タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -189ページ目

幸せになりたい! Ⅲ

(承前)幸せに客観的基準はあり得ない、という話の続きです。前回見たものとは逆に、どう考えても幸せではない人が「私は幸せなんだ」と思い込んでいる、というケースもあります。自分の内面をみてみれば決して満たされておらず幸せでも何でもないのに、自分にはあれもある、これもあるのだから、素晴らしい宗教を信じているのだから、素晴らしいマスターのいうことを聞いているのだから幸せなはずだ!不幸なわけはないわ、と思い込むのもまた自分とは違う何かに幸せの基準をおいているだけのことで、一種の現状否認に他なりません。「ポジティブ思考」の項で見た「虚勢による無理やりポジティブ」に似ています。

話を少し戻しましょう。幸せであるかどうか、とは外側のあれこれではなくどこまでも本人の意識の状態のことである。通常はそれを直接求めることができないから、幸せになるために必要であると思うものをまず求める。これはⅠで述べました。さて、念願叶ってそういうものが手に入ったとしましょう。貴方は幸せになりました。メデタシメデタシ・・・なのでしょうか?

素晴らしい恋人ができたとする。彼(女)がいれば貴方は幸せです。でも彼(女)が去ってしまえば、あるいは貴方の気持ちが冷めてしまえばその幸せはなくなってしまいます。健康でもお金でも名声でも、同じことです。それらを得たことで新たに「失ったらどうしよう」という不安が生じる可能性さえあります。あるいは「得た」という状態にすっかり慣れきってしまってありがたみも感じなくなり、新たな不満が生じることもあります。

どちらにせよ、これら「必要と思われる条件」によって成り立つ幸せは絶対的なものになり得ないのです。

「通常、幸せを直接求めることはできない」と何回も書きましたが、実は直接幸せを求めることーというか直接その状態に至ることもできるのです。すなわち、何の条件も必要としない幸せ、今ここで何の理由もなくいきなり幸せになる・・・なろうと思えばなれるのです。なぜなら、幸せとはどこまでいっても本人の意識の状態であり本人が決めることなのだから「なりたければ今ここで何の理由もなく」幸せになったって誰も文句のあろうはずがないのです。信じられませんか?荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、この気付きを得てしまうと意識がガラリと変わります。小さなことでもそれを幸せに感じる、ということとも厳密に言えば少し違います。ほんの小さなことをごく自然に、つまり無理にそう思おうとするのではなく、ただただ「幸せ」と感じるためには既にある程度満ち足りた気持になっていなくてはならないからです。小さな幸せを数え上げて「だから私は幸せなんだわ」と思うのでは、件の「成立条件あっての幸せ」と構造的には何ら変わらないからです。

ここで少し考えてみて下さい。貴方が満ち足りた気分の時にはどんなことがあってもあまり気にしないでいられるが、逆に落ち込んでいる時は嬉しいはずのことがあっても嬉しくも楽しくもない・・・そういう経験があると思います。貴方がまず初めに「幸せという在り方」をしているならば大抵のことが不幸の種にならずに済んでしまうのです。

この、今ここでいきなり幸せになる、というのはすなわちエゴが限りなく消失した状態でもあります。もちろんエゴがなくなってもエゴによらない苦悩や悲しみはあるでしょう。しかしエゴがなければ「不幸」という状態はあり得ません。なぜならば、エゴがない時、人は幸不幸を含めた「判断」(Judgment)をしなくなるからです。(この項続く)

幸せになりたい! Ⅱ

(承前)前回、人は「幸せ」という形にならないものを直接求めることはできないからとりあえずそのために必要と思われる条件を満たすことを求める、と述べました。

今回は、やや違う角度から見てみましょう。幸せというのはあくまでも「当人が感じるもの、当人の状態」なので「客観的幸せ」などというものは正確には存在しません。「あの人って本当に幸せよね」と周囲が思っていても本人はそうではないかもしれない、というのはよくあることでしょう。幸せかどうかはどこまでも本人次第であり、客観的基準などない、他人に決めてもらうことではないということになるのです。

事実、どんな状況にあっても幸せを感じられる人もいれば大したことない事態でも不幸のどん底みたいに感じる人もいるではないですか。

こうなったら、ああなったら幸せなのに!と思っている人が求めるものを得ても大して幸せを味わう暇もなくすぐに「次に得たいもの」に気持ちが移ってしまい、それが未だ手に入っていないためにやっぱり引き続き「幸せじゃない」状態が続いたりすることもあります。一千万あれば幸せなのに!と思っていて一千万を手にする頃には既に「一億あったら幸せなのに」になっている。こういう人は理屈から言ったら「ずーっと幸せにはなれない」ことになってしまいます。

自分が何かを得ていないから不幸、なのではありません。何かが欠けている場合「さあ、今度はそれを目標にして頑張ろう!」という気持ちを持てて幸せである、という人だっているのです。得ていないことを不幸だと思うから不幸なのです。同様に、「苦労する」ことがイコール「不幸」ではない。苦労を不幸だと思う人には苦労が不幸である、というだけの話です。つまり、究極的には「幸福も不幸もわが手中にあり」と言えるのです。

少なくとも、幸・不幸を外側から規定することはできません。ましてや「私はあの人に比べれば幸せだわ」などという比較を外側の条件によって行うことなど絶対にできないのです。

このことを裏から見てみれば・・・たとえ世間から見てどんなに悲惨な状況にあったとしてもそれで「私は不幸である」と感じる必要はない、ということにもなります。大変でも苦しくても、だからといって惨めだったり「不幸」だったりする必要はないのです。自分の幸不幸を決めるのはー別にそんなものをいちいち決める必要など全くないのですがー常に他ならぬ自分自身しかいないのだ、ということは分かっておくべきでしょう。

他人との比較、というのがまた厄介さをもたらします。自分だけのことを見ていれば別に何も不自由していないというのに、周囲やメディアの情報などの影響を受けてしまい「恋人がいないなんて」「年収がこれだけなんて」「こんな生活をしてるなんて」「ハイヤーセルフにコンタクトできないなんて」私は幸せじゃないのかもしれない、と思ってしまう人々がいます。これも、まさに「幸せに客観的基準がある」という勘違いから来るものです。

おそらく近代以来、多くの国々で「国民の幸福」ということが考えられそのための政府や政策が作られてきたと思いますが、言うまでもなくこの場合は「生活の保障」がとりあえずは幸福な生活をもたらすものだと仮定されている、つまり仮に「客観的基準」を設けているのです。基準などせいぜいその程度のものでしょう。国民の何人かに一人が「車を持ち、年何回の海外旅行に何とかカンとか」「何割の人に異性のパートナーがいて休日をともに過ごし・・」と言われているとき、貴方は車も持たず海外旅行も滅多に行かない、パートナーもいないとします。さて、貴方は不幸なのか?(この項続く)

幸せになりたい!Ⅰ

誰でも「幸せになりたい」と願うし幸福を求めるものです。しかし、「幸福」とは一体何なのか、わかりますか?考えたことがありますか?「そりゃあ、お金があって素晴らしいパートナーがいて健康で云々」とか?それは「幸福それ自体」ではありませんよね。「こういう状態なら幸せである」という、謂わば「幸せを成立させるための条件」のようなものです。

まず、幸せとは「外から見て明らかにそれとわかるような何か」ではありません。あくまでも当人の内的な状態を示しています。意識のあり方というか、私の感覚としてはもっとトータルな「存在としての在りかた」に近いようなものだと捉えられます。どちらにしてもはっきり目に見える形として捉えられるものではないのです。

普通、人はそのようなものを直接求めることができないので、とりあえず「私が幸せになるために必要だと思われるもの」=「幸せを成立させるための条件」を求めるのです。すなわち、財産、やりがいのある仕事、地位、愛情、健康、美貌などなど。幸せが内的状態であると一応わかっている人でもやはりそれを直接求めるわけにはいかないらしく、やれ癒しだの覚醒だの波動を上げるだの、といわゆる「内的・スピリチュアル」なあれこれを片端から試しまくっていたりします。

何でもいいのですが、これらがあくまでも「幸福そのもの」ではなく「それを成立させるための条件」(と思われるもの)だということを忘れてしまったり或いは初めからその区別すらついていなかったりすると、本人は幸せを求めているつもりでもひたすら「それらの条件」を求めているだけ、という状態に陥ります。そしてそのことに気がついていない場合もあるのです。

第一、このような「成立条件」が本当に自分にとっての幸せをもたらすものなのか、単なる思い込みに過ぎないのか、予めちゃんと考えられていないようなケースもわりと見かけます。当初は本当に自分の幸せにつながるものであっても時を経るにつれて価値観が変化すればそれらの条件はもはや意味をなさないものになります。だからこそ、望み叶って「お金も地位もできたけど」「結婚できたけど」「美しくなったけど」あんまり嬉しくもないし虚しくてね・・・という事態が生じることも多々あるわけです。

更にそれら「成立条件」に「他人」が絡んでくると厄介です。例えば「他人による評価」「他人による愛情」を得ることが自分の幸せを成り立たせる条件になってしまった場合、それは特定或いは不特定の他人が自分の幸不幸を左右している・神のごとくに自分の幸不幸の鍵を握っているということになってしまいます。これではまるで奴隷状態ではないでしょうか?天候や自然現象など万人に遍く降りかかることならまだしも、その時その時の他人の言動が幸せの成立条件である、という点において既に十分不幸なことではないでしょうか?本人がそれを自由意志によって選んだという自覚を持っており「あの人の機嫌をとって愛情を与えてもらうのが私の人生よ!」と覚悟が決まっているならそれも幸せでしょうが、大抵の人は「今はこんなだけどこうしていれば安定という幸せが得られるかもしれない」という、おそらくは儚い望みと期待を抱いて中途半端である状態なので、必然的に不安定なままでしょう。

要するに、こういう「成立条件」あれこれはあくまでも「こうなれば幸福であろう」と仮に設定されたものに過ぎないと認識しておくべきです。それらを求めるのが悪いことだ、というのではありません。目的と手段を混同しないで、ということなのです。そもそも、それら成立条件など絶対的なものでもないのです。従ってそうやって得られた幸福もまた絶対的なものではない、ということになります。(この項続く)

願望の現実化Ⅳ 願ったことは叶う、のか

(承前)今までは割りとストレートに「こうすれば願望は現実化します」という話をしてきましたが、今回はもう少しこのメカニズムを突っ込んで述べてみることにします。

この手のことを書いた本には「善悪にかかわらず正しく願ってしまったことは実現する」というものと「ただ自分勝手な欲望を満たすようなことや他人へのダメージにつながることなど、宇宙の調和に合わないことは実現しない、特定の相手を操作するようなこと(例えば、彼・彼女を自分に振り向かせたい、など)は実現しない」というものがあります。

結論から言うとどちらも正しいのです。ただ、後者においては必ずしも「宇宙の調和に合わないから」現実化しないわけではありません。この手の願望には、どうしても個人のエゴが絡んでくるのですが、そういう場合そこに「執着」がかなり不可避的に伴います。前回までの説明でお分かりのように、願望の現実化を阻む大きな要因は、この「執着」―何が何でもうまくいって欲しい、失いたくない、失ったらどうしよう!とかーなので、その結果この手の願望は現実化しにくくなるのです。

もう一つ、善悪・正邪に関してノーマルな常識を持っている人ならば、それに反するようなことを願っていても心のどこか奥底で「こんなこと願ったらいけないんじゃないかしら」と思っていたりするものです。人によっては全然悪いことでもなんでもないのに「いけないんじゃないか」と思うことさえあります。これは以前「運と意識」で述べたことと関連性があります。

「より良くなりたい」というのが根底にある人が「あの会社に入りたい」「あの人とつきあいたい」と思っているとします。ところが、あの会社に入ることやあの人とつきあうことが実は「より良くなる」ことではないのだとしたらーその時点では当人にはわからないことではありますがーそれらの願望は相反するので実現しないということになるのです。あるいはそれこそ「より良くなる」という宇宙の調和に合わないのかもしれません。とにかく、相反するものがあれば阻まれることには間違いありません。このあたりがグチャグチャになっている人もいます。つまり、自分の複数の願望が全然別方向を向いていて、しかもその中に否定的な思いも混じっているとすれば何もかもが思い通りにならないのは自明のことです。

もちろん、「どんなことでも願えば叶う」わけはありません。例えば、今から身長を20センチ伸ばしたいとか、ウィリアム王子と結婚したいとか、違う人種になりたいとか、亡くなった人を生き返らせたいとか・・・いずれも不可能です。どんなことであれ、その人が意識の底で「現実化する」と本当に知っていることだけが現実化するのだ、ということです。これもまたコラムの「運と意識」と関連していますね。

最後に、重要なポイント。何かを現実化するために、あるいは何かを得る際にはそれと引き換えに何かー貴方の願望を実現するためにはもはや不必要だったり邪魔になったりするものーを失うこともあります。前にも書きましたが本当にどんなプロセスを経るのか当人には見当もつかないことが多いのです。従って「これこれがこうなってああなって最後にこうして実現する」などの自分勝手なシナリオは却って願望の現実化を阻害するだけです。慣れ親しんだものを失って一時的に不安定な状態になるかもしれません。しかし「失うこと」を怖れてはいけません。失うことを怖れれば貴方は何も得られないでしょう。それどころかますます失うでしょう。


願望の現実化Ⅲ 願ったことは叶う、のか

前回の「現実化のための秘訣」の続きです。

2番目は「期待をしない」こと。これは少し難しいかもしれませんが非常に大切です。期待と「焦り・失望」とは対になっているからです。誰でも、特に期待しないで何となく「ああなったらいいなあ」と思っていたことが本当に実現してしまったという経験があるのではないでしょうか?特に注意すべきなのが「時期についての期待」と「相手の反応や結果に対する期待」で、それも今日明日のような近い未来に関するものが特に良くないのです。時期についての期待は「いつそうなるんだろう、まだなのかしら」という焦り、「ああ今日もダメだった」という失望につながり、相手の反応云々については「今度こそよくなってくれないとイヤだ」という焦り、「せっかくこうしているのに相手は全然変わってないように見える」とか「念じて頑張ったのに成果が上がらなかった」という失望につながる。人によっては怒りすら感じることがあるでしょう。ともあれ失望感のほうがリアルに刻印されてしまうと、例の潜在意識の法則により今度は「失望感をもたらすこと」が更に実現するような有様になってしまいます。

1年後、5年後にああなったらいいなあ、くらいにしておくのなら気持ちに余裕が出るのであまり問題にならないようです。望んだことが「忘れたころに叶う」場合が多々あるのもこの「期待をしなくなる」からである、と言えるでしょう。

もしも「失望」を味わってしまったらそれを取り消しておく必要があります。「まあ、いいか。これから頑張ればいいや」くらいのことでも十分効果があると思います。

「ダメだった時にがっかりしたくないから期待しないようにしています」という人がいますが、これは予め「失望」を想定しているというかなりネガティブな姿勢なので上述した「期待をしないこと」とは似て非なるものです。

もう一つの秘訣は「願いが叶った状態の感覚を先に味わって感謝する」ということ。いわば「感謝の先取り」です。とにかく先に感謝してしまえばその「感謝している状態」が刻印されてそれにふさわしいことが現実化する、というわけです。先ほどの「失望感が現実化する」と仕組みは同じだが全く逆の方向ということになります。これはなかなかに高度なテクニックのように思えますが、最近ではあちこちで説かれてきています。たとえ感謝すべきようなことが何もないと思っても、努めて「ああ、良かった、嬉しいな」などという気持ちとともに感謝を味わい口にする癖をつけておくと面白い動きが開けてきたりするのです。無理やり感謝の理由をひねり出したりする必要もなく、誰か特定の人に向かってする必要もありません。神でも宇宙でも守護霊でもご先祖でもよい、ただ感謝の気持ちを味わい表現すればよいだけです。これが劇的に波動を高めます。

言うまでもないことですが、「感謝をすれば効果があるのね、じゃあ感謝してみるけど一体いつどんな風に何が起きるんだろう、今日かしら明日かしら」などと打算による期待をしてしまっては元も子もありません。また「感謝しなくてはいけない」というのが強迫観念になってしまうのも論外―何故ならこれだと「本当は感謝していないのに無理やりそうしている」に過ぎなくなるからーなので、これらについては十分に意識しておく必要があります。

もう一つは、当たり前のことですがいくらよいことを願ったからといって一日の大半を不安や疑いなどの否定的な気分で過ごしたりすれば、その否定的な気分のほうがずっと支配的になりますので良いことは現実化されません。(この項続く)