久しぶりに教会に行ってきました。

1回か2回スキップしたかと思います。

 





今日は牧師先生が


私たちは〝受難節〟を過ごしています。


と言われていたので、

「なんの事だっけ」と思いながら、

 

 




 

「今って確かに霊的に、

アセンション(デトックス)の時期だし、

受難期っていう雰囲気あるよね~。」

なんてことを考えていました…

 

 



 

が、どうやら復活祭(イースター)の前日までのことを指すようですね。

 

 

 

wikiより

四旬節(しじゅんせつ、ラテン語: Quadragesima)は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと。

聖公会では「大斎節」と呼び、プロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ぶこともある。

 

 

 

 

復活祭といえば、

3日目に蘇った、十字架の話なのでありますが

「十字架がたてられたことで、罪が許された」のように説明されていると思います。

 

 



 

しかしながら、

今のところ私には何のことやら

正直よくわかっていません。


ということで、今日はその部分について話してみたいと思います。

 

 

 

 

■何故、神の導きと一体のイエスが「ただひたすらに幸福と共に在り続ける」ということが出来なかったのか。


■何故、残酷な処刑をされなければならなかったのか。

■その処刑で、何故「許し」になるのか。

 

腑に落ちてお分かりになっている方って、いらっしゃるのでしょうか。

 

 

 




 

繰り返しになりますが、私は

「わ・か・り・ま・せん」

 

むしろ、神の導きに従った結果が十字架にかかるだなんて…お手本であるイエスの在り方の先にあるものがソレだなんて…夢も希望もないじゃないか。そんなことすら思う次第です。
 
 



こう話すと、キリスト教について無知だとか
信仰が浅いと思われる方が大半かと思いますが、
(天の国に入ると言われる)子供のような心になって、一度リセットして眺めるのも悪くないのではないでしょうか。


 

 
 
本当に、宗教論者、牧師、伝道者、そして良き信徒。彼らは本当に腑に落ちて語っているんでしょうか。

 
腑に落ちて受け入れているのでしょうか。
 
 
 
 
 
●罪ある民を救うために、おかかりになってくださったのだよ。
●それが、神のお心だったのだよ。

と言う、その前に。
 
 
 
 
冷静になって、
純粋になって、
ニュートラルになって、
 
そのままを見てくださいね。
 
 
もういちど、お聞きしたいです。
 
 
 
 
 
「十字架にかかる=他の人が許される」
この因果が、論理上でも、体感上でも
なんのこっちゃ(今は)意味が分からないのですがいかがでしょうか。

 
神は人間の理解を超えているという意味で
わかる必要もないのかもしれないという
可能性があるということを認知しつつも、
 
 
 

 
「聖書に書いてある」以外の何か
聖霊の導きで分かったことのあるかたがいらっしゃれば
是非教えていただきたいですね。
 
 
 

 
「わからない」
教会ではだいたい、この言葉を聞いたことが無いですし、どこか、タブーのように感じる部分もあります。
 
アーメンその通りです。
それ1択のようにすら見えます。
 




こどもの頃からそれが
不気味で不気味で仕方なかったものです。
「本気で腑におちてるの?」と。

(今日書きたかったのは、十字架が本当かどうか?それで本当に罪許されるのか?という真偽の審議ではなくて。ここの、聖霊の導きを感じない鵜呑み体質への違和感なのです。)
 
 
 
 
夫が教会に行ったときの感想も
「で、何を言いたかったの?質疑応答ないの?」
でした。
 
 
 
 
逆に、教会の実態は
聖書に書かれていることの
鵜呑み合戦ではないでしょうか。
 
 
 
 
素直な気持ちで
リアルな体感で、そうだ!そうだ!と感じることがあるのでしょうか。
 

そんなこと言ったら、不信神だと
「何か分からないけど、ありがたい事」として、なんとなく南無阿弥陀仏のように聞き流していないでしょうか。別にそれもいいんですけどね。

 
 
 
言いたいことも言えないそんな世の中じゃ。
POISON 
ポイズン。
 
(赤ちゃんが泣き止むことで流行ってましたね。)
 

 
取り乱しました。
 
 
 
 

でも、分からないことは罪ではありません。
 
必要であれば、
聖霊の導き「こういうことだよ」
ということを人生を通して教えてもらえるようになります。 必要なことは全て与えられているからです。

聖書や宗教によってではなく、聖霊がリアルに直接教えてくれるんです。

 
 
 
 
今日の説教はというと
ヨハネによる福音書8章48節~でした。
ユダヤ人がイエスに対して
「おまえは悪霊にとりつかれている」と言うシーンでした。
 
 
 
48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。
49 イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。
50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
 
 
 

牧師先生はそのユダヤ人について
「生きた神に出会っていない」いう表現をされていました。
 
 

 
律法学者は神を分かったような顔をして
生きた神との体験をなしにして
「律法に従っている自分」という自我の栄光に酔っていた

…というような感じのお話でした。
おっしゃる通りだと思います。
 
 

 
では、先生方は
生きた神に出会っているのでしょうか。
 
 

 
「キリスト教」という「型」の
形骸化した教えに酔っていらっしゃりはしないのでしょうか。

(ここは、先生方を批判したいのではなく、リアルな聖霊との繋がりによる喜びを、キリスト者と分かち合いたいという思いです。)

 

 

 



では、実際問題

罪が許されるのはいつなのか。

タイトルにつけたので、自分の内なる聖霊に教えてもらったことを参考に書いてみます。

 






(的外れ)が許される(癒される・修正される)ときというのは、


罪(的外れ)と無縁となるときでありまして、

つまりはカルマ(的外れの要因)の解放(手放し)が起こるときであります。

(無理に理解する必要ないです)



 

 

 

「今って確かに

アセンション(デトックス)の時期だし、

受難期っていう雰囲気あるよね~。」


と先に書きましたが、

十字架にかかったときをピークに、罪が許されるという展開は確かに罪許される時と似ているところがあります。

 






カルマ(的外れ)のデトックス(手放し)がおこるとき、受難期とも言える苦しみがあります。


産みの苦しみというように、罪(的外れ)を手放すときには苦しみが伴う場合があるからです。

 

受難を経て、気づき、解放されることで、

ひとつの罪(的外れ)と無縁になっていきます。

 

 

 

 

自分の罪(的外れ)が許される(癒される)実体験、それは、自分のカルマが解放されるときなのでありますが、

 

経験上、導き上は、今のところ

罪の許しと「十字架」との関係はよくわかりません。(象徴的な経過としては分かりますが)

 





 

キリスト教にしろ、

聖書にしろ、

「人間」が関わった経緯のあるものという認識を待っているのが懸命だと思うことがあります。


何がどう挿入されたり、訳されたりされていても、実際のところ完全には分からないというのが、本当のところなのではないでしょうか。

 




形骸化した宗教の型を鵜呑みにせずに、

歴史上何がどうだったとしても、

まず、聖霊の導きによって

「神の国」と「神との繋がり」を求めるのを

第一義にしていくというのが大切なように思います。




 

 

 

あいかわらずこの世的な教会の側面を感じつつ

自分の弱さから批判的になっていないか

心を監視することに忙しくなりました。

 

◼︎信仰の弱い人を受け入れなさい。

◼︎兄弟を侮ってはならない。 

というのは本当ですね。

 

 

 

自分は自分で

神の栄光の表すことに集中にすべきと自らをたしなめつつ、

良い天気の日曜日、

てくてくと散歩しながら帰路についた今日でした。


 

 

 

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