王守仁 | 歴史上の人物の能力をシミュレーションゲーム風に、数値化してみるブログ

王守仁

陽明学の祖 (1472~1528) 明帝国南京兵部尚書


【統率】74
少数精鋭をモットーとし、
自分の弟子を中心とした部隊を組織し、
連戦連勝を収めました。
また、地方官を務めていた時は、
民兵を組織して賊の討伐にあたりました。
その統率力は優秀なレベルにあったと考えられます。


【武力】83
兵10万を擁する寧王の反乱を二週間で鎮圧したり、
農民反乱や賊の討伐に奔走し、不敗を誇り、
武勲当代随一と讃えられました。
また、幾多の武将が鎮圧できずにいた
江西、福建、広東の賊を討伐することに成功しました。
その指揮能力は当時の中国を代表するレベルに
あったと考えられます。


【知力】77
辺境を脅かしていたタタールに対する対策を進言して、
時宜にかなったものであると讃えられました。
また、賊に対していきなり兵を用いようとせず、
最初に文章を送って説得し、
しばしば戦わずして降伏させました。
また、戦後処理に力を入れ、
二度と治安が乱れないようにしました。。
その判断力は優秀なレベルにあったと思われます。


【政治】75
地方官としては教育に力を入れ、
学校を建設しました。
また、私財を投じて民衆の救済に尽くしました。
そのため、家族を困窮させたほどです。
また、治安対策にも尽力し、
賊が発生しないようにしました。
その政治力は優秀なレベルであったと思われます。


【魅力】86
その人柄と学問を慕う人々が家の周りに
軒を連ねて住むようになり、昼夜を問わず人が出入りし、
空前の賑わいぶりを見せ、
王守仁が講義を行うたびに、
数百人が聴講するというほどの人気を集めました。
また、賊の中には、彼の人柄にうたれて
降伏する者もいました。
その一方で小人に妬まれ、
生涯彼らの誹謗中傷に悩まされ続けましたが、
これは清廉潔白な彼にとっては、
名誉なことであったと言うべきでしょう。
その魅力は当時の中国を代表するレベルに
あったと考えられます。


明の軍人・政治家
王陽明の名で知られる。

専横を極めていた宦官劉謹を弾劾して
辺境に左遷されたが、
学問の研究を怠ることなく続け、
陽明学を生み出した。
劉謹が処刑されると、要職に起用される。
明代で最も政治が乱れ、反乱が頻発した時代にあって、
寧王の乱を始め、多くの反乱を鎮圧。
その一方で民衆の教育や救済にも努めた。
広西の反乱を鎮圧し、その帰途に病死した。