歴史上の人物の能力をシミュレーションゲーム風に、数値化してみるブログ -5ページ目

グリーン

アメリカ独立の英雄 (1742~1786) アメリカ合衆国陸軍少将


【統率】76
コシューシコ、リー、ウィリアム・ワシントン、
フランシス・マリオンら有能な人材を使いこなし、
南部戦線を勝利へと導きました。
その統率力は有能な部類にあったと思われます。


【武力】78
英軍の名将コーンウォリス相手に二倍の兵力で挑んで、
敗北を喫するなど、必ずしも常勝ではありませんでしたが、
質的に英軍に劣っていたアメリカ軍の中では、
最も多くの勝利を挙げた将軍の一人でした。


【知力】87
圧倒的劣勢にあった南部戦線を戦略的撤退によって立て直しました。
また、戦場では敗北や引き分けに終わっても、
戦略的優位を常に確保し続け、パルチザンと連携して、
最終的にコーンウォリスを打ち破って、勝利を収めました。
その知力は当時のアメリカを代表すると思われます。


【政治】68
補給局長の職務に就き、その有能ぶりを
ワシントンに称えられました。
その実務能力は有能と言って良いレベルにあったと思われます。


【魅力】70
清廉な人柄で知られ、独立戦争終了後は公職から退き、
諸州から送られた土地を売って、
南部戦線で戦った兵士のために使いました。
また、敵軍に対する寛大な態度でも知られ、
多くの人から慕われました。
その魅力は優秀な部類に入ると思われます。


アメリカの軍人
独立戦争が始まると軍に入り、
准将に任命され、一年で少将に昇進した。
ワシントンの指揮下で転戦し、多くの武勲を立てる。
圧倒的な劣勢にあった南部戦線の総司令官となると、
戦略的撤退を続けつつ、兵力を集め、、
英軍に対抗できる軍隊の養成に力を尽くす。
戦闘ではしばしば敗北したり、引き分けに終わったりしたものの、
そのたびに大きな損害を与え、敵の兵力や士気を削いでいき、
ついには降伏に追い込んだ。
南部の英軍の降伏は、イギリス本国にも大きなショックを与え、
世論は和平へと傾いていった。
戦後は陸軍長官への就任を要請されるが固辞し、農場を経営。
病気のために44歳の若さで死亡した。

劉濞

漢の東帝 (紀元前215~紀元前154) 漢帝国呉王


【統率】44
二十万の大軍を率い、中原に進出しましたが、
戦況が膠着状態に陥ると、
逃亡兵が続出し、急速に弱体化しました。
統率力はあまり高くなかったようです。


【武力】59
淮南王英布が反乱を起こすと、
従軍して武勲を立て、呉王に封じられました。
呉楚七国の乱では梁軍を撃破しましたが、
後退して籠城した梁軍を攻めあぐね、
敗北の原因を作ってしまいました。
武力はそれなりに高かったようですが、
梁軍が籠城する雎陽を攻め落とせなかったので、
やや減点して、可もなく不可もないレベルとします。


【知力】40
速戦即決を唱える部下の進言を却下し、長期戦を志向。
三方面から長安に攻め入るという戦略を採ります。
しかし、戦いが長期化すると食糧が不足し、
逃亡者が増えていき、ついには敗北しました。
戦略眼には長けていなかったと思われます。


【政治】78
銅山と塩の産地を領内に持ち、その財力を背景に
税を免除するなどの善政を敷き、
他国からの亡命者を受け入れ、通貨を鋳造し、
別天地を築きあげました。
漢から領地を削るとの通知が来ると、
六国の王を仲間に引き入れて反乱を起こし、
異民族国家東越国の協力も取り付けていました。
その内政手腕と外交手腕は、
優秀なレベルにあったと考えられます。


【魅力】60
人望を表すエピソードはありませんが、
プライドが高く、剛毅な性格だったようです。
その配下には多くの人材が集まり、
亡命者を受け入れていたことから、
それなりの人望はあったと思われます。



中国漢の諸侯
英布討伐に従軍して武勲を立て、
呉王に封じられる。
豊かな財力を背景に善政を敷き、
別天地を築き上げる。
息子が皇太子(後の景帝)に殺されると、
入朝しなくなるが、文帝のとりなしで事なきを得た。
景帝の時代になると、諸侯への締め付けが厳しくなり、
呉も会稽郡と豫章郡の没収を通告される。
これに反発した劉濞は六国の王と結んで

]呉楚七国の乱を起こす。
兵二十万を擁し、当初は劉濞軍有利と見られており、
漢の東帝を称するほどの勢いだったが、
戦略のミスや梁を攻め落とせなかったこと、
補給路を断たれたことなどから最終的に敗北し、
同盟を結んでいた東越国に逃亡するが、
裏切られて殺される。

カイドゥ

反フビライの星 (?~1301) カイドゥ・ウルスハーン


【統率】71
反フビライのモンゴル貴族を糾合し、
一代で中央アジアを支配しましたが、
フビライが死ぬと、彼らは次々と元に帰順。
勢力基盤崩壊の危機に見舞われ、
武力対決に追い込まれました。
その統率力は非凡なものでしたが、
反フビライの旗印があって初めて発揮されるものでした。


【武力】65
反抗したチャガタイ・ウルスのニグベイを敗死させ、
ウイグル王国を滅ぼして中央アジアを統一していますが、
ナヤンの乱に呼応した時はバヤンに敗れ、
フビライ死後にモンゴル本土に侵攻した時は、
カイシャンに敗れています。


【知力】84
シリギの乱では、その失敗を予測して、
深入りしようとしませんでした。
また、モンゴルの実力者ナヤンを扇動して、
反乱を起こさせ、呼応してモンゴル本土に攻め込み、
最後は敗北したものの、フビライを苦しめました。
自らの戦力の限界を悟り、
フビライ存命中は全面対決を回避しました。
その知力は極めて高いレベルにあったと考えられます。


【政治】86
フビライの即位に不満を持っていたジュチ・ウルス、
チャガタイ・ウルスと手を組み、
反フビライ同盟を結びました。
チャガタイ・ウルスの内紛に介入して、
傀儡君主を立て、中央アジアを支配しました。
豊かな中国を支配し、戦力面で圧倒的優位にあった
フビライに対し、三十年もの間対抗できたのは、
カイドゥの高い政治力の賜物でした。


【魅力】68
勇猛果敢な性格であり、小領主の出身でありながら、
反フビライの旗印となるなど、
高いカリスマ性を持っていました。
しかし、そのカリスマはモンゴル貴族の
フビライへの反感によるところが大きく、
フビライが死ぬと、元への投降者が相次ぎ、
勢力は徐々に傾き始めていきました。


モンゴルの君主
没落していたオゴタイ家の指導者となり、
フビライとアリク・ブカの後継者争いでは、
アリク・ブカを支持し、フビライの即位後も
元には帰順せず、反フビライの旗を掲げ続けた。
そのもとにはフビライを嫌うモンゴル貴族が集まり、
ジュチ・ウルス、チャガタイ・ウルスと結んで、
反フビライ勢力の盟主となった。
チャガタイ・ウルスを衛星国化し、
ウイグル王国を滅ぼして、中央アジアを支配した。
ナヤンの乱が起きると、モンゴル本土に侵攻するが、
バヤンに敗れ、フビライの軍がモンゴルに来ると兵を引いた。
フビライが死ぬと、反フビライの旗印は存在意義を失い、
モンゴル貴族たちは相次いで元に降伏。
危機感を抱いたカイドゥは全軍を率いてモンゴルに侵攻するが、
カイシャンに敗れて、この戦いで負った傷がもとで死亡する。