image

唐突なんですが、

「わが主よ今ここにて」って

いい曲ですよね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=tMQRctGTqZM

 

 

 

 

 

さて先週は父が「コロナ予防」と言って

礼拝を欠席すると言うので

一人で行こうとすると、初めて夫がついてきました。

 

 

 

 

 

 

先週の説経は

ヨハネによる福音書8章31~38節でした。

先生は最後どのようにお話されるかなと

楽しみにしていたのですが

軽くスルーされたような感じで、不完全燃焼。

この部分を(欠席した)父とも熱く語れなかったので、ブログを書いています。

 

 

 

 

 

 

以下は新共同訳のヨハネによる福音書

「真理はあなたたちを自由にする」という箇所です。

 

08:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

08:32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 

08:33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 

08:34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 

08:35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 

08:36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 

08:37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 

08:38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

 
 
 
 
 

ここの要点は

「罪」「父」です。

 
 
 
 
 
私たちにとってこの文章は、
アブラハムの血統とかそういう過去の話ではなくリアルに今ここで起こっている話として受け入れることで、より目が開かれる箇所になると思います。
 
 
 
 
 
 

クリスチャンがよく誤読していると思うものの一つが「罪」という部分です。

 

殺しとか、浮気とか、暴力とか、親切心が欠けたこととか。多くのクリスチャンは「罪」とはそういうたぐいのものだと思っているのではないでしょうか。だから、善人になろうとか聖者になろうとするわけです。

 

だから、キリシタン時代の宗派では

鞭で自分を打って清めるなんていう

方法すらとろうとしてきました。

(映画ダヴィンチ・コードにも出てくるあれです。)

 

 

 

 

 

 

原文のままで言えば

それこそ「罪」=「的外れ」です。

 

「罪」と訳されているもとの単語は

「的外れ」という言葉だそうです。)

 

 

 

 

 

 

 

「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 

奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 

だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 

 

 

 

 

 

これはどういうことかといえば

「的外れな意識」の支配下にいれば人生がその「的外れ」に翻弄されるということ。


この「的外れな意識」は本質ではないので、

いつまでも人の中に居座ることはできないが「子」つまり「イエス」(ハイヤーの導き)というものはいつも我が家(人間)の中にある。

 

だからもし「イエス」によって自由になるのなら、私たちは本当に自由になる。ということです。

 

 

 

 

 

 

 

この後、

新共同訳と口語訳とで大きく違う部分があります。最後の部分。38節です。

 

(新)

08:38わたしはのもとで見たことを話している。ところが、あなたたちはから聞いたことを行っている。」

(口)

8:38わたしはわたしののもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。

 

本意に沿っているのはこの部分では後者であると言えると思います。
 
 
 
 
 

 
イエスはこう言いたかったと思うわけです。
「私は、父なる神に従っている。あなたたちは、この世の父に従ってる。」と。
 
この世の父とは、この世の常識、世間の目。人間の頭で考えた「得」になること。権力。特権意識、優越感、劣等感、トラウマ。などの「的外れ」の源です。
 
 
 
 
 
 
 
御言葉が腹におちていないから、あなたたちは「神から来たもの」ではないものに従って動いている。と、そう言われたのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
イエスはたびたび「私の時ではない」とか
「自分勝手に動いていない」と話していますが
つまりこういうことなのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
私は神に聞いたことを、神のタイミングで、その通りにしているんですよ。と。
 
 
 
 
 
 
イエスが「人であり、神である」といわれるのはそれが所以なのではないでしょうか。
 
 
イエスは人間である。
ただ、神の表現を正確に、そのままに「的を外れる」ことなく行う存在は、もはや神そのものであると。
 
「神の栄光を完全に表す」神の子は、もはや神だと。神と一致できるほどに完全な人だったんでしょうねと、私は思います。





 
感動的な箇所だと個人的にはうち震えているんですが、いかがでしょうか。
 
 
 
 
 
わが主よ、今ここにて
したしくまみえまつり、
 
 
主は
今、今ここに在ります。
 

ここにはあがないあり、
ここにはなぐさめあり、
 
 
今ここが
私たち個人個人にとって完全です。
 
 
 
 
 


 
 
 
わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている。
ヨハネによる福音書8:38
 
 

 

 

活動への思いその① その②お問い合わせ(LINE)