね。これが極端になると「犠牲者」というよりも「殉教者」タイプになってしまいます。

「被害者」の人々が自分にダメージを与えている(と思い込んでいる)ものに対してかなりストレートに非難・批判するのに対して、「犠牲者」の人々はそれほどあからさまな敵意を抱いていないというのも相違点です。それよりもむしろ無力感に囚われる傾向が目立ちます。

何故そうなるのか?その理由の一つは完全に相手を自分の支配者にしてしまっているということです。環境だの運命だの過去世だの、そういうものの「犠牲者」であると思っているケースもこれにあてはまります。つまり、自分が何かの犠牲になっている、その何かが自分の力ではどうすることもできない強大なものや到底太刀打ちできないものだという認識です。従って敵意を抱いたところでどうにもならないし攻撃もできない。もちろんこのような認識は本人の思い込みに過ぎないのですが、繰り返し言及しているようにその人にとっての「現実」は思い込みも含めたその人の信念が作っているのですから仕方がありません。

こうなると、これらの人々は「自分は幸福や世界から見放された人間、見捨てられた人間だ」という思い込みすら持つようになってしまいます。すると今度はそのような「信念」が形成され意識に刻印されてしまうので、次から次へと「見放され見捨てられた」と感じるような現実を経験するようになるというわけです。

「犠牲者」の人々は「被害者」に比べて騒がしくなく、むしろ場合によっては謙虚に見えてしまうことすらあるのですが、ネガティブであるという点においては全く同じです。

これらの人々がよく口にしたり思ったりするのは以下のような言葉です。すなわち「どうして私はいつもこんな目に遭うんだろう、何も悪いことをしていないのに。」或いはそれが更に進んで、「正しいことをしているつもりなのにいつもこんな目に遭うなんて、私は余程ダメな人間に違いない。」

ところがここにとんでもない落とし穴があるのです。(この項続く)

火曜日の鑑定場所について

10月9日火曜日から新たな鑑定場所がスタートしました

原宿でコモラーゴというバーを経営していらっしゃる方のご厚意でお店の中に専用スペースを設けてくださることになりました。ビルのオーナーの長谷川さんは私と同じ神宮前小学校のご出身です。

1200~2100までですが、1800以降にいらっしゃるお客様にはドリンクを一杯サービスさせて頂きます。ソフトドリンクもございます。


火曜日に関してはラフに予約制を取り入れてみることにしましたのでご了承くださいませ。いらっしゃる直前にご連絡いただいても構いません。


鑑定スペースが地下にあるため、電波が入りにくい場合がございます。火曜日当日の1200~2100の時間帯の予約・お問い合わせはなるべくメールaomieureka@ezweb.ne.jp  で頂くか、

コモラーゴ 03-3400-4328 にお願いいたします。


なお、火曜日の営業時間以外のご予約お問い合わせは08067448599か上記のメールでお願いいたします

ご希望の時間帯に予約が取れなくても、当日までにキャンセルが出た場合メールでお知らせすることもできますので、ご希望の方はお申しつけ下さいませ



火曜日 12002100 COMO LAGOコモラーゴ 渋谷区神宮前5-17-11 しわビルB1

予約専用電話 08067448599 メール aomieureka@ezweb.ne.jp

火曜日1200~2100のみ コモラーゴ 03-3400-4328


表参道ディオールから横に入る道(隠田商店会)を約3分ほど歩いた右側にあります。一本道ですが途中で「本当にこの道で良いのか」と心配になる方がいらっしゃるみたいです。とにかくただまっすぐ歩いてください。一階が「紫波」というしゃぶしゃぶ店さんです。

最寄り駅は地下鉄の表参道・明治神宮前です。それぞれ徒歩10分くらいです


それでは皆様のお越しをお待ちしております。是非是非いらしてくださいね!


ゆるせない?! Ⅲ

(承前)前回の続きですが、被害者という在り方の人は往々にして今度は自分が「加害者」になってしまうこともあるのです。これもまた「被害者」であることを止められない理由になります。すなわち「私はこんなに可哀想な目に、ひどい目にあっているんだからこれくらいのことをしても許されるわよね」とばかりに他人に対して我が儘を振りまいたり傷つけるようなことをしたりしてしまうのです。更に重症になると「ひどい目に遭わないように身を守らなければ」とか「復讐しなければ」などという姿勢がすっかり身についてしまっていて、無意識・無自覚のうちに他人に対して攻撃的になったり人生に対して投げやりになったりしてその結果ますます嫌われ不幸になる・・という悲惨な人も出現するのです。

これも一種の「自己正当化」です。他人に対して傍若無人に振舞っても良いのだ、という立場を正当化したいためにその根拠として「被害者であること」を捨てられなくなるのです。しかし、そんなことをしていたら当然ながらますます不幸のスパイラルに陥るだけなのは目に見えています。

いわゆる「いじめ」をする側の加害者も、その現場以外のところでは自分が「被害者」であると思い込んでいてその鬱憤を他にぶつけている場合がかなりあると思います。また、昔からよく言われる「嫁いびり」なるものも、それまで自分が散々な目にあってきたのだから今度は自分がこれくらいしても当然だわ、という発想によるものでしょう。

つまり、「在り方としての被害者」は加害者を作る原因でもあると同時に両者は一枚のコインの両面みたいなものなのです。

さて、今までサンザン見てきたように、被害者という在り方を「選択」してしまうと人生において常に「他人からダメージを与えられる」現実を経験し続けることになってしまいます。では、そうならないためには或いはここから脱却するにはどうしたらよいのでしょうか?

「被害者という在り方」を生じさせるのはあくまでも当人が「そう感じてネガティブな感情を抱いている」状態です。相手(人でも組織でも状況でも運命でも神でも)に悪意があったかどうか、どういう性質のものか、などということには一切関係がないのです。明らかに悪意ある行為を受けても「へ~」と思って流せる人々だっているのです。つまり、貴方は「ひどい!ゆるせない」などというネガティブな感情を抱かないこともできたわけです。まずこのことを本当に認識して下さい。

事態を冷静かつ客観的に捉えるためには以前のコラムの「鏡現象」を参考にすると良いと思います。相手のことを「ひどい」と思ったけれど実はそれが自分の内面の投影だったとわかれば貴方は被害者などにはなりません。なることができないのです。

相手のことを「どうしようもないな」と思うのは単なる感想なのですから別に構わないのです。また、瞬間的にカーッとくるとかイラつくなどというのもまあ仕方ありません。

しかし!!

それを引きずってはいけないのです。それらの感情に執着せず手放して下さい。これがいわゆる「ゆるし」の第一歩です。

スピリチュアル系の本などに良く「ゆるし」が大切だと書いてありますがこれは全く本当にその通り!の真実です。

ただ、ここで間違えてはいけないのがその「ゆるし」とは「自分にひどいことをした相手を許してやる」=「勘弁してやる。免責してやる」という意味ではないこと、そういう方法だと「被害者という在り方」を脱却することはできないのです。なぜならこれでは「ひどいことをされた」という認識はそのまま手付かずに残されるので貴方が「被害者」であることもまたそのまま維持されるからです。

正しい意味での「ゆるし」(赦しという漢字表記のほうが適切でしょうね)とは、相手に或いは自分に対するネガティブな感情そのものを完全に手放すことなのです。

更に可能であれば(最終的にはここまでしないとダメなのですが)「ひどい目に遭わされた」ということ自体を無化する。つまり、「誰も私にひどいことなどしていない、私がそう感じてしまっただけである」と認識することが望ましい。これは原則なので例外なくどの場合にもあてはまるのですが、そうはいっても実際に家族を惨殺されたとか医療ミスで重大な病にかかってしまった、などという人々がそんな認識を持つのは困難でしょう。しかし如何に困難であっても最終的にはこの境地に至らないと心の平安も癒しも得られない、これが事実なのです。

話を少し戻して、上記のような認識に至りネガティブな感情を廃棄できれば相手のことだけでなく同時にそんな感情を抱いてしまった自分のことも「赦せる」道理になるのです。相手が悪くないのなら今度は自分が悪いのか、などと決め付けて自分を責める必要はありません。ただネガティブな感情を抱いたのは「自己責任」である、これも厳粛な事実です。

補足的に付け加えておきますと、「被害者であるというネガティブな感情」を抱いてしまったときの解決方法として「相手を気の毒な人だと思え」というのも時々聞きますね。これは貴方が心底から相手を気の毒だと感じられるのなら良いのですがーというかそういう慈悲心を持てる人ならそもそも被害者の姿勢をとることはあり得ませんーもしも無理やりそう思い込むのならば貴方は全くの間違いを犯すことになります。あの人こそ気の毒なのよ、と高みから相手を憐れもうとするのは自分にひどいことをした相手と自分との関係を逆転させ密かに優越性を保とうとするものであって、エゴの強化に他なりません。その上「ひどいことをされた」「自分が被害を受けた」という認識も残ってしまうのですから全く良いことはなく単なる「現状否認」に終わってしまうでしょう。ニーチェが痛罵した「奴隷の道徳」のようなものになってしまいます。

ゆるし、というのは別に相手と和解することではありません。とにかく「手放すこと」「こだわらないこと」これに尽きます。次回からもこの「ゆるし」を必要とするケースについて述べる予定です。