ゆるせない?! PartⅡ-3 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

ゆるせない?! PartⅡ-3

(承前)貴方が普段どんなことを望んだり望まなかったりしていようとも、実現してしまうのは常に貴方の意識の奥深くに刻印された「望み」です。それがたとえ貴方にとってマイナスになったり不幸をもたらしたりするものであっても、貴方が深い部分で自分にとっての現実であると信じていることを常に経験することになるのです。

意識の刻印=自分にとっての信念=あり方、というふうに表現できますが、要するにこの部分がいわゆる「ネガティブ」になってしまっていることがあらゆる不幸の始まりであり諸悪の根源だと言えましょう。

「ネガティブな思い込み」にはいろいろなヴァリエーションが可能ですが、根本はただ一つです。即ち「私はダメな人間だ」「価値のない人間だ」という自己否定です。殆ど全てはここに集約されます。

私は素晴らしい人間だが何故かいつも邪魔が入ってうまく行かない、と思うことも可能ですが、これも言い換えれば「私にはうまく行く資格がない」と思っているのと同じことなのです。

我が強くて攻撃的なタイプの人は自分の非を認めたくありませんから「被害者という姿勢」をとって自分に起きるあれこれの挫折を自分以外のもののせいにしますが、これだって「本当は自分に非があるのではないか、自分がダメなのではないか」という深い疑念が覆い隠されているだけなのであって基本的には上記のパターンと同じです。

「私は素晴らしいのだが、前世が悪かったから」と、この自分のせいではない前世のせいにすることもやはり自己否定になります。貴方の前世であった人物と今の貴方はもちろん別の肉体を持った別人格なのですが、前世の影響が今生に作用しているとするならばそれらは意識体としては連続していることになります。また、そのように考えないとそもそも「前世の情報を知る」ことの意味が成立しません。

「私が前世でどんなことをしたか知らないけど、そんなの今の私には一切関係ありません」と思える人ならば初めから前世を知ろうなどとは考えないし、よもや今生の不運を前世のせいにはしないでしょう。それに本当に一切関係ないのなら影響力を持つわけもないのですから「前世のせい」にできるということ自体がそれら過去の自分と現在の自分を「つながっているもの、同じもの」と捉えている証左になります。となると、それがいくら「過去の自分」であっても「現在に繋がるダメな自分」だということになってしまうのです。

つまり、原因はどうあれ、どんな形で表面化するのであれ「私はいやな目にあうのがふさわしい人間だ」即ち「ダメな人間だ」というのが貴方の行く手を阻む基本的な信念であると言うことができます。

どんなことでもより深く突っ込んでみなくてはなりません。たとえば「傷つくのが怖い」と思うなら、それはその更なる奥部に「私は傷つけられる」という信念があるのです。そんなものが一切ない人にはそれに対する恐怖感も存在しないからです。

さて、これら「価値のないダメな私」というのは端的に言えば「私が悪い」ということになりますね。前回でも述べましたがこれはいわゆる犯罪人のような「悪人」という意味ではありません。

貴方が自分のことを「魅力がない」と思っているとします。その上でもしも「魅力がない」ことに何ら悪い意味づけをしていなければ、つまり「私の血液型はAです」とか「4月生まれです」などと同じ程度の属性としか捉えていなければ「魅力がない」という信念を持っているからといって別にそれによる悪いことは起きないのです。

しかし、大半の人は「魅力がない」=「悪いこと」だと捉え認識しているはずです。するとこうなります。

「私には魅力がない」(「頭が悪い」「声が大きい」でも何でも良い)

「魅力がない」etc=「悪いこと」→「私は悪い」

こんな乱暴な三段論法が実は平気でまかり通っているのです!

ちなみにこういうのもあります。

「お金持ちは悪いことをしている」「私は良い人だ(と思いたい)」→「私はお金持ちになれない」

この場合、実は「私は本当は良い人じゃないのではないか」というのが奥に隠されています。だからこそ、そこにこだわりが生じるのです。

話を少し戻します。「私はダメな、価値のない悪い人間です」という信念が根底にある、刻印されている人であれば大抵その後はそれにふさわしく「だから愛されない、大切に扱われない」などという信念が続いて生じます。

しかし、これも良く考えれば次のようなことも可能ではないのか?―即ち「私はダメな、悪い人間だけど愛され大切に扱われています」。

そういうことも不可能ではありません。但しこれが成立するためにはその人が自らを「ダメで価値がなくて悪くて」としたうえで更にそれらに悪い意味を一切付与しない、というまあ普通ではなかなかあり得ないことができているか、或いは「そうかもしれないが、たとえそうであってもそういう自分を認めて受け入れている」つまり「ゆるせている」かどちらかです。

前者は「言語と意味」の関係を考えると通常不可能ですから無視してよいでしょう。ここで問題になるのは後者のみです。(この項続く)