EuphorianZについて 今日改めて想うこと | The World of Euphorian'Z

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Euphorian 星影つきよの 〜*〜EUPHORICな世界〜*〜

こんばんは。星影です。流れ星

 

突然ですが、今日1月20日はMy Dear Big Sisterが新しい世界へと旅立った日です。

ちょうど10年前の今日、今朝と同じような眩しい朝日に包まれながら彼女は近いけれど遠い場所へと旅立って行きました。

 

 

10年ひと昔と言いますが、ちょうど今年に入ってAIコラボアートを始めたりと区切りがいいこともあり、改めて色々と思いを巡らしているので今日はそれについてお話しします。

 

何故この日に改めてEuphorianZについてお伝えしようかと思ったかと言いますと、もう少しEuphorianZのコンセプトについて皆さんにわかっていただくのにいい機会だと思ったからです。

 

コロナを始め、ここ数年でも世の中ではいろんなことが起こってます。最近では戦争、っていう私の中ではこの時代もう起こることはないのではと思っていたようなことも起こってますよね。東日本大震災の時もそうですが思いがけず状況が一変したり、健康を害されたり、大切な人を亡くしたり。。。様々だと思います。めまぐるしくいろいろと変化していく中、皆さんは毎日どうお過ごしですか?

 

私の生活はある意味、そういった世界の中で起こっている大きな出来事に関する流れに関しては傍観者的な部分が今のところあります。。。。と言いますのも、幸せなことに私の周りでは知っている限り誰もコロナでお亡くなりになったとか、ワクチンでお亡くなりになったとか、事故や事件に巻き込まれたとか、知人や友人が自ら命を絶たれるようなことなど何も起こっていないんですね。でも直接的でなくても近しい人にそういったことが起きたりすると私にはそういう悲しみに今は耐えられないような気がしています。

ほら、人生に起きることはその人が乗り越えられることのみだ、って言うじゃないですか。多分そういうことなんじゃないかと思います。アメリカに住んでた時911のテロ事件が起きた時も結構近かったにも関わらず、私が直接的に知っていた方々で傷ついたりお亡くなりになったりした方は、当日ワールドトレードセンターにいた方や知人の知人まで含めても一人もいらっしゃいませんでしたし、私の魂は多分そういった悲しみには耐えられないようにできているんだろうと思っています。

 

違う捉え方をすれば、私はやっぱり良い力にいつも守っていただいているんだろうな。。。とも常日頃から感じています。私にとって、近所の神社やお地蔵様とかにお参りするのは日常のことなんですが、何かお願い事をすること自体は実は滅多にないんですけどね。代わりに私が何をしているかと言いますと、いつもありがとうございますと感謝の気持ちを伝え、その神様や仏様に祝詞もしくは真言を唱えてその神様仏様を天と地の光と繋げています。でもそれだからか、時々夢に現れてくださったりいざという時助けてくださっている、っていう感じもしてます。

例えばこんなことがありました。仕事ですごくストレスを感じていた2年ほど前のことなんですが、自分の健康に関することでこれは病院に行かなければまずい、という状態に気付いたことがあったんです。でも検査などでやらなければいけない内容を考えた時私自身「これは私には絶対耐えられない!!」って一瞬にして思ったんですよ。そしたらその時ふといつもお参りしているあることに効能があると言われているお地蔵様が頭に浮かびましてね。私はとっさに「いつもお参りしてるじゃないか〜」って半分恨めしい気持ちになったんです。そしたら数日した頃か、夢である景色が見えてその景色っていうのが、薄暗い祠の中で私の目がお地蔵様の目線から見えている光景を見ていて、私は「あれ?これってあそこのいつものお地蔵様の祠?」って思ったところで目が覚めたんですね。で、その後病院に行かなくてはとまで思ったある体の部分を確かめてみると、あんなにはっきりとあったものが綺麗さっぱり無くなってました。で、次の時お地蔵様の近くまで行ったとき立ち寄って確かめてみたんですが、そこは大きめのお地蔵様が2体ありまして、私が夢の中で見た景色っていうのは右側からの景色、つまり向かって左側のお地蔵様の目線だったんですが、やはりあることに効能があると言われてるお地蔵様っていうのがその向かって左側のお地蔵様だったんですよ。感謝せずにはいられませんでした。本当に跡形もなく綺麗さっぱり無くなってたんですよ。こういうことが起こると何か腹たつことがあってもやっぱり最後には感謝感謝という気持ちが芽生えます。

神社の神様系だと他にも色々あるんですが、通常私の夢に出てきて私の目線が神様の目線、つまり拝殿の中から外を見ている光景が見えている時はやはり何かしら呼ばれていたり不思議な力が働いていたりすることが多いみたいです。ま、これはまた別の機会にお話しします。

 

いざという時に守られていたのではと感じたことで言えば、他には高速を運転してて車のボンネットがバーンと全開して視界が全く遮られた時とか、あと走行中、映画みたいに車のブレーキがスカーっと完全に効かなくなった時も、私自身を含め他人、公共物、何一つとして傷つけることなく無事事なきを得たってこととかでしょうか。(ちなみにこの両方ともアメリカで起こったことですが、その車、中古のオンボロ車ではありましたが車検とかは通ってますよ。)その他にもある時落ち込んでて気晴らしに夜中一人ドライブをしてたんですが、いきなり鹿の親子が3匹飛び出してきたことがありまして、急ブレーキしたけど「間に合わない!絶対ひいた!」って思ったんですよ。で、その時もその瞬間「大好きな鹿をひいたなんて私には絶対耐えられない!」ってとっさに思ったんですが、つぶってた目を開けて恐る恐る車の外に出て確かめたところ、鹿の姿どころか何かにぶつかった跡や傷、血の跡など、な〜んにも残ってませんでした。狐につままれたような気分になりながら結局「ありがとうございます、ありがとうございます」と心の中で繰り返し言いながら家に帰った。。。とか、そんなこともありました。

 

。。。長くなりました。。。つまり私はいろんな意味で常日頃からラッキーなのです。。。。。で、何が言いたかったかと言いますと、つまりはやっぱりその人その人によって与えられている試練って異なるもので、いろんなことがいろんなところで毎日起こっている中、大変な思いをしている人々は沢山いる、でもそれらはその人たちが乗り越えられる試練だから起こったことなのだろう。。。ってことですね。

 

でも、例えそうだとしても、私自身、姉の死をここまで引きずっているように、急に大変な状況に陥ったり、大切な人を何かしらの理由で失ったりした人達の悲しみは私からは文字通り計り知れないほどのものではないか。。。と思うのです。

 

私の姉は癌だったのですが、彼女の死についてそれが私のせいだという人は多分いないだろうと思います。彼女はもともとかなり食生活に偏りがありましたし、私は彼女の癌が骨に転移し痛みで寝返りもうてないような状態になって誰も彼女の看病は出来ないから病院に入院させようという時、仕事を速攻辞めて彼女の家に住み込みで看病することにしましたから、周りの親族からは返って感謝されていました。

 

彼女自身からも最期の数ヶ月は心からお互いを想い合う愛情と感謝の気持ちしか感じませんでした。最期に緊急入院して一時的に意識がはっきりとした時、みんなの前で「〇〇ちゃん(私)がいてくれるからみんなが頑張れる」って言ってくれた言葉の中に私には彼女の私への思いが全部伝わってきましたから、最期は分かり合えてたと思います。

 

彼女と私はお互い家族としての愛情が途絶えることは多分一度もなかっただろうとは思います。でも家族だからといっていつも同じタイミングで分かり合えるわけじゃないですよね。私は彼女とも他の家族ともそういう時間があり、彼女とは数年間音信不通になった後、アメリカにいる私には知らせず結婚してその後すぐ癌が見つかりました。

 

彼女は自分が私の生き方、助言を否定して認めていなかったことをわかっていたんですね。意志が強い人だったということもあり、自分は大丈夫という気持ちで自分を維持していた、ってところもあったんだろうと思います。だから癌が再発し余命宣告をされていたことも私達家族には知らせず普通に働いていました。そして痛みで動けなくなって、誰も彼女の看病が出来ない、病院に入るしかないとなってその痛みを私の勧めたサプリメントと自然療法で取ることができた時、数日東京へ戻る用事があって家を出ようとする私に急にしがみついてきて「ありがとう、ありがとう」と何度もなんども言いながら子供みたいに泣きじゃくって私も一緒に泣いたっていう記憶があります。

 

私自身も今の時点から人生を振り返ってみて、その時その時本当に精一杯のことをしてきた、とだけは言えるのでそれだけは私の人生で誇れる部分かなとは思っています。でも今思い返せば私が自分にも周りにも良かれと信じて行なっていたこと、そしてその方法がが全て正しかったとはやっぱり言えないということも否定できません。

姉の死に関しては、私の中にはずっと、もし私がもっと早く色々なことに気がついて、あと、6、7年早くアメリカから日本へ帰国していたなら、多分彼女は今でも生きているだろう。。。というほとんど確信に近いものがあるんですね。今でもそう思っています。そして、彼女の死は私自身が人生の中で大きな失敗をしたような存在になり、どうしてこうならずにすむ結果を導く道を選ぶことができなかったのかというその後悔の念は彼女がいなくなってから何年も私の中から消えることはありませんでした。

 

彼女が今私が生きている世界からいなくなった現実、寂しさと後悔の念は私にいろんなことを考えさせました。

そんな中わかったことがいくつかあります。

 

God helps only those who help themselves.

神は自ら助くものを助く

 

私はこの言葉の本当の意味がわかっていなかった、ということです。そして、同時に他人は変えられない、ってこと。

 

私はアメリカに渡ってからスピリチュアルなことに興味を持ち始め、いろいろ勉強してきました。スピリチュアリティって単に見えない存在の認識云々ではそもそもなくて、自分自身を知っていく、っていうことなんですよ。その過程で通常五感で認識できていない部分の理解が含まれている、っていうだけで。そして自分が何者なのかということを理解していく中で、何度も何度も”人は変えられない”っていう教えは出てくるんですよ。変えることができるのは自分自身のみと周りに対してとる自分の行動。他人はその人自身の意識の選択によってのみ変わることができる。本を読めば知識も増えるし年を重ねればそれなりの経験も積まれていく。でもね、人間ってほんと奥深いもので、生きていていろんな経験を積めば積むほど、わかったつもりになっていたことが本当はわかっていなかった、っていうことの発見の連続なんですよね。そういうことが繰り返し起こると、

 

実るほど頭を垂れる稲穂かな

 

の言葉の意味がしみじみと心に響いてきて、自分に対して謙虚にならざるを得ないわけです。

 

 

私自身、かれこれ半世紀生きてきて、ようやくトンチンカンでポンコツな自分に対しても、最近フッっとほっこり笑えるようになってきたような気がしてます。いや〜私ってほんとに時々トンチンカンでポンコツなんですよ。ここではどんな風にとは言いませんが。イヒあせる

 

そしてもう一つわかったとても大切なことは、人の人生に責任は持てない、ってことです。

私は”みんな”で幸せになりたかったんですね。だから私を取り巻く人達を変えようとしていた、変わってくれることを期待しながら行動していた、ってことです。私が姉の死を私自身の失敗のように感じたのもその表れでしょう。

 

私は母を12歳の時に癌で亡くしています。その時私の家族はみんなとても悲しみました。そして私の家族はみんな所謂『いい人』なんですね。父は母と同じ教員で最後は地元の小学校の校長を経て退職しました。釣りをしている時が一番楽しいと言うぐらい釣り好きで、庭にくるシジュウカラを手から餌を食べるくらいにまで餌付けできたり、教職中は40年ぐらい無償で書道を教え何人も師範にまでなっていたりと所謂善人です。妹は獣医を目指すほど動物が好きでそれを諦めた後も自分の好奇心に素直に従って大学院まで行って脳科学を研究するなどし、その後結婚して子供を持っても養護学校の教師として働いています。彼女の話から障害のある子供たちの中に強さを見つけられているいい先生だと感じました。私の姉も大阪で教師をしていましたが、父や妹に輪をかけて人のために頑張る人だったと思います。彼女が亡くなった時、嫁ぎ先が宗教家だったこともあり家族葬をひっそりすることになったのですが、限られた職場の人、友人、知人にのみ亡くなったことを知らせたにも関わらず、急なお通夜にも300人以上の方が訪れてくださったことにも表れていると思います。

 

でもいい人達だから同じタイミングで成長していくわけでも、同じタイミングで分かり合えるというわけでもないんです。私は姉の死を通してそれをいろんな意味で再確認することになりました。

 

アメリカにいた頃、私は人に対しても生きているこの世界に対しても絶望を感じていた時期があります。私はいつも私に何かしてあげたいと言ってくれるような所謂『いい人達』に囲まれていました。でもいざ私が本当に助けが必要だと感じた時、誰もいなかった。私に対して普通に”好意”を持ってくれている人を全て信じていた私はひどく傷つきました。『いい人達』は時に自分を正当化するために、犯罪を犯すような悪人がするような同等のことを正義や正当な理由を掲げて平気で行なってしまうことがある、ということに気づいたからです。だから”許す”ということ、生きる世界に対して希望をもつということに長い時間を費やしました。

 

時に所謂、『いい人』が他の人に自分本位の判断を下すこと、そのエネルギーが、それを下された誰かにとっては命をも脅かすような刃となる場合もある、ってこと沢山の人がまだ気づいてないんじゃないでしょうか。ネット上の誹謗中傷などもその例の一つだと思います。

 

God helps only those who help themselves...

 

この意味がわかってる人っているのは所謂、どんな状況でも自分自身を愛すことが出来るんだということを知っている人。スピリチュアル的に神を信じているか、とかそういうことでもないんですよね。実際神様を信じていると言いながら完全にそうじゃなくて間違ったことしてる人達いっぱいいるじゃないですか。何も具体的には信じていなくてもまっすぐな気持ちで自分を信じられてそのエネルギーを適切な形で自分とも他人ともシェアできていて、神的な現実を作り出せてる人達も多分沢山存在してるだろうと思います。そういう人達は他人から受け取るエネルギーだけに依存することなく、例え明日一人になってもよし、また0から頑張ろう、っていうエネルギーを自分で作り出せちゃうんだと思うんですよ。ほら、本当に幸せな人って人といる時間も一人の時間も大切に出来てる、って言うでしょう?

 

つまり私の言うEuphorianZって例えば外から見た条件、成功してるかとかいくらお金を持ってるかとか、いい仕事をしてるかどうかとか、そういうことだけではないんです。それらはあくまでも後付けの条件に過ぎないと思ってます。例えば頭が良くてエリートとしていい仕事ついて偉そうにして全然わかってないなっていう人ってニュースとか見てるとやっぱり存在してるみたいですよね。爆笑 わかっている人とわかっていない人の判断ってパッと見では難しいですが、”人の死”が関わってくる時、特によく表れます。

 

ですから私が応援したいEuphorianZって、見たくないこと触れたくないことに目をつぶったり、都合の悪いことを隠して、綺麗事だけを言いながら、表面でeuphoria~って頭の中がお花畑になっている人達ではないですよ。陰と陽の両方の現実を認識しながらもそれでも陽、つまり光のある場所を選んで進んでいける人達のことを指しています。

 

今現在、愛する人、自分を理解してくれている人、自分を愛してくれる人、尊敬し合える人が側にいて戦争の起こっていない平和なこの日本で毎日五体満足で健康に過ごしていられている人は、それってそれだけで奇跡なんだってこと、毎日毎日感謝ですよね。美味しいものがいっぱいあって素晴らしい文化や風習があって素晴らしい歴史のある国に生まれてきてること、もうそれだけで十分すぎるほどの強運の持ち主なのです。

 

そして最近特に思うのは、ホント、いつ何が起こるかわからないってことです。だから例えば今あなたが仕事で大変な思いをしているとして、そんな思いをし続ける意味あります?って思ってしまいます。そんな時間勿体無いですよ。私の幼馴染のようにある日交通事故にあって若くして亡くなってしまうかもしれない、明日地震が襲ってくるかもしれない。。。元気でい続けるために打ったワクチンで亡くなってくなってしまうかもしれない。。。今の現実に感謝しながら、改めたいことがあれば心から「ごめんなさい」と大切な人に伝えながらまた一から頑張ればいいのでは。。。と思います。

 

だから今いろんな意味で大変な思いをしている人達、幾つになろうが何が起ころうが諦めることだけはしないでくださいね。

「諦めたら試合終了」と人気漫画でも言ってます。私の例じゃないですが、どんな時でも一人じゃない、ってことそれを信じるだけで本当にそうだ、ってことどんどん証明されること起こりますからね。

 

長くなりましたがそういう思いから星影つきよのLifetime ProjectとしてEuphorianZを立ち上げてます。

ゆっくりですが亀のようにボチボチずっとやっていく予定です。照れ飛び出すハート

 

あ、簡単ですがEuphorianZのOfficial Homepageでも私自身とEuphorianZについて説明してますのでよければご覧ください。

 

 

最後に世界中にいるEuphorianZの皆さんへ

私の祈りがアートを通してどうぞあなたにも届きますように。。。キラキラ

 

実るほど頭を垂れる稲穂かな。。。

 

許します!ありがとう!感謝します!嬉しい!楽しい!大好き!愛してる!よかった〜!幸せ〜!ついてる〜!

そして私は決断する!!真顔キラキラ

 

次回はAIコラボアートについてもう少し詳しく説明するよ。

それではまた〜UMAくん音譜

 

星影流れ星