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更新停止のお知らせ

明日から三週間ほど旅行に出かけますので、

帰ってくるまで更新を停止します。


ブログをやめるわけではないので、

見捨てずに待っていていただけると嬉しいです。

蒋経国

台湾民主化の父 (1910~1988) 中華民国総統


【統率】76
国民党が台湾へ渡ると、特務機関を組織し、
中国青年反共救国団を成立させ、
国民党の一党独裁体制に大きく貢献しました。
また、台湾人を積極的に登用し、
後継に李登輝を据えました。
晩年には、民主化政策を矢継ぎ早に行い、
台湾を急速に民主化させました。
その統率力は優秀なレベルにあったと考えられます。


【武力】31
軍事知識も軍を指揮した経験もありませんでした。


【知力】73
一党独裁体制を維持するために、
あらゆる手を尽くしましたが、
経済が発展し、民主化要求が高まると、
民主化は避けられないと考え、
死に際に民主化路線に切り替えました。
その判断力は優秀なレベルにあったと考えられます。


【政治】85
戦後、ソ連との外交交渉を担当しましたが、
失敗に終わり、国共内戦の敗北の一因となっています。
また、上海で経済統制を行いますが、
強権的な手法を用いたため、失敗しました。
国際的にも中華人民共和国との外交戦に敗れ、
国連の議席を失い、孤立していきましたが、
相手が外交の天才周恩来では仕方がないでしょう。
内政面では国内の産業基盤の整備と重工業の振興に力を入れ、
台湾の経済を大きく発展させ、
アジア屈指の経済大国にまで押し上げました。
その一方で特務機関を使い、台湾独立派を監視し、
徹底的に弾圧するなど、謀略に長けたところも見せています。
失敗も成功も多い人物ですが、
総統就任後の政策はどれも大きな成果をあげており、
高く評価するべきでしょう。
その政治は当時の中国を代表するレベルにあったと考えられます。


【魅力】68
台湾全土を回り、気さくに人々に話しかけ、
経済政策の成功もあって、
民衆から高い支持を得ることに成功しました。
その一方で特務機関のボスとして、
彼を嫌う声も少なくはありませんでした。
その魅力は有能なレベルにあったと思われます。


中華民国の政治家
ソ連に留学し、帰国後は要職を歴任。
国共内戦で国民党が敗北すると台湾に渡り、
特務機関を創設して反政府運動を弾圧。
政府内での地歩を着実に固め、
厳家淦の後を継いで総統に就任。
十大建設と呼ばれる大型インフラ整備を成功させ、
台湾をアジア屈指の経済大国に押し上げる。
開発独裁を推進してきたが、
晩年になると、野党の設立容認やメディアの自由化、
戒厳令の解除、大陸への渡航の自由化など、
民主化政策を推進し、
長く冷遇されてきた本省人(台湾人)を登用。
一党独裁国家だった台湾の民主化への道筋をつけた。

王守仁

陽明学の祖 (1472~1528) 明帝国南京兵部尚書


【統率】74
少数精鋭をモットーとし、
自分の弟子を中心とした部隊を組織し、
連戦連勝を収めました。
また、地方官を務めていた時は、
民兵を組織して賊の討伐にあたりました。
その統率力は優秀なレベルにあったと考えられます。


【武力】83
兵10万を擁する寧王の反乱を二週間で鎮圧したり、
農民反乱や賊の討伐に奔走し、不敗を誇り、
武勲当代随一と讃えられました。
また、幾多の武将が鎮圧できずにいた
江西、福建、広東の賊を討伐することに成功しました。
その指揮能力は当時の中国を代表するレベルに
あったと考えられます。


【知力】77
辺境を脅かしていたタタールに対する対策を進言して、
時宜にかなったものであると讃えられました。
また、賊に対していきなり兵を用いようとせず、
最初に文章を送って説得し、
しばしば戦わずして降伏させました。
また、戦後処理に力を入れ、
二度と治安が乱れないようにしました。。
その判断力は優秀なレベルにあったと思われます。


【政治】75
地方官としては教育に力を入れ、
学校を建設しました。
また、私財を投じて民衆の救済に尽くしました。
そのため、家族を困窮させたほどです。
また、治安対策にも尽力し、
賊が発生しないようにしました。
その政治力は優秀なレベルであったと思われます。


【魅力】86
その人柄と学問を慕う人々が家の周りに
軒を連ねて住むようになり、昼夜を問わず人が出入りし、
空前の賑わいぶりを見せ、
王守仁が講義を行うたびに、
数百人が聴講するというほどの人気を集めました。
また、賊の中には、彼の人柄にうたれて
降伏する者もいました。
その一方で小人に妬まれ、
生涯彼らの誹謗中傷に悩まされ続けましたが、
これは清廉潔白な彼にとっては、
名誉なことであったと言うべきでしょう。
その魅力は当時の中国を代表するレベルに
あったと考えられます。


明の軍人・政治家
王陽明の名で知られる。

専横を極めていた宦官劉謹を弾劾して
辺境に左遷されたが、
学問の研究を怠ることなく続け、
陽明学を生み出した。
劉謹が処刑されると、要職に起用される。
明代で最も政治が乱れ、反乱が頻発した時代にあって、
寧王の乱を始め、多くの反乱を鎮圧。
その一方で民衆の教育や救済にも努めた。
広西の反乱を鎮圧し、その帰途に病死した。

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