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伝道の書って何だろう。

 

 

何年経っても

始めて出会うような言葉や箇所がありますね。

 

それは、神の計らいで、一番必要なときに

必要なものに出会えるようになっているのだと思います。

 

 

 

 

さて、「伝道の書」とは口語訳の表現で

新共同訳の「コレヘトの言葉」のことだそうです。新共同訳で育ったので耳慣れなかったと思いきや、

そういえば、「コレヘトの言葉」も知りませんでした。

 

 

 

 

〝箴言の後〟にあります。

(それならなんとなくイメージつきますね。

 

 

 

 

これ超良い箇所!というのは

オコガマシイですが、本当にすごい箇所なのでシェアさせてくださいね。

 

伝道の書は「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。」だそうです。


(コレヘトは地位を指す言葉で、この人物はソロモンではないか?と言われているようですよ。)

 

 

 

 

 

この人の言葉を見ると、

本当に人生をかけて「神の国と神の義」を求めた人だったんだなと思いました。

身をもって体感し掴んだ言葉なのが伝わってきてこちらにも身に染みて感動します。

 

最近ではWikiでも聖書が読めるので

よろしければご参考にどうぞ。https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC3%E7%AB%A0

 

3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。(2章3節)

 

 

 

聖書には「不承不承ではなくことに当たるように」と諭す箇所がありますが、

 

 

 

このエルサレムの王は本当に純粋に

「自分と神との関係」がどんなものなのか百戦錬磨で求め続けた人だったんだなと思います。

(コリントの信徒への手紙2:不承不承ではなく、強制されるのでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。9:2)

 

 

 

 

 

これが、人間の尺度ではいいこと悪いことであっても、このエルサレムの王が「愚かな事でもやってみよう」と素直に心に決めたところに美しさを感じます。

 

せっかくなのでコピペします。

 

 

 

4 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、

5 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、

6 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。

 

11 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。

 

 

 

 

王は、この世の生き方を色々やってみたわけです。

まず、事業をしてみました。繁栄し、事をなしましたが、諸行無常であり、人間のする苦労の下ではみな虚しいものだったと悟ります。(ここに出てくる〝空〟は仏教的な空ではなく、その虚しい様を言っていると捉えます。)

 

 

 

そして、どんなに賢くなったとしても

同じように死んでしまうではないかと虚しさを感じます。

 

 

 

16 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。

 

 

 

 

17 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。

 

ちょっと病んできます。

「ああ、人間の快楽や成功を得ても、なんにもならなかったではないか。」と。

 

 

 

 

当時のイスラエルの王って、最高の権力者で

しかも経済的にも事業も成功して、娯楽も充実させて、これ以上ないだろう!というところまで行って、

「虚しい」と知ってしまうというのは

生きることをいとうて当然かもしれません。

 

 

 

 

18 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。

19 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。

 

しかも、この功績を残してしまったがゆえに、

この仕組みを後世に残してしまうことも憂いています。

「日の下で労したものを後世に残すこと」

つまり、神の知恵ではなくて人間の知恵と労で創ったものを残すことを憂いているのだと思います。

 

 

 

 

 

22 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。

 

そもそも、人の知恵でする「労」や、人から出た「心遣い」によって、何を得られることがありましょう。

 

 

 

 

24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。

 

神の手から出る「飲み食い」「労苦」によってのみ、楽しみが得られるのですよと。

 

 

 

 

そんな風に悟ったように感じられます。

 

 

 

 

つまりは、「飲み食い」「労苦」って普通の日常ですよね。

 

 

 

食べて寝て仕事して。

でも、それの出発点が「神の手」であることによって心が楽しむのだということです。

人の「労」ではなくて神の手から出る「労」や「飲み食い」によって心が楽しむ。

本当にその通りだと思うし、それでよいのだと、励まされる思いがします。

(26節については、私個人がに学びの課程のように思うので触れずにおかせていただきますね。)

 

 

 

 

 

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、

4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、

5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、

6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、

7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、

8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

 

うーん深い。

事にはそれぞれ最高のタイミングがあるのだよと。

 

 

 

 

 

9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

 

これは、「日の下の労」のことを言ってますね。

 

 

 

 

10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。

 

そうではなく、「神の与えた労」については、

 

 

 

 

11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 

こちらは、人の「労」とは違って

完全に調和がなされており美しいのだと。

 

 

 

 

しかし、見極めることができないですよね。

神に導かれても、なんで、タイミングでこんなことしなきゃならないんだろうかと。人は思います。

後になって分かることもあれば、もしかすると、あの世に行って初めてわかることもあるかもしれません。

 

 



 

12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。


今っぽいですよね。

人生、楽しむっきゃ無いよ!と。笑笑

(旧約聖書なので、もはや3000年前の悟りです。笑)








13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

 

 

神との正しい関係(神の義)を通じて得た、「神の与えた労」で楽しんで、飲み食いできる。

それが最高の人生なのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

そんな導きに感謝して日々の歩みを楽しみたいと思います。お付き合いありがとうございます。

 



 

 

 神のなされることは皆その時にかなって美しい。伝道の書3:11

 

 

 

 


 

 

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