久しぶりに、父と教会に行きました。
数年ぶりか、十数年ぶりかもしれません。
母のお腹にいるときから教会に通い、
幼児洗礼を受けたものの、
 
 

「鵜呑みで信じる」ことに疑問が大きかった私は

不良クリスチャンの道を行き
高校卒業の頃に信仰告白をしたものの、
今思えば、それは本当の信仰と呼べるものではありませんでした。
 
 
 
 
 
大学に入ってからも
自分の中の「宗教観」を模索する日々は続き
・モルモン教
・真光教
・浄土真宗
・天理教
 
今思えば色んな世界を垣間見ました。

 
 
 
 
教会もしっくりこないけど
他の宗教もしっくりこない。
 
 
どれも「私のものじゃない」感覚で、
宗教の中には私の答えはない。
そんな風に思いながら十年近くを過ごしました。
 
 
 
 
そのうちに
自分の人生と深く向き合う時期を迎えました。
パートナーとの関係・仕事・健康・お金
全てががんじがらめでうまくかなくなっていたんです。
 
そのとき自分の中に「宗教」という選択肢はありません。
ただ、自分自身との関係をみつめる日々の中で
歩むべき道が照らされていくのが分かってきました。
 
 
 
 
キリスト教的に言えば
自分の中にイエスの光(導き)があることが分かってきたのです。
(スピリチュアル的には、ハイヤーの直観です)
 
 
 
 
 
「心の真ん中の声を聞きなさい」
 
 
 
 
最初のターニングポイントになったのは
カフェにおいてあった
オシャレな名言本にあった↑この言葉でした。
 
この言葉が、どうしても心の琴線に触れて
、、、これだと。思ったんですね。
まさに、心の真ん中の声(琴線)が「これだ!」と言うわけです。
 
 
琴線に触れる

…きんせん【琴線】 琴の糸。比喩的に、人の心の奥に秘められている真情。

真情

真実の状態。実情。

 
 
琴線に触れた…
つまりは、心の中にある「真実の状態」に触れたので、反応したわけです。
 
 
 
あとで(自分なりに)分かったことですが
イエスキリストが私たちのうちにあるのだから
自分の琴線に聞けばいいわけなんですよね。
 

(参考:わたしに聞け。正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。イザヤ書51:7)
(参考2:信仰をもって生きているかどうか自分を反省し吟味しなさい。あなたがたは自分のことが分からないのですか。イエスキリストがあなたのうちに おられることが。 コリントⅡ13:5)


 
 
 
 
そうこうしているうちに、
だんだんとこの世の摂理というか
神の力の働きようが、
日常の存在として分かるようになっていきます。
 
すると、久しぶりに手に取った
聖書の言葉の破壊力がものすごかったんです。
これもそうだ。あれもそうだ。
これも、あれも真実だ!!と。
 
 
 
聖書パネェ!笑い泣き
 
 
 
 
そんな興奮する心を落ち着かせ
(元)牧師の父と幾度も談義を重ねるうちに
久しぶりに教会にいこうと思うようになりました。
 
クリスチャンとしての礼拝というより
聖書大好き人間が
聖書の話を聞きたくて、、触れたくて、、
という思いです。
 
 
 
大学時代にお世話になった教会へ
久しぶりに遊びに行きました。
 
 
 
説経や賛美歌が懐かしくもあり、
何かが浄化されるような涙も溢れました。
(教会で育った幼少期のカルマが浄化されたような、なにかのつかえが解けていくような感覚でした。)
 
 
 
 
ただ、20~30年前と変わらないのは
誠実な感じだけど
ピンと来ない説経。
 
そこまで懐かしかった。笑
(悪く言ってるつもりはありません.、)
 
 
 
 
前の晩に眺めた
マタイによる福音書を思い出しました。
 
「この民は口先ではわたしを敬うが
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。」
 
 
 
 
 
キリスト教教会に通っていることが
イエス・神と通じ一体となっている
ということではありません。
 
信仰があるということは
どれだけ聖書が詳しいとか
どれだけ教会に尽しているかということでも在りません。
(信仰の道が、たまたまそれにかぶることはあると思います)
 
神は宗教がある前から在り
 
人の作る宗教のないところにも在られる
 
キリスト教のないところにも
イエスはともに在るんです。
 
 
 
 
人の作る信仰の形に囚われず
神とともに在ることを第一義として
リアルに日常をすごすこと。
その感覚が今の教会にも
まだあまりないような感じをうけたのは正直なところです。
 
 
 
 
すこし形式チックな礼拝も
(文句を言ってるんじゃないんです。今の教会にはあの先生が最高だから、召し使わされていらっしゃるんですから。)
ゆっくり聖書とともに在る時間は
勇気付けられます。
 
この世のペースじゃなくて
神のペースで生きるのには
教会のような場所が心強いからです。
 
 
 
 
 
今回の記事は、誰か個人の信仰をどうこういうものではありません。それぞれが主の導き(≒ハイヤーや宇宙の導き)によって十分なペースで信仰の歩みをすすめていますので、万事順調なのだと思いますし、自分は自分の歩みに集中すべきだからです。
 
 


 
ただ、「形式的な信仰」と言う流れは
今もあるかもねと、思ったのでした。
 


 
「この民は口先ではわたしを敬うが
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。
 
マタイによる福音書15:8-9」
 
 
 
 
 
 
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